ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

意地の張り合い

2013-04-24 16:08:59 | テレビを見て
さっきテレビの昼のワイドショーみたいなのをなんとなく見ていたら、

日本と中国のことやなんかをあーだこーだ言っていた。

尖閣問題とか、安部首相や他の議員が靖国神社に参拝したことについての中国や韓国の反応とか・・の話し。

そこに居た人がどちらも意地の張り合いをしてる・・云々と言っていた。

本当にそうだなぁと思った。

赤ちゃんと大人は意地の張り合いをしない。

子供と大人は意地の張り合いをしない。

する大人があるとしたら、それは大人にまだなってない名前だけの大人で、

ようはそれも子供だ。

大は小を兼ねる、という言葉があるけど、

どちらかがもっと大になれば、相手が小になり、小の言うこと、することがわかる。

小の言うことすることがわかるということは、

観察できているということだ。

元、小だった大は小の気持ちがよくわかる。

経験があるから。

小は大をまだ経験してないから、小がわかることしか言えないし、出来ない。

意地の張り合いを先に止められるのは大に決まっている。

子供相手に意地の張り合いはしないのが大人だから。

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「在るがままでいい」

2013-04-24 15:19:43 | ひとの幸福
そう在りたいと思うけれど、

どんな状況だろうと、「在るがままでいい」この境地で居ることの難しさ!!

風呂に入って、凄く高温で火傷しそうになったら、

風呂の湯を張った夫に瞬時に「何で高温のまんまにしとくのっ!!」って、

機関銃をぶっ放しそう。

難しいことだからこそ、やりがいがある・・・?

小さな子供はいとも容易く在るがままで居る。

既になっている人はそんままでいい。

なってない私は・・

そうなりたい、と願ったら、

そうなるような具体的方法を見出さなければならない。

願うだけでなったらいいのだけど。

この本を読むだけで必ず痩せます!

痩せなかったら本の返品可能。全額返金。痩せなかった場合の賠償付き。

・・なんて本があったら必ず買うけどなぁ・・

って思ったことがあるけど。
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連鎖 ②

2013-04-24 14:33:27 | ひとの幸福
あんなふうにされて来たから、

あんなふうにしたくない、って強く思っているのに、

あんなふうになっている自分。

否定・虐待の連鎖。


そういう意識プロセスでそうなっている、という事実に気づくことでしか、

そのことの解決への道はみつからないのかと思う。

・・・一昨日だったかな、こう書いた。

あんなふうに“したくない”と思っていながら、

あんなふうに“なっている”自分。

どういう意識プロセスでそうなってしまうのか・・・

例えを出して考える方が考えやすいので・・

自分のその時その時の在るがままの姿(例えば、疲れて休みたいと言うこと)に対し、

「この仕事は世の中の人に非常に役立つ、急がれているんだ」とか、

「仕事をどう思っているのか・・」とか、

「他にやってる人に対しどういうことか・・」とか、

「ここの社員としての誇りはないのか・・」とかの、

そういった大義名分を表看板にした、他者からの脅迫・制裁を受けること等も、

その時の在るがままの姿を否定される、ということの一つだろう。

自分が他者に対し(当然、自分に対しても)在るがままを否定しないようにと

願っているのだけれど、

しょっちゅう否定的な捉え方ばかりされ、

自分のその時の在るがままを無視され、正しさを大義名文にした制裁を受けて来ると、

願っているわけじゃないのに、自分や他者が

こう行為したら→こう対応する・こう行為する、というパターンが身についてしまう。

在るがままに行為する→否定的言動を受ける、というパターン・プログラムが身に付いてしまう。

体得してしまうのだ。

その体得は何によって崩れるか・・

在るがままで居ることに否定されない体験をいっぱいすることだ。

受容される体験をいっぱいすることだ。

5年も10年も否定され続けていたら、

そうではない環境に身を置いても、自動的に身がすくむ。

理不尽な責められ体験(否定されることの最たるもの?)を、

何年も受けた後、その人物とは会わなくなって何年も経っているのに、

同じような状況の時に、責めたりしない他の人に対しても、

自動的に身がすくんでしまう。

頭ではこの人はこんなことで責めたりしないとわかっていても、

そう“なってしまう”ものだ。

私も体験したからわかる。

そして、自分に対してもそのパターンから抜け出せてないから、

同じような状況の時に自分を自分で責めてしまう。

否定され、責められた傷が癒えてない。こういうのをトラウマというのだろう。

トラウマでよく聞く、殺人事件の現場に立ち合ってしまったとか、

地震の大津波を見たこととか、そういう特別なことでもトラウマは起こるけれど、

日常的な出来事にも心がそうなってしまうことになる現象は多い。


また、宗教的と云えるような組織に居た子供たちのその被害は甚大だ。

そういう閉ざされた組織には大義名分もいっぱいあるし、

本当に巧妙にそれが為される。

そういう子はへたにカウンセリングすると、

余計に傷が大きくなる場合もあるから、慎重に事を運ばないといけない・・

ただただ、ゆっくり休ませてあげないといけない・・・

ということを精神科医から直接聞いたこともある。

傷ついた心の回復にはかなりな時間がかかるけれど、

在るがままでいいという境地に在る、否定的に捉えない人たちばかりの中にただ居ることが、

一番の治療だし、否定の連鎖を切ることになると思う。

そういう人になり合うことが幸福だけの世界になる方法だと思うよ。

病的なトラウマを持った人たちだけのことじゃない。

トラウマなんていうと、そういうことは自分と関係ないと思う人も多いかもしれないけれど、

結構みんな、傷ついている。不安をいっぱい持っている。

あ~思われるんじゃないか・・・

あ~なったらどうしよう・・・

みんな、“正しさ”という旗を降られ、制裁を受けてきた過去の傷が癒えてないことから起こる。

どんな仕事をしようと、どんな活動をしていようと、

遊んでいようと、寝ていようと、

どんな所に住んで居ようと、どんな人と居ようと、何を食べようと、

その時その時、自他のそう在る姿を否定的に捉えない、在るがままを受容する・・・

それは、今居るところでそれぞれがやれることだ。
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否定・肯定

2013-04-23 09:26:20 | ひとの幸福
在るがままを否定されて来たから、

在るがままを否定するようになる。

ましてや、子供時代。

それなら肯定したらよかったのか・・なんていう意見もあるかもしれないけど、

肯定は否定のもう一つ別の顔だ。

コインの裏と表。

「肯定」の意味は同意すること。認めること。価値があると判断すること。

・・と広辞苑にはある。

そういう意味で世の中では使われている。

「同意」というのは同じ意見、賛成するということだ。

「カステラが好きだ、美味しい」というのに対し、

「私も好きだ」は同意、賛成、肯定。

自分がカステラを好きじゃない場合、同意はできないのは当たり前。


「あいつを殺したい」を肯定することは出来ない。同意する気持ちはない。

けれど、その気持ちが在るという事実に対し、

否定肯定なく在ると認識できる意識が「観察」。

朝顔の観察と同じだ。蕾が一個ありました、というような。

あなたはカステラが好きなんだね~

私がそれを好きだろうと嫌いだろうと関係ないように。

在るものを在ると観察できなくする一番は、

善悪の判断なんだろうね。

カステラ好きは許せるけど、戦争は許せないわっ!!!

許さないものは続く。








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連鎖

2013-04-23 08:51:10 | ひとの幸福
結構何年か前の出来事だけど・・・

若い知人が彼女の夫への批判をエンエンと、とうとうと話していた。

それをただ黙って頷きながら聴いていた。

すると、その人ハッとしたように、

「私、自分が一番嫌いだった高校の時の先生(?)みたいになってる。

あんなふうになりたくないと一番思っているのに!

自分がそれと同じことを夫にしてる!」と。


そのひとたちから、そんなふうじゃいけない、そんなんじゃダメだ、

・・って、ずーっと“在るがまま”を否定されて来て、

苦しい気持ちでいたのに・・・・・ということだろうと思う。


本当に連鎖だ。

あんなふうにされて来たから、

あんなふうにしたくない、って強く思っているのに、

あんなふうになっている自分。

否定・虐待の連鎖。


そういう意識プロセスでそうなっている、という事実に気づくことでしか、

そのことの解決への道はみつからないのかと思う。

その“事実が在る”ことを、在ると認識するのは、

その事実をいけないことだと判断するのとは全く異なる。

観察はするが判断しない、という言葉の意味はこういうことだろう。


自分が嫌だと思っていた人になっている、ということを、

いけないこと、ダメな事、とすると又道を間違う。

それは否定の連鎖を又生む。

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ボストン歓喜

2013-04-22 09:26:41 | 新聞を読んで
昨日の毎日新聞の何面だったか、わりと小さな見出しで「ボストン歓喜」。

写真も添えられていた。それをぱっと見たとき、

爆発事件があったボストンで何が歓喜なのだろう???と思った。

写真は大勢の人が路上に居るもの。

「容疑者逮捕を知り、街に出て祝うボストンの大学生ら。

武装した容疑者が逃走中、一般市民は外出自粛を求められていたため、

改めて事件を解決の喜びをかみしめていた。

・・ロイター」・・・とあった。

少し驚いた。

日本で同じような事件があったとして、犯人と思われる人が逮捕されたとしても、

街に出て祝うだろうか???路上にたくさんの人が集まって、

この記事を書いた人が云うような解決の喜びをかみしめる、ということがあるのかな?

と思ったのだった。

そりゃ、爆発を仕掛けた人が逮捕されたのは逮捕されないより、

いろんなことが調べられるのでいいには違いない。

けれど、それは事件解決の糸口にはなるだろうけど、

事件解決というわけでもない。

日本ならそのニュースを聞いて、よかったわ~と思うだろうけど、

その時居たその場からわざわざ離れたりはしないような気がする。

路上には出ないような気がする。

大勢の人が路上に出て、どんな言葉を喋ったりしたのか、わからないけれど、

そういう光景を見てこの記者は、「事件解決の喜び」と捉えて、

そう表現したのか、そうは捉えなかったけど、

上役からこう書けと言われて書きなおしたのか、

その辺の事もわからないけれど、

実際一人一人のその場に居た人が“事件が解決して”喜んでいたのか、

犯人が逮捕されて喜んでいたのか、

外出が出来ることを喜んでいたのか、

わからないことばかりなので、こんなふうにあーだこーだ言えないことではあるけど、

まぁ、違和感を感じた私でありました。
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気疲れ

2013-04-21 17:15:19 | ひとの幸福
気を使う・・のは自分が悪く思われないため、だし、

気を遣う・・のは相手にとっていいように、という思いで・・・

と、昨日かな、書いた。

これは私の解釈で、広辞苑は「使う」も「遣う」も一緒のようだ。

「気疲れ」を広辞苑で見るとあれこれと心配りをして疲れること。

接待で気疲れする。という例が載ってた。

“接待”というのは相手が心地がよいようにという心配りなんだろうけど、

その裏には企みがあるような感じがする。

他の目的があって、その為に接待するのが接待なんじゃないか。

気疲れするのは“接待”だからだろう。

気を使わない相手だったら、肉体疲れはするだろうけど、

気疲れはしないんじゃないだろうか。

自然なことだから。
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鯛焼き

2013-04-21 17:02:20 | 日々の暮らし・思い出
さっきわりと近くに住む夫の兄弟夫婦が用事で来た。

土産に鯛焼きを持って。

この鯛焼き屋さんの鯛焼き、ほんとに美味しいんよ。

今までの人生のなかで食べたどの鯛焼きより美味しい。

やっぱり甘いものが好き。なかなか抜けられない。

でも、砂糖というのは中毒性があるそうな。聞いたことがある。

本当かな?!

甘いものは美味しい。赤ちゃんがわかる最初の味覚は甘さだという。

塩でも本物は甘い、とか云う。

甘いものでも、砂糖が入ってなかったら中毒性はないんだろうか?

甘さを嫌いな人があるんだろうか?

砂糖菓子は好きじゃなくても、自然な甘さ、野菜の甘さとかは誰でも好きなんじゃないかな。

それに、食べ物に限らず。

ひとは誰でも自分を甘やかしてくれるひとを好きなんじゃないかな。

自分を甘やかしてくれるスイーツ。

自分を甘やかしてくれる親。

自分を甘やかしてくれる夫。

自分を甘やかしてくれる子供。

こんなの、いいよね~。

でもそれって中毒性があるのかな??

それ無しでは居られなくなるっていう。

そうかな???

でも世界中の人全部が自分を甘やかしてくれたらいいな。

そうなったら誰でもが甘やかし、甘やかされ状態だってこと。

そうしたら中毒なんて関係ない。

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ソウルメイト

2013-04-21 16:24:50 | 新聞を読んで
「ソウルメイト」・・この言葉を聞いたことがあるけど、どういうことなのか知らなかった。

今日の毎日新聞の書評欄に村上春樹の新しい小説についてが載っていて、

その冒頭に、この言葉が出てきた。

「文学には異性関係を超越したプラトン的ソウルメイト(片割れ同士のような魂の友)が

描かれて来た。

トリスタンとイゾルデ、キャサリンとヒースクリフ、「1Q84」の天吾と青豆・・」

ソウルメイトとはそういう意味だったのか・・・

プラトン的というからには・・・

片割れっていうのは、器などの割れた一片。一つのもののわかれ。

さっき、書いてた、「何があっても・・」という心の姿勢は、

片割れである自分が相手と一つのものになる、という心境・精神なのかと思った。


片割れ同士の魂の友とは・・・

一つのものが真っ二つに割れた片割れ同士は、正反対という感じだけど、

七・三の片割れ同士や八・二の片割れ同士は似通っているところが結構ある片割れ同士なのかと勝手に考えた。

自分とは正反対の、一番引っかかる人が、

魂の友、ソウルメイトなのではあるまいか・・・???

この世で一番引っかかる人と本当に仲よくなったら、

全てオーケーになる。

それ以外なんか、楽勝!?

正直、そうなるまでやれやれという感じではあるけれど・・・!?

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何があっても・・・

2013-04-21 13:57:56 | ひとの幸福
何があっても変わらない友情・・とかよく聞く。

何があっても変わらない夫婦の情・・とは聞かない。

何かあるとすぐ変わる夫婦の情、が一般的かな。面白いね。

けど、「何があっても変わらない友情」という言葉が世の中にある、ということが、

何かあると簡単に崩れる友情、が多いことを示している。

この世にある友情の殆どが「何があっても変わらない友情」だったら、

こんな言葉が言語化されることはないから。

当たり前のことは関心を持たれることもないから、言語化されない。


何があっても関係・間柄が崩れない・・というのは、

ひとの理想の姿かなと思う。

一見仲がよくても、そのひとの行動が変わるとすぐに仲が悪くなるようなのは、

何があっても・・じゃない奴だろう。

何かあったら・・という奴だ。

それがいけないわけじゃない。ただ、そういうことだなと。

「何があっても」というのは意識が相対性、二元性を超えるということかと思う。

宗教組織なんかに属していて、それから離脱すると、

それまであんなに仲良くしてたのに、離脱した人が災難に遇おうと、

困った目に遇おうと知らん振り。

反対にそんな目に遭うのは離脱したせいだ、なんてことを言う手合いもある。

離脱したひとも前に仲良くしてた人をけんもほろろ状態。

・・というようなことをよく聞く。

違いが在ることを当たり前と捉えられないことから来るのかと思う。

二元性の“正しさ”を固く持つと本当に危ない。

仲よくなれない。

金子みすずの「みんな違ってみんないい」という詩は凄いね。


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仲がいい

2013-04-21 13:34:39 | ひとの幸福
本当に仲がいい・・とはどういうことか???

北朝鮮とアメリカが仲がいい・・ということは凄いことだと書いた。

それはアメリカとフランスが仲がいいなんていうレベルのことじゃないと思う。

趣味が同じで仲がいい、なんていうことはよくあると思う。

そういうのは仲良くなりやすい。

よく価値観が一緒だと夫婦がうまく行くとかいう。

価値観の違いで別れたなんてこともよくある。


北朝鮮とアメリカが仲がいい、というのはどういうことか・・・

人と人、国と国、違いがあるのは当たり前なんだけど、

その違いを認められることが“仲がいい”の始まりかなと思う。

何故違いを認められないかといえば、

自分と違うものをダメとする考え方、

自分の考えを正しいと突っ張る気持ち、

・・があるからじゃないかと思う。

これがあると仲よくなれない。

ものの見方がそれぞれなのは当たり前のこと。

一人一人全く違う世界を生きている、そのことが心底わかる人が増えると、

世の中はもっと穏やかになるのかなぁと思う。


仲がいいとは、違いが在ることを認められるもの同士になること。

いま、同士と書いたけど、片一方が真にそれを認めると、

認められなかった一方も必ず相手を認めるようになる。

そこが心理の面白さだ。



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喧嘩腰

2013-04-20 16:09:08 | ひとの幸福
北朝鮮の金正恩さんがなにやら攻撃的な言葉を発している。

それに対し、国としてはいろいろ対策をしなければならないのだと思う。

もし、ということを考えるから。

この前の毎日新聞の何欄だったか忘れたけど、

この騒ぎで北朝鮮はあまりお金を使ってないけど、

アメリカは物凄いお金を使ったそうだ。軍備の整備やらなにやらで。

攻撃的という元はどんな場合でも守りだし、“不安”だと思う。

何も不安がなければ他者を攻撃などしない。


「ストーカー事件を起こした人を救うことでしか、

妹(殺されてしまったひと)を救う事は出来なかったのではないか・・」

これは昨日このブログに載せた、ストーカー事件で妹を殺された神奈川県の人の言葉だけど、

それと同じことが北朝鮮にも云えるかと思う。

殺した人を厳罰することでは解決にならないのと同じように、

北朝鮮を厳罰することでは解決に至らないのだろう。

もし、ミサイルが飛んできたら・・と考えて、

人間がそれによって怪我しないように、殺されないようにとするのは当たり前のことだし、

上に書いた考えとは別のこと。

北朝鮮を救うとはどういうことだろうと考えると、

不安が解消されることかなぁと思う。それもいっときだけのものではなく。

それも、あーしたらこうしてやるとかの損得抜きの。

アメリカが核を持っていながら、相手に核を持つなというのは

どう考えてもおかしいし。

そんなやり方して不安がなくなるわけがないよなぁ、と思うのは自然な感覚だと思うんだけど。

それに体制を一挙に変更させられるという不安もあるんだろうな。

“正義”が大好きなアメリカがしそうなことだし・・・

あまり政治の事はわからないんだけど、

ひとのこころは幾らかわかるから、こんな事書いた。
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夫婦関係

2013-04-20 11:10:41 | ひとの幸福
さっきこれを書いた。その前の文章を書いてるうちに出て来た。

・・・全くの他人である夫婦が本当に仲がいいというのは凄いことだと思う。

それも正反対といえるような夫婦だったら。

北朝鮮とアメリカが仲がいい、というほどのことだと思う。


これを書いてから、山岸さんの或る時の様子が書かれた文章を思い出した。

彼と奥さんが何かトラブル?があって、

解決のための考えか何かを、話している時だったか、

なにかの業務をやり始めた場所にすぐ来て欲しいとか言って来た人があったけど、

彼はそれどこじゃないとそれを断ったというエピソード。

その業務は結構大事だと思われていた業務だったようだけど、

そんな業務より、夫婦が本当に幸福な関係になることの方が大事。

それは二人だけの関係改善だけで終わるものじゃないからだろう。

そのことを通しての意識観察、検査(あえて検討と書かない)、思索が大事。

そしてそれは必ず行為行動に繋がる。

一つ本物が出来れば、それは必ず世界中に拡がると、彼は本気で思っていたと思うし、

私もそう思う。


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自分優先 ⑥の2

2013-04-20 10:00:04 | 日々の暮らし・思い出
義父の事をある意味「憎まれっ子世にはばかる」なのかと書いたけど、

義父はどう見ても世の中の人に憎まれてはいない。

ただ、亡くなった義母には相当憎まれていたよう。

こんな穏やかないい人に対してなんでそんなに邪険にするんだろう?????

・・と私は思っていた。

近い関係の義母からはそう思われていた・・ということで、

こういう諺を思い出したんだけど、その諺の意味はもっと別のことなのだろう。

義母はひとに気を使わせるタイプの人間だったかと思う。

義母はひと・相手に非常に気を使っていたから、そういうことになったし、

義父はひとに気を使わないから、ひとも彼には気を使わないで接することが出来る。

そう、彼はひとに気を使わせないタイプ。

それは自分が悪く思われるんじゃないか、という不安がないからだろうと思う。

幼少時、ひとからそれほど批判非難されて育ってないのかもしれない。

元々の資質もあるだろう。


つい、念のために言うけど、「気を使う」と「気を遣う」は異なるよ。

義父は気を遣うけど、気は使わない。

気を使う・・のは自分が悪く思われないため、だし、

気を遣う・・のは相手にとっていいように、という思いで、

それは自分がどうこう思われるのではないかという不安はないもの。

誰であってもそのひとの傍に居て気楽に感じるのは、

そのひとが自分に気を使ってないから。

気遣い、心遣いは嬉しく感じるものだけど、

気を使われるのは居心地があまりよくないものだ。

けど、気を使ったことで衝突が避けられることもこの世にはあると思う。

義母は自分の夫には気を使うことはなかったので、

真っ向から衝突したのかなと思う。

夫婦という関係は本当に微妙に面白いもんだ。

人間が幸福になるための観察・考えるに面白いいろんな材料が転がっている。

全くの他人である夫婦が本当に仲がいいというのは凄いことだと思う。

それも正反対といえるような夫婦だったら。

北朝鮮とアメリカが仲がいい、というほどのことだと思う。
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「私の人生観の変遷」

2013-04-19 15:22:07 | 本を読んで
湯川博士の「創造への飛躍」という本の中の章。このネーミングは。

第一部 開放的世界観 の中の一番最初の章。

湯川博士の尊敬する、影響を受けた人のなかにマックス・プランクとアインシュタインがいて・・・

ざっとこんなことが書かれてあった・・・以下。

その二人に共通する所のものがあり、それは人間として非常に単純な所と、

理想主義的だったということ。

元来理想主義的であるということは、

一面からいうと非常に単純で素朴なことを意味している。

他の学者の方が考え方が細かく、また豊富な才能を持っているように思われるけれども、

ところが、実は単純な考え方をしているプランクやアインシュタインの方が

物理学で大きな実績を残している。

学問をせずに現実世界で当たり前の活動をしておったならば、

あるいは人に馬鹿にされるだけで終わるようなタイプの人が大学者になることもある。

非常に複雑なこみいったことに処していけないようなタイプの人がかえって成功することがある。

これは一つには理論物理学の求めているものが、

単純なそして根本的なものだからだろう。

自然現象はいろいろあって、複雑怪奇にみえるけれども、

深く探っていくと、非常に単純な根本原理に到達できる。

(これは彼の『真実』という文章を思い起こさせる・・私の口出しです)

理論物理学者はこういう信念を持って研究している。

二人はそういう単純な原理というものを

一生懸命に捜し求めてついにそれを見つけだした。

そういう人たちの精神にある単純さがあったことと、それに徹底した、ということによってかと。

・・・以上。


以前にこの本を読んだ時にはこの箇所に関心が向かなかったようだ。

記憶に残ってない。

サイドラインも引いてない。

関心が向いたところには自分の本だからアンダーラインやサイドラインを引くけど、

それもないから。今回読んで、

野矢茂樹さんという学者の「心と他者」という本を読んだときに感じたことと

共通するな、と思った。

この本は超面倒くさい文章の羅列だった。シンプルじゃなかった。

私の無学のせいもあると大いに思うけど、

心と他者・・これを考えることで何をしたいのかがないから複雑になるのかと思った本だった。

何をしたいのか、がハッキリすると研究の道も違ってくるはずだ。

研究のための研究なのか。

幸福のための研究なのか。

軸があるとそれからぶれないようにするもんだけど、

軸がないから何を拠りどころに考えたらいいのかわからなくなって、

迷路を彷徨う。複雑になる。

そうじゃないかなぁ。



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