朝晩、母の為に亡くなった後の祈りをしているのですが、母はもう光の中に行っただろうか、まだ到達していないのかなあとここのところ思っていました。
昨夜、初めて母の夢を見ました。
母と紅葉を見に行っていて、おうどん屋さんに寄りました。
会計の時お店の方が「よく来て頂くのに連絡先を知らないから書いて下さい」と言われ、書き始めたものの母がじっと待っているかどうかが気になりました。
母をみようとお座敷の方を見ると母がいない。
慌てて外に出て母を探すと面白いことに以前お世話になって施設に移動されたヘルパーさんがにこやかに通り過ぎて行かれたりし、その向こうに春色の服を着た母が見えました。
光に包まれているような感じでベージュのような色合いのカーディガン?を着ていました。
振り返ると、その顔が随分と若く、背中も曲がっておらず
しかもシルバーカーがなく、しゃんと立っています。
「シルバーカーなしなんて危ないわ」とびっくりして「シルバーカーはどこ」と言いつつ前からのぞき込むと杖は持っていました。
前から見ると母は少し前かがみ。
この夢は夜中に目が覚める前に見たのですが、朝起きても覚えていました。
もしかして象徴的な夢
母は随分と若くなり綺麗になっていて広い道路のやや左端にいました。
まわりも明るかったのですが、母の周りも顔を光っていて、母は明るく何の痛みもなさそうに笑っていました。
母はもう着いたのかなと思いましたが、前からのぞき込むとまだ杖を持っていてやや前かがみでしたので、まだ光の中に完全には到達していないのかなと思えました。
生前、母に「何らかの印をちょうだいね」と言っていましたので、これはその印かなと思えました。
私はもうしばらく、母が光の中に完全に入ってしまうまで祈りで援助します。
これって何の宗教でも神秘学的な解釈でもなく(いつか聞いてみたいですが)、あくまで私の個人的な想いです。
母は順調に光の道を光に向かって旅しているようです。
でも、到着にはもう少しかかりそう。
ですから、私はこれからも祈り続けます。
何か、とっても嬉しく励みになる夢でした。
今日の果物
頂いた柿が熟柿になってしまいましたが、甘~。
熟柿は母の好物でした。
そう言えば、最後に食べさせたのも柿だったのですが、美味しくなかったようです
違う町内のママ友が遊びに来ないと誘ってくれましたので出かけました。
少しだけクリスマスヴァージョンにしたと言っていました。
この家はとっても彼女らしいです。
手作りチョコを頂きながらあれこれ積もる話をしました。
今朝の夢のことも話をしたところ「まだ行っているわけないじゃないの。49日と言うでしょまだ家の周りをウロウロされているわ」
なるほど、そうか~と思いました。
(仏教の場合ですが)
2つ買ったからということでくれました。
どこに飾ろうかな
少しご近所を2人で散歩しました。
フランス料理のお店が出来ていました。
空いていたら入りたいところでしたが、予約でいっぱい。
このおうち、面白い
こんなおうちもありなんだ~と妙に感心している私に「今の家がいいよ。あそこに居てね」
このお宅、左が1部屋で、右がお風呂とお手洗いなどだそうです。
お家賃は4万円
その後、けやき通りを通って帰りました。
又、少し紅葉が進んでいて綺麗でした。
我が家
帰って、チベット者の書を調べました。
昔読みましたので本もありますが、YouTubeにこんなのがありました。
チベット死者の書
NHKです。
チベット死者の書と個人の一生の予言の書(アガスティアア等)を以前、一緒のものと思っていました。
個人の予言の書がチベットあたりにあると聞いたことがありましたので。
でも、全然違っていて、アガスティアは南インドでした。
聖アガスティアはヒンズー教の聖者で5000年位前の人ですが、今も予言の書を書き続けているそうです。
な~んて書くと、頭がおかしくなったと大抵の人は思うと思います
このアガスティアの予言が今では日本でも開けることが出来ます。
もう何年も前、友人と大阪まで行きました。
(何でもやっています)
必要なのは親指の指紋だけ。
世の中には本当に不思議なこともあるものだと思いました。
これについてはブログに書いていますが、今、思うことは予言は将来を決めるものではないということです。
過去は全部当っていましたが、将来はいかようにも変えることが出来ますし、実際、変わっています。
(インドの方々は信仰熱心なので信じてその通りに死んでいかれるようですが)
その後、お香の為炭と灰を買いに行き、少しお散歩に行きました。
いつも抱きついているポプラちゃんがいつの間にか剪定されていました
買ってきた灰と炭
お葬式の夜に神父様に頂いたとってもいい香りのお香。
母のお葬式で使われました。
甘く深呼吸したくなるような深みのあるお香の香りが家中に漂ったと思います。
普段はスティックのお香やアロマキャンドルですが、このお香もこれから時折使おうと思います。
もったいないので少しずつ。。。
明日は友人と紅葉を見に行く予定です
今日、大山も蒜山も初冠雪だそうですので楽しみです。
★致知一日一言 【今日の言葉】2024.1119
出逢いには必然性がある
人間、苦労しながら一所懸命やっていると、
後で仕事に役立つことがあるし、
人が親切にしてくれる。
有形無形に関係なく返ってくるなあと感じています。
大勢の人に支えられてきて、
「出逢いには必然性がある」と思うんです。
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永山久夫/92歳の食文化史研究家
○『致知』2024年12月号
特集「生き方のヒント」より
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★92歳で元気溌剌、現役で活躍する食文化史研究家の永山さんに、
健康長寿の極意、具体的な養生法を教えていただきました。
インタビューの詳細はこちら
★致知出版社の「ご縁メール」
ごん、お前だったのか。
男性にも好評な連載に、鈴木秀子先生の
『人生を照らす言葉』があります。
先日もある学校の先生(男性)から、
次のようなお手紙が届きました。
●鈴木秀子先生がご紹介くださっている『ごんぎつね』は
私が子どもの頃には、教科書に載っていましたが、
今の教科書にはありません。
このお話には、子どもたちに教えたい大事なことが
沢山ありましたので、大変残念に思っていますが、
今回鈴木秀子先生がご紹介くださいているのを再び拝読して、
子どもたちや孫たちにも教えたい話だと改めて感じています。
その鈴木秀子先生が紹介されている
『ごんぎつね』の一部をご紹介させていただきます。
(『致知』2022年12月号 連載『人生を照らす言葉』より)
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孤独だからこそ分かることがある
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新美南吉(にいみなんきち)(1913~1943)の『ごんぎつね』は
お子さんからご高齢の方まで日本人によく親しまれている童話です。
とても分かりやすくて心揺さぶられるストーリーですが、
主人公であるごんと兵十の心の動きや何気ない行為を通して、
人生の深い知恵を読み取ることができます。
ごんはどういう狐だったのか、作者はこう述べています。
ごんは、一人ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。
そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出て来て、いたずらばかりしました。
はたけへはいって芋をほりちらしたり、菜種(なたね)がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。
生きる逞(たくま)しさがあり、頭もよくて寂しさを自分で紛(まぎら)わせることができる。
一方で、子供っぽいやんちゃな面を併せ持っている。そんな姿が描かれています。
ある日、ごんは村人の兵十が川の中に入って魚を捕獲する様子を見て、
いたずらを思いつきます。
兵十がいなくなった隙に、魚を入れた籠(かご)に近づき、
魚を掴(つか)みだしては川をめがけてぽんぽんと投げ込むのです。
最後に大きなうなぎに掴みかかったところ、
うなぎはごんの首に巻き付いたまま離れようとしません。
これを見た兵十は「ぬすと(泥棒)狐め」と怒鳴り立て、ごんは、
うなぎが首にまとわりついたまま、遠くに逃げていきました。
10日ほどした時、ごんは村の様子がどこか慌ただしいことに気づきました。
誰かが亡くなったようです。
葬列の様子を見ると、兵十が白い裃(かみしも)をつけ、
位牌を手にしていました。死んだのは兵十の母親でした。
その晩、ごんは、穴の中で考えました。
「兵十のお母は、床についていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。
それで兵十がはりきり網をもち出したんだ。
ところが、わしがいたずらをして、うなぎをとって来てしまった。
だから兵十は、お母にうなぎを食べさせることが出来なかった。
そのままお母は、死んじゃったにちがいない。
ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおもいながら、
死んだんだろう。ちょッ、あんないたずらしなけりゃよかった。」
これはごんの空想の世界です。
しかし、その空想は兵十の心の内を的確に読み取ったものでした。
ごんは何気ないいたずらが兵十を深く悲しませたことを後悔しています。
おそらくごんは独りぼっちであるがゆえに、人のことを思う気持ちがとても強いのでしょう。
実際、ごんはそれから兵十の心を慮(おもんばか)り、
いろいろな施しをするようになります。
私たちの人生でも孤独に苛(さいな)まれた時、
それまで意識することがなかった他人の苦しみや悲しみを
我がことのように感じ取るようになります。
それが、その人にとって新しいよき人生のスタートとなることも少なくないのです。
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★[ECCJ] 今日(11月19日)の珠玉のリーディング
エドガー・ケイシー
これらの(肉の)願望は、それぞれの魂が己を犠牲に捧げ、己を祭壇の上に置き、愛の炎にくべて焼き尽くし、消し去らなければなりません。そして、汚れを焼き払った純粋な魂として、再び神のエネルギーと一つになるのです。
These must be blotted out as each soul offers itself in sacrifice that it may be put upon the altars or fires of love and BURNED, as it were, that there might be that purification in the flesh, that there might become again the dross burned away and the pure soul be one with that Creative Energy.
(275-43)