用事を終えて家に戻ると、なんやら夫と義父が話している。
「どうして聞いてからやらんのかなぁ・・」と夫の声。
昨日、私が鉢植えの植え替えをしたとき、
中に水はけのよいようにと入れてあった何枚かの鉢のかけらを、
又使うためにちょっと庭の花台に置いてあったのを、
義父が浜に捨てに行ったらしい。
物置にしまってあった他の鉢のかけらも一緒に捨てたらしい。
義父にとってはゴミにしか見えなかったのだと思う。
夫から話を聞くと、「あんなもの邪魔だ」と言ったそう。
そこの花台は裏庭にあり、誰も通るところでもないし、
何か物を乗せる用もないし、誰かの行動を邪魔するということはないのだけれど、
義父にとっては目の邪魔だったんだろうと思う。
昨日の午後からしか乗ってなかったのだけれど・・
でもまぁ、邪魔くさく見えたのだろう。“ゴミ”なので。
勝手に捨てないで下さい、なんていう台詞は役に立たないので、
「使いたい物なので、拾って来たい。
浜のどこら辺に捨てたのか教えてください」と筆談に。
すると義父はいかにも残念そうな顔をして、
「重いのに二度も浜まで捨てに行ったのに・・せっかくやったのになぁ・・」と。
聞いていて可笑しくなってしまった。
「あんなもの、なんにもならんのになぁ」とも。
勝手な事したとかの気持ちなんてかけらもないよう。
義父は究極のマイペース。いつも自分優先。
彼は常にマイペースなので、やはりそういう人は他者のマイペースも無意識のうちに認めているふうに私には見える。
けれど、他者がそれなりの気持ちでやった事(他者のマイペース)と、
自分のマイペースが一致しない事柄についても、
自分を優先する、という原則は曲げないようにみえる。
私が朝寝坊していて10時くらいまで寝ていても、
それについて一切何とも言わない。
文句言いたいオーラも感じたことはない。
具合が悪いかどうかだけは気になるようだ。
朝の早い時間でも、自分が用があるときは何時だろうと声を掛けてくる。
こんなに朝早くは・・なんて配慮はない。
自分の気持ち優先である。
自分の気の済むようにする。
そんな用事で起こさないでほしい、とこちらが言っても、
あぁ、そうか、と言うけれど、その後に変化はない。
この具体例は何回もあったわけじゃない。ただわかりやすい例だから載せた。
自分のペースでやろう、とか自分の気持ちを大切にしたいとか、
そんなことを意識的に思っているわけじゃないだろう。
彼は“そうなっている”。
私がコレコレこういうふうに使うので・・と筆談で説明しても、
首を傾げている。そんなわけがない、おかしいなぁ、みたいな顔をしている。
そんなことを言う私を非難してるわけじゃない。
あくまで自分の気持ちを表現してるだけ。
ただ、鉢のかけらをゴミとは見ない人が居るということがわからないようだ。
そんなこんなの義父を観ていると、
自分のものの見方が絶対になっている・・のではないかと思う。
ひとにはひとの見方がある、
ひとは誰でもそれなりのわけがあって、いろいろな事をしている、
ということがわかってないように見える。
それは自分は自分の見方でものを観ている、という自覚がないせいなのかと思う。
庭に植えた花を雑草だとして取ってしまったり、
夫が畑から丹念に出した小石を畑に入れたり、
そしてそれについて夫が結構抗議してるけど、屁の河童状態。
なんでそういうことを言われるのかわからない状態。
なんで聞いてからやらんのかなぁ、と夫はいつも言うけど、
聞く、ということが出来るのは、
相手には相手の都合がある、相手は相手のそれをどう観ているかがある、
ということがわかっていればこそだ。
これは彼の悪口じゃないのはわかってもらえると思う。
彼は“彼として”自分優先の生き方をしてると思う。
だから本当に他者を非難することがない。
だから、肌つやもいいし、老いてはいるけど、
これといってどこも悪くない元気な96才なんだと思う。
この世に「憎まれっ子世にはばかる」という言葉があるけど、
ある意味、彼のようなこういう感じの人のことをいうのかと思った。