私達人も天地自然に生かされて、
人力を尽くし、自分の運命を切り開きましょう!
2020・01・28、天地の慈悲
[生命力の保持に生涯を捧げ 以ってその一生を大切にすること]
『生命力』てなんでしょうね。面と向かうと、考え込んでしまうことばでしょう。
そもそも、人間は大自然の間断なき恵みによって、命のみなもとは供給されています。それを受けて、人間の身に備わった精神力と精力は発動され、保全され延長されるものです。
まずは、なんらかの事情によって,『精神力の過度の消耗作用』と、『精力過度の消耗作用』は『生命力の消耗』となって影響をおよぼすことになります。
つまり、❶精神的消耗作用に名付けて不幸といいます。
❷精力的消耗作用に名付けて病気といいます。
生涯を、人生を大切にするとは、精力的消耗作用よりも、精神的消耗作用による不幸がもっとも恐ろしいものです。
慎むべきは、『精神的消耗』です。それは、『俺が、私がの我の念、』『囚われたり、懊悩したり、不平不満の虜、悲哀の念、憎悪の念と対立、』不幸の感情は山ほどあります。
この恐ろしさは、平気で明るさを失い、相手のせいにすることです。そして、『精神的消耗が生命の消耗になる』ことです。そこから、運命的現象が現れてくるのです。
生きがいある人生のために、感情を整理して、喜びの心で消耗を避けることにつきます。やります!
2020・01・27、天地の公道
[天地を喜ばせる者]
『天地を喜ばせる』なんてとんでもない大きなこと、といわれるかも。確かに言葉どうりに受けとめればそうでしょう。
『天地は一言でいうならば、今に生きること』です。これが人間世界と天地のきずなでしょう。
さらに深掘りすれば、我と我が心で
❶自分の機嫌をとり、常に喜びのところへいること。
❷すべての人を喜ばせるところへいること。
❸人と共に喜び人共に楽しむ、しあわせの処へいること。
共通点は、すべて『今にある』ことです。人間ほど心のアンカー(イカリ)が波間に漂う生き物はいないでしょう。
この『三点は基本』ではあるけれど、『肝心かなめは、第一よりも、第二よりも』『第三の喜びこそ、天地はもっともよろこぶ』のです。それでこそ人生の道は恵まれていきます。やります!
2020・01・26、天地の教導
[三脚の生活]
『天地の道と共にある』とは、卑近なことばで『二人三脚という表現』があります。
『夫婦二人三脚』『親子二人三脚』そして、合掌の心で二人三脚の道をいくことです。
如何なることに直面しようとも、『三脚の道をまもる』ことが、そのまま『天地の道をあるく』ことになります。
具体的には、『心の三脚、行為の三脚、言葉の三脚』『この三つの三脚の生活』を守りさえすれば、幸せが開けると言われています。天地の道と交わることほど大切な道はありません。幸せの道もないでしょう。
『天地の道と三脚の絶対性』のその鍵は、『心の使い方、生活の仕方、言葉の使い方、』に隠れる一貫した真理は、『今という時間と空間が、存在している』ことです。だからこそ、永遠の幸せが保証されるものです。やります!
2020・01・25、天地の真理
[早業の道とは]
文学少年の私は本の虫でした。何かから逃げるように、貪ぼり読んだものです。
歳月はながれ、昨年末、2回目の尾道をおとずれました。
特に尾道の文学の小道では、懐かしい作家の林芙美子、極貧に育ち転々と転校したそうです。その心情を詠んだのが、次の短歌です。
『花のいのちは短くて 苦しきことのみおおかりき』生きていくことの苦しさが、滲んでいます。
それでも、生きている人間はその苦の中にあっても、常に動き続けて、感念の動き(精神) 身体の動き(行為)をやめるわけにはいきません。
『自然な動き、不自然な動き』これらと、『早業と関係』があります。不幸せや病気は『早業の下手な人』の身の上に生まれます。
『早業』とは、一切の行為を素早く巧みに処理することです。
『早業に自信を持つ人』は、多少の邪気、邪念、が生まれようとも、一瞬の時をおかず、早業をもってすればよいのです。不幸せや病いの種を残さず、幸せの門はひらかれます。
つまり、『早業とは、気の切り替へをはやくする』『行為の切り替へを敏速にする』林芙美子の家族も、早業の道をお伝えしたかったものです。やります!
2020・01・24、天地の公道
[懺悔は神の食なり]
人生には浮き沈みがつきものです。ことがうまく運ぶときと、何をやってもうまくいかないときがあります。
そういうときは、『合掌の心で自分を見つめ、自分を見失っていないか』日ごろの生活ぶりを振り返り、『自分の生活を心の鏡に写してみる』のです。
きっと『我が出ている』はずです。きっと、[人は見ゆれど我は見えず]で、自分のことは意外とわからないものです。
『反省もそれに対しての懺悔』も手ごころを加えがちです。
しまったと思い感じるならば、素直に自分から頭を下げ、申し訳けなかったと、懺悔すべきです。
その懺悔(ざんげ)の行為行動こそ『神の食である』とあります。神守られる最高の御供物であります。
一般的に人は自分の過ちは認めたくはありません。だからこそ、潔ぎよく言い訳けをせず、懺悔の念から生まれるのが感恩感謝です。やります!
2020・01・23、生活と運命
[憎み咎めを 事情をかなぐりすてる]
『かなぐり捨てる』この言葉は、方言かな。と思いましたが、辞書をひもとくと、(衣類を乱暴にとってすてる)(大事なものを思い切ってすてる)(恥も外聞も捨てる)とあります。
憎み咎めは、悪感情の代表ですが、実は天地のもっとも嫌うところです。人間の心の奥には命の秤りがあり、憎み咎めするたびに、その秤が反応するようにできています。
憎み咎め、そのものに不快な反応をしめします。しかも、原因を相手のせいにしている限り、気分はかわりません。
『命が不快に感じること』『命が喜ばないこと』は、天地から離れているからです。事情の大小にかかわらず、たとえ自分に非がなくとも、合掌の心で落ち着いて、よくよく己が心中を覗かなければなりません。
そして、しあわせの門を開くために、『憎み咎めの事情をかなぐり捨てる』のです。これを『素早い切り替え』といいます。そこから、和解が見えてきます。『焦らず、怒らず、諦めず』に己が心に挑戦を。やります!
2020・1・22、天地と神
[人を無視しては 自分は成り立たない]
人は何か願いがあれば神仏にもすがり、目を向けるものです。
特に難病や、仕事上の行き詰まりなどでは、命がけにもなるものです。
しかし、神に直接助けてもらおうと、思ってもおかげはありません。それは非常に迷信的です。しかし、門をくぐるだけでも、殊勝(しゅしょう)な行為かもしれません。
御神尊様は、『神のことを思うより』『人を家族を神と思い、神を拝む気持ちで人を拝み』『常に人の懐に飛び込んでいく』ことが、『神を拝むことになる』といわれます。
この理(ことわり)のために、20年の歳月をかけて修行されたのです。神と尊称していますが、天地におきかえてみれば、『人を粗末にして』は、この広い天地に身の置き所がなくなるのも当たり前です。
『天地はすべてに溶け込むはたらきがある』からです。『夫を、妻を粗末』にして、幸せがあろうはずがありません。やります!
2020・01・21、こころと運命
[良心が咎めたら 素直にあやまる]
お金や物は幸せの一部ではあっても、基礎とはなりません。
幸せの本体は、人と円満に日暮らしする、こころの世界にあります。
ところが、人間関係は妙に些細なことほど、対立したり、喧嘩になったり、嫌ってみたりします。
御神尊様は、人間はそんなに簡単に変われるものではない、とも言われています。ついつい甘えて見たくなることばです。
『言いたかったら言え、腹が立ったら立てろ』ただし、そのあとで言い過ぎた、少し腹を立て過ぎたと、良心が咎めたら素直にあやまること。
人の心は善悪両方があり、心の使い方次第で引出され、その日その日の運命が決まっていきます。
運命のほとんどは、家庭の雰囲気で左右されます。職場で対立関係が生じても、家で家族が優しく慰めてくれれば、気持ちの整理がつくものです。うちでの慰め合いでそとの事情は、必ず解消するものです。やります
2020・01・20、天地の公道
[いつも変わらぬ、陽の光かな]
最近は、飛行機に乗る機会がなくなりました。年令と共に活動の場所が限られてくるわけです。
雲間を抜けて上昇すると、風雨の烈しさも、どこへやら見わたすかぎりの快晴です。
生活に当てはめれば、取り巻く環境がいかに苦難に満ちていても、変わらざる陽の光ではありませんか。
そのような変わらざる陽の光のように、明るい安らぎの人生を生き抜きたいものです。
生命は、陽光を必要としています。
私たちの霊もまた光が不可欠です。
神殿の燈明をともし、合掌で光を受け、ここに生命の躍動がつむぎだされていくのです。
[晴れ曇り 光は雲のしわざにて いつも変わらぬ陽の光かな]
2020・01・19、天地と人生
[感恩、感謝は神路(かみじ)なり]
天地が、人間に感恩感謝を要求することはありません。人間社会では、何かすれば見返りを要求する事件が、あとをたちません。今に始まったわけではありません。
しかし、天地は総てを生かし、生成発展のため恵みを供給しています。私たちは天地の働きに生かされていることに、恩を感じ、人間関係にいかすことに努力すべきです。
これが人生に欠けてしまうと、運も逃げてしまいます。天地の恵みを強く感じてこそ、感謝の表現を豊かにすることになります。そのことに感謝できる人は感受性の強い人です。
考えてみれば、すでに生きて生かされていること自体が、救われているのではありませんか。
感恩は、自らの周りから発見するものです。先入観、偏見を捨てる努力も必要です。ここに合掌の力が問われます。『恩を感じたら行動に表す』『謝という行い』で、感謝となります。