ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

きょうの言葉

2013-04-19 14:01:06 | 新聞を読んで
毎日新聞の2面に「きょうの言葉」という縦1行の欄が4月から出来たんだけど、

今日の「きょうの言葉」は・・・

「厳罰化で根本解決になるのか。

犯人を救うことでしか妹を救えなかったのでは。


神奈川県逗子市で昨年11月

ストーカーの男に殺害された三好梨絵さんの兄41才。」

・・というもの。

詳しい事件内容は知らないけれど、このお兄さんと全く同じ考えだ、わたしも。

こういう考えの人はこれからどんどん増えると思う。
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自分優先 ⑥

2013-04-19 13:40:22 | 日々の暮らし・思い出
用事を終えて家に戻ると、なんやら夫と義父が話している。

「どうして聞いてからやらんのかなぁ・・」と夫の声。

昨日、私が鉢植えの植え替えをしたとき、

中に水はけのよいようにと入れてあった何枚かの鉢のかけらを、

又使うためにちょっと庭の花台に置いてあったのを、

義父が浜に捨てに行ったらしい。

物置にしまってあった他の鉢のかけらも一緒に捨てたらしい。

義父にとってはゴミにしか見えなかったのだと思う。

夫から話を聞くと、「あんなもの邪魔だ」と言ったそう。

そこの花台は裏庭にあり、誰も通るところでもないし、

何か物を乗せる用もないし、誰かの行動を邪魔するということはないのだけれど、

義父にとっては目の邪魔だったんだろうと思う。

昨日の午後からしか乗ってなかったのだけれど・・

でもまぁ、邪魔くさく見えたのだろう。“ゴミ”なので。

勝手に捨てないで下さい、なんていう台詞は役に立たないので、

「使いたい物なので、拾って来たい。

浜のどこら辺に捨てたのか教えてください」と筆談に。

すると義父はいかにも残念そうな顔をして、

「重いのに二度も浜まで捨てに行ったのに・・せっかくやったのになぁ・・」と。

聞いていて可笑しくなってしまった。

「あんなもの、なんにもならんのになぁ」とも。

勝手な事したとかの気持ちなんてかけらもないよう。

義父は究極のマイペース。いつも自分優先。

彼は常にマイペースなので、やはりそういう人は他者のマイペースも無意識のうちに認めているふうに私には見える。

けれど、他者がそれなりの気持ちでやった事(他者のマイペース)と、

自分のマイペースが一致しない事柄についても、

自分を優先する、という原則は曲げないようにみえる。

私が朝寝坊していて10時くらいまで寝ていても、

それについて一切何とも言わない。

文句言いたいオーラも感じたことはない。

具合が悪いかどうかだけは気になるようだ。

朝の早い時間でも、自分が用があるときは何時だろうと声を掛けてくる。

こんなに朝早くは・・なんて配慮はない。

自分の気持ち優先である。

自分の気の済むようにする。

そんな用事で起こさないでほしい、とこちらが言っても、

あぁ、そうか、と言うけれど、その後に変化はない。

この具体例は何回もあったわけじゃない。ただわかりやすい例だから載せた。

自分のペースでやろう、とか自分の気持ちを大切にしたいとか、

そんなことを意識的に思っているわけじゃないだろう。

彼は“そうなっている”。


私がコレコレこういうふうに使うので・・と筆談で説明しても、

首を傾げている。そんなわけがない、おかしいなぁ、みたいな顔をしている。

そんなことを言う私を非難してるわけじゃない。

あくまで自分の気持ちを表現してるだけ。

ただ、鉢のかけらをゴミとは見ない人が居るということがわからないようだ。


そんなこんなの義父を観ていると、

自分のものの見方が絶対になっている・・のではないかと思う。

ひとにはひとの見方がある、

ひとは誰でもそれなりのわけがあって、いろいろな事をしている、

ということがわかってないように見える。

それは自分は自分の見方でものを観ている、という自覚がないせいなのかと思う。


庭に植えた花を雑草だとして取ってしまったり、

夫が畑から丹念に出した小石を畑に入れたり、

そしてそれについて夫が結構抗議してるけど、屁の河童状態。

なんでそういうことを言われるのかわからない状態。


なんで聞いてからやらんのかなぁ、と夫はいつも言うけど、

聞く、ということが出来るのは、

相手には相手の都合がある、相手は相手のそれをどう観ているかがある、

ということがわかっていればこそだ。


これは彼の悪口じゃないのはわかってもらえると思う。

彼は“彼として”自分優先の生き方をしてると思う。

だから本当に他者を非難することがない。

だから、肌つやもいいし、老いてはいるけど、

これといってどこも悪くない元気な96才なんだと思う。


この世に「憎まれっ子世にはばかる」という言葉があるけど、

ある意味、彼のようなこういう感じの人のことをいうのかと思った。











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マインドコントロールじゃない

2013-04-18 09:24:14 | ひとの幸福
昨日なんじゃらかんじゃらこのことを書いたけど、

私のあの経験はマインドコントロールされてた、ということじゃないなぁと思った。

コントロールしてた人は居なかったのだから。

自分の意識の中でそうなってた。

自分の中のいろんな価値観、ものの見方に気付くという体験、

目からウロコ体験と云ってもいいけど、

こんな見方をしてたから心が不自由だったんだぁ、というような気付き、

を体験するということは、

それまで無意識に持ってたその見方が在った、という発見だ。

在ったものを在ったと認識できた、ということ。

それまでは在ったけれども、認識がなかったから無いのと同じで、

自分の行為は変わらない。山奥に金塊が在ってもそれを知らなかったら、

自分の行為は何も変わらないのと同じで。

けど、在った!という発見はそれをそこから取り去るということが心で起こる・・・

・・んじゃないかと思う。

その結果、その部分は真っ白な何もない状態になる。

そのときの脳波は通常成人のアルファー波やベ-ター波じゃなくて、

3,4歳の子供の頃の脳波(何波だったか忘れた)になっているんじゃないだろうか。

いわば、判断不能、鵜呑み状態の脳波。

そこに健全な見方がするっと入ったら問題ないはずなんだけど、

高揚してる意識状態だと・・・

今までが間違ってた!となって、今度は“それが正しいっ!”になりやすい。

なんせ意識は相対的に捉えるという仕組みになってるからね~

そして、その結果、またいろんな経験をして、失敗しては気付き、

失敗しては気付き、実践することで、

そういう過程のなか、方向としては相対性、二元性を超えるという意識体験をするようになるのかなぁと思うよ。

さて、どうなんでしょうか・・
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気配

2013-04-18 08:40:02 | 日々の暮らし・思い出
今、パソコンに向かっていたら、後ろの方で何か気配がする。

夫と義父は畑に行ったし、私以外この家に誰も居ないのに・・・!?

そっと後ろを振り向いたら・・・・

なんとツバメが飛んでいた!

暖かいので窓をあちこち開けているので入ってきたんだ。

最近飛んでいるし、近所の家にある巣にもご在宅なことがよくある。

この家に建て替える前の昔の家にはツバメが家の中に巣をつくり、

夕方、窓や玄関を閉める時に、まだツバメが帰って来てないから、

玄関は開けておくようにと、夫は母親に言われたそうだ。

なんて凄いんだろうと思う。

でもこの家ではそうしたくないよ。

軒下ならいいけどね。
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挨拶

2013-04-17 16:34:36 | 日々の暮らし・思い出
娘が来てる時、一緒に食堂に入った。

席に座り、ウエイターの人と話してるとき、

「あれぇ!こんな所で遇うなんて(^^)」とニコニコと近所で仲良くしてる友人。

ちょっとだけ話して、彼女は自分の席に戻った。

彼女は連れと一緒で私たちより少しだけ後でそこに来たよう。

食事が終わり、娘と外へ出た。

その日の夜になってからだと思うけど、娘が言った。

あそこを出るとき、お母さん、友だちに声も掛けずに出たね~と。

それを聞いてびっくり。

食堂を出るとき、私は彼女がそこに居たことなど全然意識に無かった。

いわゆるすっかり彼女の存在を忘れた。

昨日だか、夫がその友人宅に筍掘りに出かけ、そこで彼女も言ったという。

あーいうとき、一言挨拶するのが常識でしょうと。

全くあんたの奥さんは・・・悪気はないことはわかっているんだけどね~

彼女のこの発言にも悪気はないことが私にはわかる。

悪気がないから言えるわけで。

彼女はメールの返信をしない私のことも文句を言う。

私もそれにへへと笑うだけだ。それで二人の間に何の問題もない。

もし、その食堂で遇った人が近所のちょっとうるさいKさんだったら、

その人の存在を忘れることはなかったと思う。

いわゆる気を使わないと許してもらえないような人には、

ちゃんと自動的に無意識的に気を使うわたしだ。

物事は相互作用で、なる、もんだとつくづく思うし、

キメツケを持っててもなんの問題もないと思う。
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自分優先 ⑤

2013-04-17 16:12:23 | ひとの幸福
自分の気持ち・自分だけのことをいつでもどこでも何よりも優先・大事にしてる人は、

オウム真理教に遇っても、あのような展開に引き込まれなかったろうと思う。

社会というものを自分と離れた存在だと認識してる場合に、

社会をよくしよう、変えよう、という発想になる。

自分と離れた「社会」なんて無い。

社会は自分。在るのは自分。
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どうしてマインドコントロールが起こるのか?

2013-04-17 15:47:26 | ひとの幸福
「洗脳」と「マインドコントロール」はどう違うのか???

マインドコントロールとは、広辞苑によれば、催眠法によって、

個人や集団を“被暗示性の高い状態”に導き、

暗示によって特異な記憶や思考を生じさせること。

・・だという。(“ ”は私がつけた。)

される側で云うと、

意識的な繰り返し教え込まれる体験(洗脳)とは違うと思う。

タレントのオセロの中嶋さんという人がマインドコントロールされ、

それがまだ解けてない・・と精神科医の香山リカさんが言ったとかの、

記事を週刊誌でさっと読んだ。真面目に読まなかったので、

中嶋さんは催眠を受けたのか、受けてないのか知らないけど、

催眠など受けずにもそのような状態になるのではないかと思う。


自分の経験でも後になってあの時のあの感じは、

マインドコントロールされてる状態だったのではないかということがある。

けど、その時の相手側は悪意も、マインドコントロールしようという意図も一切なかったと思う。

オウム真理教の信者に起こったこともそうだったと思う。

そうしたことが起こるのはどういう意識プロセスによって起こるのか、

観察し、考えたい。

マインドとは心。心は表面意識の思いや考えではない。

心とは状態を示す言葉である。

状態をコントロールさせられるとはどういうことか??

広辞苑には、被暗示性の高い状態に導き、とある。

この被暗示性の高い状態とはどういうことかというと・・

3,4才?くらいまでの小さな子供の脳波は大人の脳波と違って、

非常に暗示を受けやすい脳波だという。

(この研究発表はどの本にあったか、今はっきりと名前は記憶にないけど、

このブログにも以前載せたことがある。科学誌に発表されたものだったと思う)

その頃の子供はそう在ることで正常に成長できるのだろう。

こういう表現も出来る。子供の真っ白な心はなんでもそのまま受け取ってしまう。

虫を指して「これは花だよ」と言えば、「そうか、花なのか」となる。

それは疑うことなどできない意識の状態である。

疑ることが出来るのはそれ以外の知識や情報が潜在意識に既にあるからこそ出来るものだ。

それ以前の知識がない状態の子供の意識(脳)には

どんなものでも「あー、そうか」と入るようになっている。

三つ子の魂百までも、という諺はこの頃入った知識はずっと百までも持ち続ける、

というようなことを云っているのかと思う。

マインドコントロールがなかなか解けない、というのもなるほどという話だ。

虫を「花だ」と教えられるということは、

それは「これは花というものである」という見方が身に付くということである。

そのもの(事実は虫)を見て、「花」と捉えるようになる、ということ。

見方、捉え方、解釈(ほとんどこれは無意識的に働いている場合が多い)を持っていたことに何らかのキッカケで気づくと、

(キメツケが外れるという言い方をしてもいい)

それが解かれた状態になる。

所謂、その事に関して意識が真っ白な状態になる。

そこに新しい知識を示されると、被暗示的になっている意識にスコーンという感じで、

それが入る。

新しい「これは~こういうことなのか」が新たな見方、捉え方となって固持される。

マインド、心は、アレが美味しい、これは不味いなどというその場だけの思いとは違う。

それはものの見方、物事の捉え方である。

自分を産んだという人のことを「親」というのも、ものの見方、捉え方である。

例えばの話しだけど、

「親」として付き合っていた人のことを、

その人は「親」ではないという証拠のような材料を目の前に次々に出され、

それが事実のように思ってしまうような内容だと

その人は自分の親である、という捉え方が揺らぎ、

この人は他人であるという見方に変わる可能性もある。

すると、さっきまで「親」と見ていた人が「他人」に見える。

すると人生が変わってしまう。

これを作為的にやるとしたら、マインドコンロールする、と言うんだろう。

ひとの見方を変えようとするのをマインドコントロールする、というのだと思う。

でも、悪意作為無しの場合でも、頑迷な窮屈な不自由なものの見方が何かのキッカケで外れると、

それまで在った見方が何も無くなり、

何もないところにその直後入った考え・見方がでんと居座る。

以前の見方をしていた時は不自由だったという発見もあったことによって、

新しく入ったものの見方に「この見方が正しい」という判断もガーン!と入る。

そしてそれ以後、その正しさに目がくらみ、それ以外を排除しようとすることになる。

ひとはみな正しさに惹かれるものだから。

善を求めるものだから。

オウム真理教の信者の意識に起こったことはこういうことだったのではないかと思う。

東大出や京大出なんかの頭のいい、心優しい人がそうなった。

麻原彰光さんも決して悪意はなかったと思う。

サリンを撒いた人も悪いことをしようとしてしたのではなかった。

それはそのひとにとっては“よいこと”だった。

けれど、その瞬間一抹の思いの揺れはあったという。

それを優先すればあんなことにはならなかった。

瞬間の自分の気持ちを優先せずに、

これは世の中をよくするためという人の考えを優先した。

自分の気持ちと世の中をよくすることが一致していたら、

揺れる思いなど生まれない。

自分の意識にほとんど無自覚状態だとこういうことになりやすいのかと思う。

自分はそんなマインドコントロールなんか絶対されない、と表面的に思っていても、

結構みんな危ない。

目を瞑って歩いているような人は危ない。

無意識的に生きていると危ない。

実際いろんなものの見方が崩れるようになくなると、

行動の指針を失って、精神に異常をきたす場合があるから、

そういう時は特に気をつけないといけない。

きちんとフォローする人が傍に居ないと危ない。





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洗脳

2013-04-17 10:57:04 | ひとの幸福
「洗脳」という言葉の意味を調べてみると、

新しい思想を繰り返し教え込んで、それまでの思想を改めさせること。

第二次大戦後の一時期、中国の思想改造を brain washing と評したものの訳語か。

・・と広辞苑にある。

日本の第二次大戦後の学校で教科書に墨を塗らせたのも、

民主主義思想を繰り返し教え込んで、それまでの思想を改めさせること・・

・・だった、と云えるだろうと思う。

あれも「洗脳」である。

いや、あれは正しい思想に・・云々の意見もあるのだろうけど、

意味からすれば「洗脳」には違いない。

「考えが変わる」ということがその人の中で自然に起こるのは洗脳とは言えないんだろう。

他者が意図的に「改めさせること」・・これが「洗脳」で、

自然に自ら考えが変わるのはただ「変わる」。

「洗脳」がよいとか悪いとか、

戦後の墨塗り教育は正しかったのか、間違ってたのかなんて言えないのだろうと思う。

せざるを得なかった、苦肉の策、だったのかと思う。

その時点ではそれより他に仕方がなかったのだろうと思う。

けれど、これは言えるんじゃないかな。

「洗脳」って、不自然。
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畑・山・庭

2013-04-14 15:37:07 | 日々の暮らし・思い出
畑に行き、サヤエンドウと葉タマネギと菜花の収穫。

サヤエンドウは出始め。菜花はもうおしまいの頃。

冬の畑からすっかり春の畑になった。

スナックエンドウも段々太って来た。採るのはもう少し太ってからにしよう。

一昨日買って来たブーゲンビリアの苗も、

畑のガーデンと呼んでいるコーナーに植えた。

薄ピンクの花?がきれいに咲いている。

ここらは暖かいから外で大丈夫かな?と思ってるんだけど、どうだろう。

近くの家の山側の庭でその斜面にこの花がびっしり咲く。

山側で風が当たらない場所だから咲くのかもしれないけど。

植えてしまったけど、冬になる前に移動した方がいいのかもしれない。

もう少し調べてみよう。

畑の後、山沿いのバイパス新国道を歩いた。新緑で山がモクモクと太って来てる。

すごく美しい!

そんな山を満喫しながら歩いて家に。

庭は今、モッコウバラが咲き乱れている。なんて美しいんだろう。


さぁて、今晩はなににしようかなぁ・・

エンドウで卵とじしようかな・・

葉タマネギは一昨日豚ばら肉と炒めたら美味しかった。

又それにしようかな。

続いてもいいや。

それにしても最近の食卓の野菜は全部我が家の畑出身だ。

酢漬けの大根、里芋煮、菜花の煮びたし、茹でブロッコリー、

味噌汁のわけぎ、キャベツの即席漬け、ポテトサラダ、

我が家出身の野菜なんてことが意識ではまだ当たり前になってないから、

こんなところで書いてる。

生まれてからずっと、うちで採る野菜を食べてる人は、

全部我が家のもの!なんて意識しないだろうね。

毎瞬毎瞬一日中一年中幸福だったら、そんなこと言語化しないだろうね。

世界中のひとがいつも全員幸福な時がやって来たら、

小説なんて消えるんだろうかね~。

まぁ、でもそれまでは小説も含めて必要なものは多いだろうなぁ。

それを楽しんで生きていこう。
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友人

2013-04-14 15:00:59 | 日々の暮らし・思い出
昨日のブログを読んだ友人がメールをくれた。

この友人はいつもこのブログを読んでくれている。

これを書くのは書くことで考えることをしたいからしてる。

わざわざ公開することないといえば云える。

けど、公開したくてしてる。

昨日の文章がすっと入ったって、友のメールの文。

とても嬉しい。

一人でもそんなことを思う人がいると思うと、公開しててよかったなぁと思う。

反対にこんなの読んだばっかりに嫌な思いをするという人もなかにはいるかもしれないね。

それもしかたない。
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自分優先 ④

2013-04-14 12:49:26 | ひとの幸福
自分を大事に出来なくてどうして他者を大事に出来るだろう・・・

自分を愛せなくてどうして他者を愛せるだろう・・・

自分が幸福でなくてどうして他者を幸福に出来るだろう・・・

みんなみんな・・

他者と自分は一つのものだという前提があることを窺わせる言葉だ。

けれど、自分のことしか自分では出来ない。

他者のことは他者がやる。


聖書の大文字の神GOD・ヘブライ語のYHWEの意味は

「すべてのものにわたしはなる」。

ひとが“すべてのものにわたしはなる”状態になったときが、

至福という瞬間なのかなぁと思う。


人間はひとであって、神ではない。

私は私であって、誰某さんじゃない。

誰でもが“すべてのものにわたしはなる”そういう瞬間、そういう意識状態が

一日24時間のうちどのくらいか在る。


そういう“状態”が神ではない人間にもあるということだろうと思う。


山岸さんが云った「条理と相対者を切り離して・・」の言葉がどういうことなのか、

折に触れ、いろいろ浮かんで来たけれど、

たった今はこう思う。

相対者である人間は相対者であることから抜け出すことは出来ない。

暑さも寒さも感じられる。空腹にも満腹にもなれる。

絶対者にはなれない。

けど、絶対的境地になる瞬間はある。

そういう“とき”が増えるといいなぁとそれなりに努力したくてしてる自分だ。


さっき、湯川博士の文章を載せたけど、その中にちょうど、

こんなのがあった。

「常に自己の相対性を反省しつつ、

一歩一歩絶対的な真理に近づこうとする努力の中にこそ、

科学の本質が見出される」
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自分優先 ③

2013-04-14 10:52:44 | ひとの幸福
結婚式で面白くない話の長い人は鬱陶しがられる。

けれど、聞いてる振りをする人が居る。

話す方は聞いてもらってると思うから話し続ける。

今までがそうだったんだろうと思う。

そしてあの人ホントに空気読めない人でイヤになるよ、と悪態つかれる。

気の毒だと思う。

悪態つく方は自分を優先してないから、

悪態つくことになる。

聞きたくない話を我慢して聞いている(ホントは聞いてない)から。

聴きたいと思わない時は席を立つことにしてる人もある。

そういう人はイヤだという空気は発さない。

我慢しないから。

我慢することで発生する、イヤだという空気を自分から発し、

その空気を読めない人を馬鹿にする空気を発する人もある。

結局悪口の多い人は自分を優先していない。

これも気の毒なことだ。
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自分優先 ②

2013-04-14 10:32:37 | ひとの幸福
何かしてる時、誰かに「そこに居るんなら、ついでにアレやっといてぇ」なんて気軽に声かけられる。

気軽に声かけてもらうことは嬉しいことだ。

あの人になんか言うと後が恐ろしいなんて思われるよりはね。

けど、その時、今コレやってるんだから、アレは出来ないよ~って瞬間思っても、

その次の瞬間に、ついでといえばついでだしなぁ・・とか、

あの人にこの前よくしてもらったしなぁ・・とか、

あの人にこの間、迷惑掛けたしなぁ・・とか、

そんな心理が働いたり、して

今やってるコレを置いて(自分を優先しないで)、

相手のアレを自動的みたいな感じでやってしまうことがある。

けれど、そのとき、相手のアレをやることにした自分の意識に自覚・納得があれば、

そうすることを納得してやるのだから、

後でそれをしたことが“キッカケ”で不都合が起きても、

自分が納得してやったことだから相手を恨むこともない。

けれど、無意識的に自動的にやると、

相手がアレやってと言ったから自分のやるつもりのことが出来なくなった・・

とかの思いになりやすい。


でも、歴史、社会の中でそうなって来たんだから、それはそれで仕方のないこと。

否定する理由なんかないよ。

そんな自分を慈しんで受け止めてあげたいね。
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自分優先

2013-04-13 14:09:40 | 日々の暮らし・思い出
さっき娘を最寄の駅まで車で送った。

最寄と言っても車でゆうに40分。約40キロなんだけどね。

先月から義弟、娘と続いて20日間くらいの長逗留。どちらも家族みたいなもんだけど、

そういう人たちが居なくなったこの静けさ。

また、いつものリズムの暮らしが始まる。

娘との1週間は実に得がたい一週間だったよ。

怒涛の一週間だったかもしれないなぁ。

結果的に昨日今日と本当に魂の響き合う話が出来たよ。

そしてさっきその娘から携帯にメール。「親離れしたんだろうか・・」

人生はどの時も、“続く”。決して“終わり”にはならない。

(死の時も“続く”・・・かなと思っている。)

この娘との何幕目かが終え、次の舞台に移る・・そんな感じ。


今回の一週間で二人で一番話題になったのは「自分優先」だった。

誰でも、どの一瞬も自分の思いを最優先すればいい。

自分を抑えたり、我慢すると、ろくなことにならない。

誰でもその瞬間の自分の気持ちをきちんと拾い上げ、(自覚し)

それを軽く出していけばひとを恨むこともない。

親のレールにうまうまと乗せられ、自分を殺して来た優等生がいきなり親を殺したりするのも、

そういうことだろうと思う。

自分の気持ちを尊重しないで暮らしていると、結局は相手を恨む。

世界の幸福、社会の幸福は、それぞれの“自分”の幸福から始まる。

この社会は“自分”の集まりだから。

世界の60億人の自分が、瞬間瞬間の自分の思いを最優先すればいい。

ということは・・他の人の思いの管理人はその人。その人以外はやれない。

そのひとにやってもらうしかない。

委ね合い・委し合いとはそのこと。

自分のことを自分のやりたいようにやって来た人はひとのことに干渉しないし、恨むこともない。

なんでも自分の為にやるひとはひとを恨んだりしない。

自分より他者を優先すると苦しむことになる。

面白いね~。

「ひとのため」を放すと、結果的にひとのためになる。
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こころ

2013-04-10 19:38:43 | 日々の暮らし・思い出
ここのところ、ちょっと忙しく、ブログに向かう時間がない。

夕方自宅に戻り、今、ゆっくりしてる。

やはりここブログへ来ると、帰ってきた感じ。

いろんな体験があって、こころがくるくる動いてる。

その時の自分の姿に気がつくと、

こころがあるべき場所に戻るんだけど、

またしくじったりして、こころがぴょ~んと変なところへ飛んでいく。

それの繰り返し。

あ~あ、なにやってんだろう!!

そんな自分にうんざりするけど、今の気分は暗くない。

さぁ、又、この自分で始める。


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