令和3年1月27日 人生の処方箋
[事情をすてよ 悩みを捨てよ」
人間は目の前の出来事にならされていく習慣があります。だからこそものごとを、事情(問題のある状況)に育てる名人でもあるのです。
それでいて『どうしてこんな目に遭うのだろうか?』は、誰でも共通の思考回路です。天地は今にしか存在していません。私たちも今に存在して命をはぐくんでもらっています。
天地は前に進み、人間の心は昨日に明日へと、その時の環境と事情により、定まるところを知りません。
その間をついて、心に事情が生まれ隙間が生じます。
『❶憎みであり』『❷思い悩む我が心』『❸この心が招く不自然こそ』反逆の正体です。
その反逆は次のムダをうみ『時間の浪費、生活の乱れ、らしさの無価値』この3つの無駄が不幸せへの生活です。
『人間は朝から晩まで楽しく笑って暮らせる』ようにできています。その中をわざわざ、不愉快な時間をすごしています。これは無駄でしょう。
この『3つの無駄を捨てる』には、まずどうしょうもない事情は御神尊様に預け悩みの元を断つことです。これで健康回復間違いありません。やります!
令和3年1月25日
[なぜか 人間は焦りを重ねたがる]
『自然に合わせる』といっても、なかなかピンとこないでしょう。
なにしろ『人間へ自然に任せきりの生活をせよ』といわれるのです。
ではどうしたらいいのか?
一木一草ことごとく自然に委ねて、雨にも日照りにも動ずることなく、昼を待ち夜を待ち、春夏秋冬の訪れを待っているが、しかし人間は焦る、また焦る。なんだろう。?
焦りのゆえに、かえって過去のまま、今を忘れてしまう。
さらに事情があると、囚われ思い悩みそこから憎み咎めで、心を痛めていくのです。
楽しかるべき日常を自ら掻き乱してしまう。
昨日のこと、過去のこと、これこそ自然への反逆です。
そこから不幸が始まり、病気となります。
とにかく求めすぎだから焦る。
これではいけないとまた焦る。
それでは目の前の扉は開かないもの。
とにかく焦らず、過去という名に心を委ねず、囚われず憎まず、それでこそ日常生活は乱れずにいるから、自然体なのです。神の意思そのものです。やります!
令和3年1月20日
[初心に帰れ 初心忘るべからず]
ところで『初心ということば』の始まりは、室町時代1336年以降から使われていますが、能の観世流、世阿弥を始まりとしています。
『初心は最初のころの新鮮な気持ち』を表現することばです。
さらにこれに年齢を加えると、何事によらず未熟さ、つたなさが見えてくるものです。
若い頃の未熟さを忘れず、経験を重ねても決して油断をしてはならないと、戒めのことばに変化します。さらに老後になっても『初心』は人間的レベルの高さにつながることでもあります。
御神尊様は不思議なお方で、私たちが体調の不良やちょっとした気の緩みが出ると必ず呼び出され、その場にいなくてもわかるみたいだったと、いわれました。
そこには迷いが、姿かたちを通じてあらわれるもの、初心を失わずにいれば行動に迷いもありません。
おかげで、私は今日まで御神尊様とのご縁を心に刻んで、人生の階段を登ってこれました。そして『初心に帰れ、忘れるな』に導かれています。皆さんの初心はどこにありますか?やります!