今朝もマイナス1.2℃。
母が寒がりますし、エアコンを付けて寝ていますので寒いと感じないで朝を迎えます。
今朝の果物
朝からばら寿司を作りました。
今日は母の言う「紀元節」ですから。
・・・と言うわけではないのですが、母が普通のご飯よりもお寿司や炊き込みご飯のような味の付いたご飯を好むようになりましたので、作った時に冷凍にしていますが(あまり電子レンジは使いたくないのですが)、ストックが少なくなってきましたので作りました。
「紀元節」とはウィキペディア(Wikipedia)によりますと・・・
「紀元節(きげんせつ)は、古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日。日付は2月11日。1873年(明治6年)に定められ、1948年(昭和23年)に占領軍 (GHQ)の意向で廃止された。かつての祝祭日の中の四大節の一つ。
この2月11日の日付は、日本書紀で神武天皇が即位したとされる紀元前660年(神武天皇元年)1月1日 (旧暦)の月日を、明治に入り新暦に換算したものである。詳細は神武天皇即位紀元を参照。しかし1966年(昭和41年)に2月11日は「建国記念の日」として国民の祝日となり、翌年から適用された。」
・・・だそうです。
海老を安い時に買って冷凍していましたので特に多くの具材を買わなくていいと思っていましたが、出来上がった時、椎茸がないのに気が付きました。
でも、そういうこともあると言うことで
午前中、久し振りにホスピス仲間から電話があり、1時間も話しました。
お義母さんの49日が済んだら遊びに行くからと言っていたのですが、アッと言う間にオミクロンが蔓延してしまいました。
彼女は小学校に勤務していますので、「ちょっと行かない方がいいと思う。」
久し振りでしたので、本当にいろいろ話しました。
彼女との会話は主にスピ系ですが、今彼女としては珍しく「カムカムエブリバディ」にはまっているそうです。
(今の展開はいまいちだと言っていましたが)
実話がもとではないと知ってがっかりしたそうですが(彼女はサリンジャーが好き)、これまた珍しくオダギリジョーが好きになったと言っていました。
彼は岡山県津山市の出身だったのですねぇ。
やはり、輪廻や解脱の話にもなって、「人生は楽しいじゃない」と言いますので、「そう 肉体を持って生きるのはしんどいじゃない」と私。
「人生、何が起こるかわからないから面白いわ」と彼女は言います。
お義母さんが亡くなり家に帰って来た二日目、顔も見たくなかったお義母さんがにこやかに笑って現れたことから、それまでのわだかまりがすっかり消えたと言っていました。
又、お義母さんのことで悩まなかったら一人歩き遍路を始めることもなかったと。
そして、あのお義母さんがあんなにあっけなく逝ってしまい、考えるところがあったようで、人生はバランスが取れるように出来ていると思うとも言っていました。
最近、私は2回も「次の人生では」という言葉がぽろっと出て、それを友人から「言ったわよ、言ったからね」と言われて「わぁ~、失言」ということがありました
今のままではあと20年少々の人生としてとても解脱出来そうにはないのも事実なのですが
友人は「グループ転生する時に居ないと寂しいじゃない」と言います。
「そう」と何だか説得されたような・・・。
でも、この地球で解脱しても、又、次の次元の世界が待っているわけです。
まだ先は長い。。。
母が午後から寝始めましたので歩きに行きました。
教会のお庭
教会のシュウメイギクの種でこの小さなシュウメイギクは生まれた
北の空に暗く重い雲が立ち込めています。
北の方は雪が降っているのかなあと北の友人を想いました。
私のお手本のベジガーデン
椿の花が咲いていますが、まだはじけたばかりの種もあります。
寒椿(とはもう言わないのかな)我が家に来てねとご挨拶
(これ俳句になる)
・・・ということで、母の為に又手折ってしまいました
今、我が家では水仙があちらこちらで咲いています。
温室の中ですが、シンビジュームはまだ咲きません。
この4種類の水仙を植えている水仙の小庭の水仙だけはまだ全然咲きません。
東と西の水仙を切りました。
椿と水仙を母のお部屋に飾りました。
今日は祝日ですから、リハがお休みでした。
ですから、看護師さんが1時半からではなく4時から来て下さいました。
そして、摘便の後は、ヘアカット、顔そりなどをして下さいました。
この間、廃品を持って再び1周のみ教会経由公園へ。
白梅がちらほらと咲き始めました。
椿もですが、梅も太陽に透けて綺麗です
雲の中の月
今朝の朝日新聞のトップ記事は羽生結弦選手でした。
この記事を見て救われる思いがしました。
本当に良かったなあと・・・。
そして、回転が足りず転倒したものの、国際スケート連盟は公認大会で初めて4回転半を跳んだと認定
夕方に新聞の写真を撮っていますと、母が「天声人語を読んでごらん」と言いました。
天声人語の抜粋
「明治維新からまもなく、北欧ノルウェーにアクセル・パウルゼンという若者がいた。1882年、スケートの国際大会に臨み、中空で身を回転させる新技を決める。ジャンプの大技「アクセル」は彼の名にちなむ▼多くのスケーターが挑むが、回転数をなかなか増やせない。パウルゼンの1回転半が、2回転半まで伸びたのは66年後、3回転半達するには実に96年の要した。6種類あるジャンプの中で、他のどれよりも難しく、どれよりも得点が高い▼アクセルの誕生から今年で140年。(中略)▼陸上競技にたとえるなら、走り幅跳びをしながら同時に背面跳びも決めるような技だと専門家が解説している。まさに異次元の難度なのだろう。(後略)」
これ、わかりやすいですね。
普通に考えたら無理みたいなことへの挑戦だったのだとよくわかります。
羽生選手の演技は今大会屈指の注目度で、各国の記者が詰めかけたようです。
羽生選手がリンクに現れると場内は静まり返ってスケート靴が氷を削る音が場内に響いたと続いています。
私は元々フィギュアスケートが大好きですが、特に羽生選手のファンではありませんでした(もちろんとっても応援はしています)。
でも、今回は本当に心にひときわ残りました。
彼のコメントはとても心が痛かったですし、このような記事を読むと私まで救われたような気持ちになります。
しばらく経ったあと、羽生選手がどのような気持ちになり、どのようなコメントを残すのか見続けたいと思います。
昨日、母が生活指導員さんと「笑顔の約束」をしたことを書きました。
それで思い出した詩があります。
中学生の頃でしたかに読んだ詩でかなりうろ覚えなのですが、「微笑みはただで手に入れられ、そして同時に多くをもたらす。それを受ける人を豊かにしながら次から次へと伝わっていく・・・・微笑むのだ、喜びの朝(あした)に、試練の夕べに」と締めくくられていたのですが、ネットで探してもこの詩は見つかりませんでした。
近い詩としては以下のものがありますのでご紹介します。
渡辺和子著(シスター・セント・ジョンと私達はお呼びしていたのですが)「置かれた場所で咲きなさい」でも紹介されています。
ロバート・バー(Robert Barr)「ほほえみ」
(でも、本当の原作者はウィルフレッド・オーエン(Wilfred Owen)だと書かれてありました。
本当のところはわかりませんでした)
ほほえみは、お金を払う必要のない安いものだが
相手にとっては非常な価値をもつものだ
ほほえまれたものを、豊かにしながらも、ほほえんだ人は何も失わない
フラッシュのように、瞬間的に消えるが、記憶には永久にとどまる
どんなにお金があっても、ほほえみなしには貧しく、
いかに貧しくても、ほほえみの功徳によって富んでいる
家庭には平安を生み出し、社会では善意を増し
二人の友のあいだでは、友情の合言葉となる
疲れたものには休息に、失望するものには光になり
悲しむものには太陽、さまざまな心配に対しては、自然の解毒剤の役割を果す
しかも買うことの出来ないもの、頼んで得られないもの
借りられもしない代わりに、盗まれないもの
何故なら自然に現れ、与えられるまでは、存在せず、値うちもないからだ
もしあなたが、誰かに期待したほほえみを
得られなかったら、不愉快になるかわりに
あなたの方からほほえみかけてごらんなさい
実際、ほほえみを忘れた人ほど
それを必要としているものはないのだから
★致知一日一言 【今日の言葉】
建国記念の日に送る言葉「俺がやらねば誰がやる」
やはり「一億総評論家」では
何事も前に進まない。
渋沢のように
「俺がやらねば誰がやる」の
気概と精神を持った人間が
いまの日本には必要なんです
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北 康利(作家)
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★致知出版社の「ご縁メール」
≪渋沢栄一のここがスゴイ【最新号のココが面白い】≫
最新号(3月号)の『致知』では、
昨年から注目を浴びている
渋沢栄一の生き方に焦点を当てています。
トップ対談は、作家の北 康利さんと、
渋沢史料館館長の井上 潤さんが登場。
「俺がやらねば誰がやる」
渋沢栄一の気概と精神こそ、
いま私たちが学ぶべきであると
語る北さんの発言には、
グイグイ引きこまれるものがあります。
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【北】
作家の城山三郎さんは、渋沢は
「吸収魔、建白魔、結合魔」の
「三つの魔」を持っていたと言っていますが、
改正掛の仕事を見ると、まさにその通りだなと。
私が改正掛の仕事を調べていて特に感動したのは、
やはり自分より年齢が上で、蘭学者としても
圧倒的な実績のあった前島密をまるで
猛獣使いのように部下として使いこなし、
郵便制度を形にしていったことですね。
そして渋沢は部下のやった仕事を
自分の実績にしない。これも大したものです。
それに、渋沢のもとにはたくさん人が集まってくるんですよ。
例えば実業家・安田善次郎は、
最後暗殺されてしまうのですが、彼は
「小鳥ども笑わば笑えわれはまた世の憂きことは聞かぬみみずく」
という歌を詠んで世間から超然としていました。
しかし渋沢はその反対で、思いなり信念なりを周りの人々に語り、
自分を理解してもらおうとしているし、
ユーモアも大好きで周りの人を楽しませようとする。
これが暗殺された安田との違いであって、渋沢が人々に慕われ、
たくさんの協力者を得ることができた理由だと思います。
いわば渋沢は、周囲を巻き込んでいく人、
渦の中心になる人だった。
そういうところから、大久保利通などは、
渋沢を自分の地位を脅かす存在として
危険視するようになったのではないかと思います。
渋沢はどんな人材も使いこなし、いろんな人を巻き込み、
物事をどんどん実現していくわけですから。
【井上】
本当にそうで、渋沢史料館に一点、
大久保から渋沢への手紙があるんですが、
それには「大久保利通」ではなく、
「大蔵卿」として署名されている。
要は、あくまで自分のほうが
上なんだということを渋沢に示したわけです。
実際、やがて大蔵省で国家予算にも関わるようになった渋沢が、
国力を増すには歳入と歳出のバランスを
きちんと考えて経済基盤を確立するべきだと主張しても、
大久保たちはそれを無視し、どんどん予算要求を
強めて富国強兵を推し進めていく。
結局、その立場の違いが原因となって、
明治6(1873)年、渋沢は明治政府を飛び出し、
民間の立場から事業に邁進していくことになるんです。
民間のほうが自分の目指す世界を
早く実現できると思ったのかもしれません。
それに明治政府に残っていれば、
現在の次官クラスに昇進できたはずですが、
渋沢は自らの地位に固執しない。
これも渋沢の偉いところだと思います。
★エドガー・ケイシー
今日(2月11日)の珠玉のリーディングをお届けします。
人はまったく何もしないよりも、積極的に動いて間違う方が遙かに良い
One had best be active and in error than not doing anything at all.
(262-126)
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