令和元年、5・4、
[善は、人に施すことによりて増す]
『善という言葉』ほど、誤解されやすい言葉はありません。『善には、道徳的な面と宗教的な面』とがあります。だから、「宗教と道徳は同じだろう」と、いわれる人もいます。
しかし、良いことを行うために形がみえるのが、道徳的な善です。宗教からみれば、その善に、たましいを入れ誠意をもって、行うことにあります。御神尊様は、そのことを[善を苦しめる宗教の世界]といわれました。善行は、その中味は問いませんが、宗教は、その中味が問題です。何しろ、運命となって、おもてにあらわれるからです。
家庭にも、社会にも、喜んで人の助けになろうと、動く人もいれば、仕方がないと、いやいや動く人もいます。そのことを、形は良いことをしても、『喜んでが欠けている』と、せっかくの『奉仕、善行も』その人の人生に良い結果をもたらすことはありません。
『善行』も、自然に行える人は、『意識もなく、恩に着せず』『おはよう、ありがとう、ご苦労さま』など、そのさわやかさが、『善のはじまり』でしょう。『私たちは、どこかで、誰かのおかげ』を受けています。むしろ、善行の意識より、『おかげ様のお返し』という気持ちで、行動することが、重なって伸び、あなたの徳として備わり、その徳が我が家を包む日がやってきます。