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天地公道(人生の処方箋)

私達人も天地自然に生かされて、
人力を尽くし、自分の運命を切り開きましょう!

5/8 修行

2019-06-20 08:36:32 | 信仰と生活


令和元年、5・8、精神と修行※1
[自己の善悪を批判し得る者は幸いなり]

人生の生き方、運命を開いていく根本を示しています。
このことを習慣化できれば、いかなる難解も解いていくことができます。それほど、素晴らしいことばです。

振り返ってみると、人を批判することはできても、自分を批判することは、なかなかできるものではありません。それは本人に、『自己批判の基準』がなければ、どうにもなりません。では、どのような基準を持てばいいのか?

それは〈この道〉によって、〈善とは、悪とは〉何かを知ることです。その基準は〈人から離れたところには、真実の自己批判は生まれない〉とあります。
善とは、(今、思っていること、行なっていることが、人のためになっているのか?)

ここで自己批判が生きてきます。《人に言われて、されて、嫌なことは言わない*しない》
するならば《人に言われて、されて、ためになり嬉しくなることを、努力する》ことです。

私の場合は、『御神尊様に出会った喜びを伝えたかった』
何しろ砂の中からたったひと粒の、出会いと表現しても、足らないくらいの、輝かしい出会いでした。
若い頃から、友人、知人、紹介された人に会っては、御神尊様を伝えるために、あるきました。ところが、自分のことばかり主張していると、見放されて、肝心の目的は達成されません。

だから、自分のことを見つめながら、相手の言葉に耳を傾けて、そのことが、自己を知り、見つめることに繋がり、相手に足らないところを教えられたのです。
《神の前に立つとは、人の前に立つ》ことです。自他の間でこそ、自己の善悪は見えてきます。
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5/7 足し算の達人

2019-06-20 08:31:24 | 人生


令和元年、5・7、人間関係と修行※1
[引くより、加えよ。これ味方を作る秘法なり]


引くとは、『相手の足りないところに、目を向ける批判がましい生き方』です。
加えるとは、『相手の良いところに目を向け、褒めて認める生き方』を指しています。

人は、自分の足りないところを指摘されると、初めのうちは謙虚な気持ちでいますが、度重なると、アラ探しばかりされると、嫌な気分になります。
その反対に、自分の気付かない部分を、教えられたと思う人もいます。
褒められれれば、悪い気はしないもの、むしろ前向きになるものです。

このことから、自分が辛い思いをすることは、決して人にしてはならないとおもいます。
相手との関係をかんがえると、味方を作るのは簡単です。
『自分の気持ちを足し算して、自らがまず、味方になればいいのです』
そうすれば、『味方がいない、親しい友人がいない』なんて解消です。
『引き算という偏った見方はやめ』『どんなときでも、足し算の達人』で、人生の困難を乗り切ってください。やります。
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5/6 親行

2019-06-05 16:24:31 | 人生


令和元年、5・6、親業と人生※1
[子どもは、決して、親の所有物ではない]


子育てには、免許証がありません。子育てには、先輩の経験、祖父母の体験によるところが、大きいものです。
子育て免許証がないだけに、それぞれの違いが成人してみて、成功あるいは失敗したなど、といわれます。特に最近は、マスコミも、事件性のあるものを報道して、私たちの視線を、誘導するように感じるのは、思いすぎでしょうか。

どうしても、親にされたこと、家族の環境などの体験が、子育ての基準になります。『この道』からみれば、『神さまから預かったもの』であり、授かりものです。所有物ではありません。でも、若さゆえに、暴力的に走ったり、親が遊びたくて、放任したりで、きずいた時は手が付けられないことになっていたりします。

考えて見れば、『生みたくても生めず、生みたくなくても、授かるもの』まさに、『神さまから、預かったもの』合掌に生きる者として振り返ると、命の大切は親としての苦しみとともに、育ってきたように思います。

その、『預かりもの、の基本』は、『子どもの幸せ』の前に、『親のあなたが、夫婦で円満の道』に、努力を傾けることにあります。
そうでなければ、『子供は親を鏡にする』からです。しかも、『親の運命的な流れにともなう』からです。
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5/5 自由

2019-06-05 16:19:32 | 運命の原理


令和元年、5・5、人格と運命※2
[人は常に自由を欲し、それだけ自らを束縛す]

人は常に自由を求めるとあります。今朝は、その自由を考えます。『あさのことば』にあるように、人は、常に自由度の高みを、目指しています。しかし、家庭や、社会にルールがあり、なんとなく、束縛されている気もします。人間は一人で生きられないから、チームを作り、チームワークで良い関係を保つために、ルールを設けることになっていきます。

その約束ごとを、『束縛』と、うけとめれば、『不自由の意識』が、拡がり、『当然だとなれば、自由』となりますが、『自由への欲が強い』と、『不自由の思い』は当然、縛られているとなります。

『この道は、社会的に目に見える関係より、あくまでも、精神的な部分、性格的、そして、人格にみる』ことになります。
あくまで道では、どう受け取るかということです。
自分の思うようにしようと思えば、周りはついてこず、不自由の苦しみになり、不平不満の虜になるばかりです。

家庭的な不自由、社会的不満は、精神的なものを含めて、環境や他人の影響に任せるのではなく、『祈りと道の学び』で、『生き方の変化』を通じ、誰にでも許された自由があります。

このように『真の自由』は、『道に根ざした』ところから、生まれてきます。自らの、『我の念』で、『思うようにしたい』は、それだけ、『束縛をうける』だけです。あの人、この人が、いうことを聞いてくれない。は、わがままと言われるもので、狭い不自由の道を、苦悩と共に歩むだけです。『自ら我の念』を破り、人様のことを思い行動することで、束縛から解放された、人生を歩いてください。
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