短日の寺の鐘まで短かけり
みじかびのてらのかねまでみじかけり
短日に力を誇示す輩ども闇の中へと連れ込まれたり
日本を代表する 小説家 劇作家 随筆家 評論家 政治活動家 皇国主義者 にして、戦後の日本文学界を象徴する作家の一人であり、その作品はノーベル文学賞候補になるなど、海外でも広く認められた作家だった三島由紀夫氏。
そんな同氏が、1970(昭和45)年11月25日、憲法改正を訴えるため自ら主催する「楯の会」のメンバーと共に、東京・市ヶ谷にある陸上自衛隊東部方面総監部にて総監を人質にとり、自衛隊の決起を呼びかける一種のクーデターを起こしました。
本館前に自衛官1,000人を集合させ、約10分間演説を行った直後、自ら割腹し命を絶つ結末に…。
この事件は、日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、海外でも国際的な名声を持つ作家の起こした行動に驚きの声があがりました。
三島由紀夫氏が自衛隊基地に乗り込み割腹自殺をした11月25日は、自身の小説『憂国』にちなんで、憂国忌とされております。
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この事件の事は私も覚えております。
その後ある偶然から「楯の会」No.2の本多清さんを知り、彼の館山の別荘にも行ったことがあります。
その時はもう事件から30年以上経ってましたので、あまり触れられることも無かったように思います。
2005年12月4日TBSで放送された「英霊漂ふ・・・~三島由紀夫自決・35年目の夢枕~」・・・
当時、楯の会ナンバー2だった本多清は、生き残った。
早朝、時々刀を振る。
三島から直接真剣を渡されていた。
いつでも死ぬつもりであった。周りから三島の「片腕」と言われ、いい気分だった。
しかし、三島由紀夫の「決起」計画では、外された。
隊員の内、彼にだけ遺書があった。
三島文学よりわかりにくい言葉が連なっていた。
言い訳としか感じられなかった。
なぜなのか・・・今でも引っかかっている。
ずっと考えている。
楯の会が解散しても、第二楯の会を結成したこともある。
本多は、実業の道を歩んだ。
しかし、苦労は多かった。
楯の会の仲間に頼まれ保証人となる。
6000万円の負債をしょった。
年月が経ち、あれこれ考えている時に思い当たったこともある。2・26事件を巡る見解の相違。
三島由紀夫は先生である。
ほとんど考えは一致しているのだが、こと2.26事件となると、くい違った。
三島由紀夫にとっては、青年将校は少年期よりの英雄である。
しかし本多は、人を殺した決起を認めていなかった。
祖国を防衛するために楯の会に入ったのだ・・・。
そんな言い分を直接ぶつけたことがあった。
2・26事件に入れ込んだ三島は、逆に、英霊たちに、魅入られた!少なくとも、美輪明宏はそう見ていた。
事件の年の正月、南馬込の三島邸で、美輪明宏は、三島の背後に青年将校の霊を見た!「磯部浅一」の霊。
死刑となった青年将校の中で、天皇陛下万歳を叫ばず、呪いの裡に果てた磯部。
磯部が憑いている。
美輪が言い当てるのを本多は見ていた。
磯部の霊に突き動かされたからなのか。
三島由紀夫自身も納得した。
青年将校の呪詛を描いた「英霊の声」では、三島の手は勝手に動いたと三島は語っている。
話を戻すと、2・26事件での見解の相違こそが本多が決起から外された理由だったのか。
それを問題にしたのは、三島なのか、あるいは、憑依していた磯部だったのか。
三島に問いたい思いが募る。
33回忌も過ぎ、弔い上げも終えた。
三島の魂も落ち着いているものと思われる。
なぜ、私は外されたのか。
ある日、本多は「英霊の声」の趣向そのままに、霊媒のもとへ旅立った・・・・・・。
元楯の会ナンバー2 : 本多清 最後のインタビュアー : 前田宏一 18年来の友人 : 美輪明宏 その他
しかし何事も暴力を持ってなされることなどは辞めておいた方が良さそうです。
全て自分に返ってくる・・霊までもが。
三島由紀夫の死は何だったんだろう?霊に殺されたのか?
こんなことはもう遭ってほしくないものです。
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網走はコロナワクチンの5回目の接種が真っ盛りです。
北海道のコロナ感染者が急増しておりますが、網走もご多分に漏れずです。
という訳で今日は母とオミクロン株対応のワクチン接種に行ってきます。
昨日は施設でパーマをかけて貰ったとか、みんなにホントにかけたの?と言われるくらいのパーマだったようです。