村芝居演じる人よ世を治む
むらしばいえんじるひとよよをおさむ
旧暦にあたる延暦13年10月22日(1228年前)、時の桓武天皇がそれまでの長岡京から京都の山背国葛野郡へ遷都を行ったことにちなんで制定された平安遷都の記念日。
桓武天皇は、日本の第50代天皇。
平城京から長岡京および平安京への遷都を、桓武平氏の始祖となる。
白壁王(後の光仁天皇)の長男として(第一皇子)産まれた。
生母は百済系渡来人氏族の出身である。
平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。
初めに長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後、長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。
また、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征伐を敢行、最初の軍は惨敗したが、2度目の遠征で補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送し、蝦夷の脅威は減退、田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。
しかし晩年には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの建言を容れて、いずれも中断している。
また、軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、健児制導入の百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。
その結果として、9世紀の日本列島は無政府状態となり、有力な農民が自衛のために武装して、武士へと成長することとなった。
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私の実家は桓武天皇の末裔が始祖となり、今の○○家があります。
○○という苗字は字が少し違う場合もありますが、全部始祖は同じだそうで、国学者により証明されているそうです。
子供の頃はよく祖父にそれらの話を聞かされたものです。
時が変わって坂上田村麻呂がアテルイをだまし討ちにして蝦夷征伐されましたが、今の時代になってもそれらの縁は脈々と続いているようです。
実家の祖父が宮城県白石から北海道に入植したのもそれらの縁があるようです。
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偶然はなくすべて必然だとも言います。
夫は源氏・私は平家そして蝦夷がいて、その縁をまあるく納めたいものと思います。
祈りは通じると言いますのでしっかり祈って行こうと思います。