今日はさほど気温は下がりませんでしたが、やはり陽射しが少なく、何となくまだお籠り状態です。
もっとも母が居るからでもありますが。
今朝の果物
今朝の母はいつもよりも食欲がありませんでした。
母のジレンマはいろいろあることと思いますが、今日はその中の2つ。
今朝、いろいろと食卓に並べていました。
好きなものを母が食べられるように。
いつものパン&カフェオーレ、フルーツジュース(母のはプラス干し柿とアーモンドミルク入り)
その他にシチューを作ったり、タルタルソース、お豆腐や厚揚げその他。
全部食べたい。
全部食べたいんだけれど・・・。
食べたいけれども食べられない。
という言葉を何回か言いました。
もうひとつは、
ずっとお台所で車椅子に座っているのはしんどいので、体は横になりたい。
でも、このままいたい。
寝たくない。
母はそういった葛藤の中にいつもいるようです。
ですから、
「いつでもまた食べることが出来るから、また少し休んで食べたら」
「この格好で車椅子で寝ていたら体が休ままらないから、ベッドを起こしてもたれてリラックスした方がいいんじゃない」
と伝え母は納得しました。
身体も自由に動かせないし、辛いことだと思います。
今、自由に動くことの出来る私には到底理解出来ない苦しみだろうと思います。
母に信仰があればあるいは「人生の秋に」(ホイヴェルス神父)の本の中の詩のように思うことが出来るでしょうか。
(後述します)
母をベッドに連れて行き、車椅子からベッドによっこいしょと移動させようとしましたが、今日は足が踏ん張れず前へ前へ。
でも、何とか近いのでベッドに座らせたのですが、座った位置がいつもより下の方。
なかなか母を上に持ち上げることが出来ません。
母は「足がつかえてしまって伸ばすことが出来ない」と言いました。
さて、どうしたものか。
とにかく足が痛くて私も踏ん張れないけれども、ベッドの頭の方に回って母の脇に手を入れました。
看護師さんたちはベッドの上に上がって母を持ち上げられますが、それはとてもじゃないけど、今の私には出来ません。
不安定なベッドの上で痛みの為に踏ん張れず母の上にひっくり返るかもしれません。
そこで、とにかくベッドの頭にまわって
「持ち上げるよ。」
と声をかけて上に引き上げようとしますと
母も「よいしょ」と言いながらがんばってくれました。
そこで、「じゃあ行くよ。よいしょ」「よいしょ」とふたりで言い合いながら、何回かかけて少しずつ上の方に上がり、やっとやれやれいい感じのポイントを見つけました。
ヘルパーさんや看護師さんなら出来ることが今の私には出来ないので、こういう時にも困るのですが、これが日常です。
ですから、何としてでも早く膝を治したい。
その後、今朝5時過ぎに目が覚めたせいで眠かったのか看護師さんが来られるまで寝ました。
大声ではなかったのですが、SOSらしき言葉を言いました。
息が出来ない気がするようですし、やはりパーキンソンのせいで飲み込みや口を閉じ切ることが段々と難しくなってきたようです。
しかも、絶えず、ティッシュで舌を触り続けます。
どんなに言っても脅してもダメ。
(脅しはよくないし、脅したくもないのですが)
脅しはばい菌が入ってインフルエンザとかコロナに感染したら困るから止めるようにというものですが、最初は効果がありましたが、今はもう全然ないです
ペロペロキャンディーは今日は2回効果がありました。
でも、調子のいい時間帯(2時間ほど)もありました。
3時頃、看護師さんが帰られた後、稲荷寿司をミキサーにかけたものを食べたのですが(小さ目を3個は食べますが、今日は半分くらい)、その後You Tubeで「青空体育」を観ながら歌ったり体操をしていました。
その間に、お水をやりにお庭に少し出ました。
最近の私、優しくない。。。と思います。
前述の「人生の秋に」の中の「最上のわざ」
何回かアップしてきたものですが、自分の為にも、最近、読み始めて下さった方の為にも再度アップします。
最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、
おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで
神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために
役だたずとも、
親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物、古びた心に、
これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐ鎖を
少しずつ外ずしていくのは、
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後にいちばん
よい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、
神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、
われなんじを見捨てじ」と。
ヘルマン・ホイヴェルス神父
Life's Greatest Task
What is this life's most important task?
To grow old with a cheerful heart,
To be still even when I would like to be active,
To be silent when I would like to talk,
To have hope in times of frustration,
To carry my cross in humility and serenity of heart,
To put aside envy even when I see younger people walking God's path full of health and energy,
To humbly accept help from others when I would rather work for the sake of others,
So when I can no longer be useful for others because of frailty I need to gently and humbly accept the heavy burden of old age as a gift from God.
I have an aged heart that has been in use a long time and now God is giving it a final polishing so that I can return to my true home all shining.
To gradually release myself from the chains that bind me to this world is indeed a wonderful work.
When I cannot do things let me humbly accept these circumstances in humility.
However for my closing years God has kept for me the most important work of all, and that is:
Even if I can no longer do anything else with my hands, right to the very end I can join those hands in prayers.
I can pray, asking for God's blessings upon all those I love.
And when I come towards my end, approaching death may I hear God's voice when He says to me;
"COME ! YOU ARE MY FREIND ! I WILL NEVER DESERT YOU !"
Hermann Heuvers
このようでありたいと思います。
が、その前に、瞑想中に即死したいわ。
な~んて思っています。
今は人生の「白秋」の後半あたりかなと勝手に思っていますが、確実に「玄冬」に向かっています。
いよいよその時が来たら、このようでありたいと願っていますが、今、願えないなら将来願えるはずがありませんね。
とにかく、謙虚でありたいです。
考えたら誰もが年を取れるわけではないのです。
いろいろな意見があると思いますし、いいとか悪いは別として、又、望む望まない等も別として、やはりそう考えると年を取ることが出来るというのは祝福です。
辛いことも多くなりますが、やはり祝福であり感謝です。
母にも優しく、老いの重荷を軽くしてあげられるように努力したいです。
多いに反省
その反省、戒めとしているのがこちら。
これもよくアップしてきたものです。
(英文は以前、私が訳したものなので怪しいです)
老人の友人に対する至福 Bless for an old man's friend
私のよろける足どりと、ふるえる手を、理解してくれる人は幸いです。
Blessed are the people that understand my staggering foot and my hand's trembling.
私の耳は、人のいう言葉を聴きとるためには、大きな努力が必要であることをわかってくれる人は幸いです。
Blessed are the people who understand that great effort is necessary to hear the words of other people.
私の目はうすくなり、私の行動はのろいということを善意のうちにわかってくれる人は幸いです。
Blessed are the people who understand in good faith that my actions are slow and my eyes are growing thinner.
私がコーヒーをこぼしても、かわりない平静な顔をしてくれる人は幸いです。
Blessed are the people whose calm face does not change even though I spill my coffee.
しばらく立ち止まって、明るくほほ笑みながら、おしゃべりをしてくれる人は幸いです。
Blessed are the people who stop for a while and talk with a bright smile.
「今日はその話を二度も聞きましたよ。」と、決して言わない人は幸いです。
Blessed are the people who never say "I heard that story twice today."
楽しかった昔を取り戻す方法を、知っている人は幸いです。
Blessed are the people who know how to bring back the joy from long ago.
私が愛されており、ひとりぽっちでないことを、教えてくれる人は幸いです。
Blessed are the people who taught me that I am loved and not alone.
私には十字架を荷なう力がないことを、わかってくれる人は幸いです。
Blessed are the people who understand that I am not strong enough to carry the weight of the cross on my shoulders.
愛情深く、人生の最後の旅路の日々を、なぐさめてくれる人は幸いです。
Blessed are the people who will with love celebrate the last days of my life's journey.
<老人の友人に対する至福 (幸いな人)>
(桐生聖フランシスコ修道院 ブレビアン・ウォルシュ神父作)
(Written by Kiryu St. Franciscan Monastery Fr, Brevian Walsh)
★致知一日一言 【今日の言葉】2024.1.27
学ぶほどに足りない自分に気づく
生かされた命ということが
本当に分かってくれば、
自ずからそれに相応しい生き方を
しないではおれなくなる。
学ぶほどに足りない自分に気づけば、
限りなく学ばないではおれなくなる。
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青山俊董(愛知専門尼僧堂堂頭)
○『致知』2020年11月号
特集「根を養う」より
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●仏教講演、執筆活動などで広く知られる
愛知専門尼僧堂堂頭の青山俊董師。
5歳で禅門に入り、今日まで80年以上、
求道一筋に生きてこられた
俊董師のこの言葉からは、
信念を持って一道を貫いた人の
強烈な気迫が伝わってきます。