令和2年9月16日
[愛は自然本能に発する]
『愛とは何か』は機会あるごとに説かれています。しかし、愛ということばは、文字に表すと実践、実行したつもりになったものです。それでは結果を見ることができないので、落胆したこともあります。
ここで見えなかったのは『偏愛者としての気づき』がなかったことです。つまり、反省も当然ないので、結果がでるはずもありません。そこに、前回の人間愛の不完全とかさなるわけです。
どこかに自分の都合で『これだけしているのに』とか、それによって『不平不満がくすぶり、憎みとがめ』がうまれてきます。
『これだけ理解してあげているのに、何が気に入らないのか』と、暗く悩ましいことになります。これは自分を愛する『自己愛であり、偏愛』でもあります。
『神が無差別の愛ならば』『人間もその霊性に愛の源泉がある』といわれます『自然本能の中により生まれる』ものです。だからどんなに対立しても、相手が倒れた瞬間、自然に手を差し伸べ助けようします。
そこに『愛の霊性をみる』のです。『愛は神の特性の一部を示すのではなく、神すなわち愛であり、愛は神の別名である』ともいわれています。だから、『人間関係において、好き嫌いの差別愛』に気づかない限り、運命の転換を果たすことはできないでしょう。
あすこそは、明日こそは、と期待をかけても、明日は夏の道路の逃げ水と同じです。『偏愛をやめ、愛されるより愛する人になる』ことです。神と人との通い路の道普請(みちふしん)をお願いします。やります!
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