ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

ゆるキャラ

2013-04-06 15:00:38 | 日々の暮らし・思い出
最近、いやつい最近のことではないのだろう。

流行っている、「ゆるキャラ」という奴。

いわゆる縫いぐるみを着てイベントでうろうろするよう。

子供だましのような縫いぐるみがどうして大人にうけているんだろう?

と、不思議だった。

なんで流行るのか、娘に聞いてみた。

「よく知らないけど、特別なコメントをするでなく、

偉そうに難しいことを解説するでなく、お喋りもしないで、

ただうろうろとしているのが魅力なんじゃないか・・」とのこと。

聞いて、なるほどと思った。

自己顕示みたいなのがなく、ただうろうろしてる。

宮沢賢治の雨ニモマケズ・・みたい!?なのか??

ひとはだいたい自我を主張し、自己顕示してるけど、

そういう、何もせず、自己顕示しない姿に憧れをもち、

癒されているんだろうか・・?

けど、ゆるキャラが今の時代に受けるのはもっと違うことかな?


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無関心

2013-04-06 13:47:49 | 実例体験観察
物事に対する気持ちが人それぞれで違うのは、

全く別の人間なんだから当たり前といえば当たり前のことだ。

Aさんと自分が同じ林檎を食べて双方とも美味しく感じたとしたら、

それは多分「同感」という奴。

好みは人それぞれなので同感できないことがあるのは当たり前。

私は以前の夫のいろんな場面での感覚に同感できなかったけれど、

あのような場合でも、同感、ではない「共感」は出来得るのではないか・・・?

その「共感の無さ」が無関心という現象になったのか・・?

結婚式の夜に言われた「あなたたちは離婚することになると思う」という言葉に立腹したということを、

(へぇ~ そういうことで怒るんだ、ふ~ん)というのはあったけれど、

それは同感がなかったということだけど、

共感もなかったのではないか・・・???そうだろうか?・・

と、いっても(へぇ、そういうことで怒るのか)という思いは、

彼のそういう思いが“在るということを受け入れていた自分だったと思う。

(なんでそんなことで怒るのっ!)というような感じではなかったから。

でも、共感出来なかった感じの出所は???

(あぁ、そう・・)それだけだった・・・

共感とはその感情・感覚を共に感じることかと思うのだけど、

怒りは感情ではない・・・と思う。この怒りは理性からのものだ。

そういう場でそのようなことは言うべきではない、という考えを持ち、

それを正しいとしているので怒りが湧く。

そういう意味で悲しみや嬉しさという感情とは異質である。


怒りは攻撃的現象に見えるけれど、

攻撃は最大の防御、守り・・・怒りはそれら守りの表われなのではないか。

怒りは哀しみや孤独感の表れなのではないか・・・


今、思うと、彼はその言葉を聞いて自分たちを祝福してくれてないように感じて、

悲しかったのではないか、

心が傷ついたのではないか、

悲しみや心の傷なら、共感出来る。

他の別の出来事で悲しみを感じたこともあるし、

まるで別の出来事であっても、心が傷ついた経験はある。

その感情は共感出来る。

あの時の彼が受けた心の傷に、あの時の私は共感できなかった・・・のだった。

怒りの奥にある悲しみに気がつかない未熟な自分だった。


・・・こんなふうに調べてきて、今ここで書いて来たことは理屈と受け取られるかもしれないけれど、

あの、若い頃の私の、あの時のあの感じの出所はこういうことだったのか、

とわかるのは、きっとこれからの私を創る材料になると思う。
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義弟と

2013-04-06 09:14:51 | 日々の暮らし・思い出
2週間滞在していた夫の弟が昨日帰った。

東京の娘がちょうど入れ替わり位に来たので、

私が娘を駅まで迎えに行ってる間に彼は帰った。

夕方家に戻ったとき、駐車場に彼の車がないのが目に入った。

そのとき、寂しいな、という気持ちが湧いてきた。

まぁ、そういうのは一瞬の気持ちで、だからどうということはないんだけど、

そういう気持ちになったことに驚いた。

今までも何回も義弟が来たことはあったけど、

居なくなって寂しい、という思いが湧いたのは初めてだった。

家から帰る、そのときに、別れの挨拶をしなかったせいなのかなぁ・・

その前に一応別れの挨拶はしたんだけどね。

けれど、寂しいと思ったという自分がなんだか嬉しかった。


気を使って疲れるということがほとんどなくなったかなぁと思う。

一方が気を使わないと片方も気を使わなくなることはある。

彼と二人して、こういう間柄を創って来たのだなぁと思う。
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最初の結婚記念日

2013-04-04 10:39:22 | 日々の暮らし・思い出
今日は若い頃した最初の結婚の結婚式の日だ。

楽しい結婚式だったことを憶えている。

彼と私のそれぞれの友人が集まって結婚式実行委員会なるものを作って、

いろいろと準備手配してくれた。

やった場所はホテルだったけど。

最近の事は忘れるけど、昔の事は憶えている、とはまことにその通りで。

結婚式の後、二次会みたいな席で私のかなり親しい友人が、

この結婚は失敗する、と言っていた。

それを聞いた私はへぇ~と思っただけだった。

謂わば他人事のように聞いてた自分だった。

当時の夫は結婚式の夜にそんなことを当人たちに言うなんてあんまりだ、

と家に帰ってから怒って話した。

それに対しても、へぇ~と思っただけだった。

随分軽く自由に生きてたなぁ、とは思うけど、

(自分とは違うけれど、そうか、そういう気持ちだったんだね・・)

・・みたいな相手の気持ちに寄り添うような気持ちは全然出てこなかった。

伊豆にいわゆる新婚旅行というのに出かけたんだけど、

当時そこの電車には窓の所にカーテンがかかっていて、

眠かった私は彼の向いの席でそのカーテンで顔を隠して、着くまで眠っていた。

随分時間が経ってからだったと思うけど、(何ヶ月か?)夫から、

新婚旅行一日目の電車で昼間っからぐうぐう寝るなんて酷いもんだと思ったよと怒られた。

コレに対してもへぇ~、そんなふうに思ったのか~で終わりだった。

蛙の面にションベン状態だった。

そんなふうなことがいっぱいあったような気がする。

自分とは全く違う感受性に無関心の私だった。

責められるという経験をたくさんして、私の心は被害者になっていった。

けれど、彼の責め、怒り感情の基は、

もっと自分の気持ちを見てほしい、無関心じゃなくこのままの自分を受け入れてほしい、

という気持ちの表現だったのか・・と思う。

イジメで一番酷いのはシカト・無視だという。私の無関心はそれと同じようなものだったのかもしれない。

知らずに酷いことをしてた。









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これから先の自分はロボット!?

2013-04-04 09:01:08 | 実例体験観察
心がすっきりしないので、

その時の自分を観察してみると、

後の自分に被害が及ばないように、相手をコントロールしようとしていた意識だった。

そういう意識の基で、行為をしたのだった。

事の善悪は関係ないよ。

私の意識がどういう状態、どうなっていたのか・・?

そしてそうなっていることで心が濁っている感じがあるのはどうしてなのか・・?

そこを今、もっと観察、もっと考え、たい。

(後の自分に被害が及ばないように)というのは?・・・

コレはこれから先、相手に振り回される、ことを避けたい・・というもの・・・だった!

今、気が付いたよ!

これから先に、相手に振り回される自分というものが在る、と自分で今、決めているということじゃないか!

この先のその人に対する自分を、被害者になる、と決めていたわけだ。

そういう自分だと予言している、予想している、ということだ。

はは~ん、そういうことだったのか・・・!

相手に振り回される、というのは、

相手の行為に対して、ノーと言うことも出来ず、相手の言いなりになって、

無念な思いをする、ということだ。

いま、書いてて、おぅ!“無念な思い”というのは、

ここでは口惜しく思うという意味だけど、それはまさしく、

その時、自分の念(思い)というものを無いものにしてる、ロボット状態ということだ。

いやはや・・これもたった今自動的に出てきた言葉だけど、

「いやはや」・・驚きあきれて発する語。だって。

けど、こうして書いてみてよかった。

失敗は成功の元! になるといいなぁ。
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桜 と ムクドリ

2013-04-03 17:45:39 | 日々の暮らし・思い出
ここら辺の桜は花の付きが悪かったのか、

木全体が白くなる、なんてことがなくて、

髪が抜け落ち、白髪があちこちに残っている・・みたいな感じのものばかり。

一人の友人はムクドリが蕾をみんな食べたという説を聞いて、

すっかりそれを信じ込んでいる風。

その話を聞いた時はへぇ、そうなのか、と私も思った。

実際どういうことでこういうことになったのかわからない。

花芽が出来る頃の気温が高かったとか低かったとか、そういうことで、

こういうことになっているのではないかと新聞には出ていたが・・

ムクドリ犯人説も・・どうなんだろうね~

ムクドリがここら一帯の桜の蕾を食べたのだとしたら、

相当な数のムクドリがむしゃむしゃ食べた・・・ことになる。

他に食べるものがなかったのか・・

例年より何かの事情でムクドリの数が一気に増えたのか・・

ムクドリの好みが変わったのか・・・

犯人がムクドリだったとしても、どのようなプロセス・展開でムクドリが例年にない行動をしたのか、調べないと、

ムクドリだけを逮捕しても、なんの解決にもならない・・・?

いや、いっときの効果はある。

けど、ムクドリを逮捕することで、その後、他の生態系に必ず影響が出る・・・だろう・・

えーっと、何を書こうとしたんだっけ?

桜が例年の姿ではないのは少し寂しい。

他の花が例年と違ってもこんなふうに気が付かなかったかもしれない。

桜はみんなから注目されるね~
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自責の念 ② 

2013-04-03 16:37:56 | ひとの幸福
物事が他の状態に移るのは何かのいろんなことがそれぞれのキッカケで動き、

それらの条件がぴったり一致した時に起こる。

そこで事故に遭ったひとは何かのわけがあって、そこに居る。

一人一人まったく違う事情でそこに居る。

気がついたらそこに居た、なんてことは病人でもないかぎりないだろう。

まぁ、それすらも事情の内だ。

そこで起こるどんな事故もいろんな要因が重なって起こる。

福岡伸一ハカセの「動的平衡」や、他の本にも、

生命にはっきりとした因果関係はない、という記述があったと思う。

何かがこうなったという特定の一つの原因を探すことは出来ない、というもの。

全て相互関連的な自発的動きで動的平衡、非動的平衡という瞬時の連続が生命の姿。

・・・確か、こんなふうなことだと思う。

私も同感だ。

人の意識も生命の大きな一つ、人工的に作れるもんじゃないしね~

この生命の姿と同じだろう。

・・ということは、犯罪を犯した一人の人間を裁く、

ということがナンセンスになるんじゃないか・・・・

特定の原因をその人一人に負わせることが出来る、となっているからこそ、

死刑に出来るわけだから。

違うかな・・・
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自責の念

2013-04-03 16:11:31 | ひとの幸福
自分が誘った用件でその人がそこへ向かう途中に事故に遭って死んだ、

というようなことがあると、

誘った人は自分がそこに誘わなければ事故に遭わずに済んだ、

死なずに済んだ・・・となって、

自分を苦しめる、というような事はよく聞くことがある。

自分があの時、そうしなかったら・・・こんな事には・・・

自分があの時、そうしたら・・・こんな事には・・・

気持ちはよくわかる。


確かに、そこへ誘わなかったら、その人はそこへ行こうとしなかったかもしれない。

こういう自責の念に駆られる、ということが可能なのは、

自分がそこへ誘ったことが“原因”でそういう“結果”になった、と捉えているからだろうと思う。

死の原因は自分が作った、と勘違いしてしまう。

誘われて、そこへ行こうと決め、そこへ行こうとしたのはその人だということを忘れている。

行く気にならなかったら、手や脚は動かない。

イヤイヤであったとしても、そこへ行こうとしたのは他の誰でもないその人なのではないか。

誘った事を原因とできるには、

謂わば、その人のことをロボットか何かのように捉えている、と言えないだろうか。

(誘われる=goというスイッチが入る)となっているのではないか。

相手に意志があるということが抜けていないか・・・?

ロボットなら、スイッチを入れたことが原因になるのだろうけれど。

ロボットでも故障していたら、動かないということもあるか・・・


この“誘った事原因説”で行くと、

もし、誘われた人がそこへ行かずに自宅に居て、

隣からのもらい火で火事になり、焼死したとしたら、

誘った人は私が誘ったのに来なかったからだ、と相手を責めることになるんだろうか・・・

それとも、もっと強く誘えば、そこへ行くことになってこんな目には遭わずには済んだのに、

と、自責の念に駆られるんだろうか・・・
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長財布・・から思うこと

2013-04-02 14:18:41 | 日々の暮らし・思い出
一昨日会った友人に布製の長財布を頼まれて一昨日の晩から作り出した。

多分今晩仕上がる。一昨日出かけた先で絣の切れ端のようなのを買ったのでそれでやってる。

これは図書館にあった手芸の本に作り方が出ていた奴。

何もないところから、何かを創り上げる、というような才能は私には無いように思う。

真似が多い。

今回のは買った材料だけど、こういうことは少ない。

家にあるものやら頂き物を使って作ることがほとんど。

お金云々より、在るものを工夫する、という手続きが楽しく感じるたちだからだろう。

襟の黄ばんだ、あまり着てないようなYシャツの背中部分は、

バイヤステープを作るのにとてもいいし、

ひとから頂いたあまり着てないきれいなポロシャツで、赤ちゃん用のよだれかけを作ったり。

自分では着ない洋服を見てもこの布で何が出来るだろう??と考えるのも楽しい。

出来上がっているものを見て、こういうの欲しいな、

こういうの作ってみたいな、と思うと、作る。

作り方がわからなくても、出来上がっているものを見ると、

あちこちひっくり返し、根掘り葉掘り見て、どうなっているのか探る。

それがわかれば、そうなるように作ればいいだけで。

出来上がっている物の部分をこういうのより、ここはこうなっている方がいいな、

と思うとそこだけ変えて作ったりする。

完成品を描いて、そうなるようになるようにと作るのは本当に楽しい。

まるきりの独創というのが私は出来ない。

そういう質(たち)なんだろうな、と思う。

自分の意識を観察するのも、考えるのも、

山岸さんの考え、境地を表わす文章が既にあるから、そうなるようにそうなるように、

あちこちひっくり返し、根掘り葉掘り探っている。

どうなっているのかわかれば、そうなるように作ればいいだけで。
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~だろう・・から・・②

2013-04-02 13:44:20 | ひとの幸福
誤解曲解を私たちはする。しない人間は多分いないと思う。

テーブルに林檎があって、ちょっとトイレに行ってる間に、

他の人がその林檎をカバンにしまって、又同じような違う林檎を置いたら、

トイレから戻った人は林檎を見て、

「さっきの林檎」と解釈する人が殆どだろうと思う。

こんなふうになるのは普通で当たり前のことだ。

防ぐことなんか出来ないと思う。

何かを見て、何かである、と私たちは認識するので、普通に暮らせる。

何もわからない赤ちゃんが一人では暮らせないのは、

そのような認識がまだ無いからで。


ただ、

何々を(~と解釈した)という“認識が自分に在った”

ということが、わかるのとわからないのでは全然違うと思う。

在るもの(そのように捉えたという意識が在ること)を、在ると知ること。


山奥に金塊が在っても、それを在ると誰も知らなかったら、

山奥に金塊が在ってもどうということはない。

人間に何の展開も起こらない。

山奥に落ち葉が在るのと変わらない。タヌキの糞が在るのと変わらない。

まぁ、それだって、在ると知れば肥料にしようとかいう展開になることもあるかもしれない。

在るものを在ると知らなければ、なんの思いも言葉も生まれない。


在るものを在ると知ること。

自分がした解釈が在る、それを知ることで、

その展開の事実を明らかに出来る。不透明にならない。

不透明、薄暗がり、では犯罪やよからぬことが起こる。

明るい日の光に照らされたら、くっきりとわかる。

なんて馬鹿らしいことをしてたんだろう、ということになるはずだ。
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「毎日母さん」

2013-04-02 10:27:42 | 新聞を読んで
『毎日母さん』・・毎日新聞に連載されてる西原理恵子の漫画。

この漫画は好きで楽しみにしてる。

一昨日のは毎日母さんの今度中一になる娘が笑っているコマに、

「笑って、それから考えない」という言葉があった。

全くそうだなぁと思った。

この、「考えない」はどういう“時”か・・・?

やはり「笑って、それから考えない」の、それから という“時”だと思う。

それもすぐその後という“時”考えない、ということと思う。

例えば何かの言葉を聞いて笑ってから、今のはオレを馬鹿にしてるんじゃないか・・?

・・なんて考え出すと、おかしな展開になることもある。

「この事はこういうことである」というような考えをその“時”持ったが為に、

怪しい展開になるより、笑って終わり、がいい。

そういう考えをその時空で出現させてもいい事何もない。


もし、今のはオレを馬鹿にしてるんじゃないか・・なんてのが出てきても、

それはその場ではちょっと横に置いといて、

じっくりと考える、という場を後で自分に用意してやればいいのだなと思った。

そういう思いがどういう意識プロセスで出現したのか、

よく観察し、考える、というようなことは、

日常のそんな場では出来ないから。

暮らしは考えず、流れるように暮らすことが出来たらハッピーだ。

三権分立じゃないけど、考える場と実践する場は別、というのを肝に銘ずるといいのかもしれない。






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「ちづる」

2013-04-02 09:02:19 | 日々の暮らし・思い出
一昨日友人に誘われてドキュメンタリー映画?かな、

「ちづる」というのを観に行った。

いつだか、この映画についてだったと思うけど、

新聞に載っていたことがあった・・と思う。

監督である立教大学の学生が、自閉症で知恵遅れの妹(ちづる)を撮ろうと決めて・・・

誰だかに「妹をマイナーな目で観てないか・・」

というようなことを指摘されたか・・なんかして、

それではっとした、というような記事だったと記憶している。

ブログに書いたような記憶もあるんだけど・・・

それともまったく別の映画のことだったか、自信はないんだけど。

1時間半近い映画だったけど、時間を忘れて観た。

紙幣を「ちづる」さんが母親の財布?から母親に言わずに出して持っていたことがわかった時に、

母親とちづるがその紙幣を取り合って揉み合うシーンが結構長くあった。

監督であるちづるの兄が、どういうふうにその揉み合いが治まったか、母親に聞くと、

コインはどうしたの?とか、コインに話題を変えたら、

紙幣を固く持つ手を放したという。

知恵遅れだろうと、幼児、子供だろうと、大人だろうと、老人であろうと、

“取ろうとすると引っ込める”のは一緒だなと思った。

そして、取ろうとする側は“正しさ”を固持している。

その母親も言っていた。これは泥棒だよ、とか。

実際、紙幣をちづるが持つことは相応しくない。

それは善悪とは関係ないように思う。


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~だろう・・・から・・

2013-04-01 16:54:03 | 実例体験観察
昨夜寝る前に台所の食器洗浄器が目に入り、中が蒸気で曇っているのが見えた。

洗いの後の乾燥が十分じゃなかったのかと思った。(と、解釈した)

ドアを開けておいたら乾燥するだろうと思い、開けた。

けれど、このままもう寝るので、夜中ずっと開いてるのも不衛生かなと思い、

すぐにドアを閉めた。

食器洗浄器からの排水の水を次回の汚れた食器の下洗い用に洗い桶に貯めておく習慣があるんだけど、

その時、桶には水が貯まってなかった。それを見て、

排水ホースがゴミ入れ用の袋に邪魔されてホースの先が桶に向かってなかったのだなと、思った。(と、解釈した)

今朝、起きて台所に行ったら、洗浄器が作動中で「乾燥」の字が赤く点滅していた。

器内に水滴が付いていたのを昨夜見たので、

夫に「乾燥だけ又しているの?」と尋ねた。

「いや、洗っているんだ」との返事。

「えっ!?どうして又洗っているの?」とわたし。

昨日彼は洗浄器に食器を入れてスイッチ入れようと思ったけど、

私がまだお茶を飲んでいたし、その湯のみを私が入れてから、

私がスイッチを入れるだろうと思って、オンにしてなかったと言う。

朝、ドアが閉まっているので、洗いが終わっていると思って、

そこから食器を取り出して食器棚にしまおうとしたら、

なんだか汚れているみたいだから、

スイッチを入れてなかったんだと思って、スイッチ入れたんだと夫。


私が湯飲みを入れてスイッチをオンにしたと、どうして思ったのか聞いてみたら、

使った湯飲みが流しになかったから、そう思った、ということだった。

私は私で、寝る前、洗浄器はドアがしてあって、作動もしてなかったので、

既に洗いも乾燥も終了している、と解釈したので、

使った湯のみは手洗いして洗った物を入れるかごに入れたからだった。


結局のところ、彼が洗浄器のスイッチを入れない状態でドアを閉めた、

それがキッカケでの出来事だったんじゃないか・・・と思われる。


ドアが閉まっているので、洗浄が終わっている、そのことが当然!に

彼も私もなっていた。


洗浄が終わっている、と誤解したので、

湯飲みを手洗いしたり、

収納しようとしたり、

乾燥が出来てないと思ったり、

桶に水が貯まってないのはホースの先が桶に向かってなかったからだろうと思ったり、

湯飲みが流しになかったので、洗浄器に入れたんだろうと思ったり、

・・すべて、ドアが閉まっていたことで、スイッチがオンにされ洗浄が終わっている、

と解釈した(誤解した)のが始まりだ。

こんなことはちょっとした勘違いだよ、で済むことだけど、

日常の暮らしでこういうことは多いんじゃないかと思う。

いや、日常の暮らしだけでなく、政治のことや経済のことや、

結構大きな問題も、ちょっとした誤解曲解から生まれているんじゃないかと思う。

洗浄器のドアが閉まっている、なんてのは出来事とも言えない小さなことだけど、

一つの出来事には違いない。

こんな小さな事でも人や場合によっては争いに発展することもあるかもしれない。

何かを見て、それをどう受け取っているか、

どう解釈しているか、

どう捉えたか・・・それで行為が始まるのだから。

昔、「声掛け合う」というのを意識して行為する、というのをやったことがあるけど、

何を声掛け合う のかといえば、

洗浄器に汚れ物を入れたけど、まだ洗ってないよ、というような事をかな、と思う。

誤解や曲解があるのは当然だから、

それを未然に防ぐには、互いに声を掛け合ってやるのがベター。

それは“出来事は共にやることでなるもの”という認識が基にある、

ということなんだろうと思ったよ。

よくいう“ボタンの掛け違い”ってのもこういうのが多いのかと思う。





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