鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

虫穴は拝所だからあえて虫穴岩とは呼ばない

2020年09月22日 | 鳥海山
 わかりやすい、という安易な考えが伝統を駆逐するんですね。それが「虫穴岩」の表記にも表れています。この拝所に祭られているのは虫穴大神で虫穴岩大神ではありません。
 変色した写真も色情報を破棄すれば、あらなんと、少しは見られるではないか。よく見ると虫穴の上でお昼寝している人がいます。
 
「虫穴岩」でいいとする人に共通するのは以下の二例を見ていただきましょう。
 
 虫穴は「虫穴」とだけ表現するとすでに知っている人には問題ない名称ですが、初めて聞いたり見た人はいったいなんのことだか分からないでしょう。「虫穴岩」とすれば溶岩が冷える過程でガスが抜けた細かい穴だらけの岩石だろうという推測ができます。したがってどちらの名前でもよく、正誤の話ではないと思います。
 
 「虫穴とするよりも、ガイドとしては虫穴岩とした方が分かりやすいかな、という判断で虫穴岩にしました 。」
 
 何のことかわからないから興味を抱き過去に触れてみたくなり、その結果その名前の由来を知れば名前を大事にするのではないかと思いますが。
 ガスが抜けたという物理的話ではなく、その穴から虫が出て田を荒らす、それ故に虫封じのために穴を紙でふさいだ、というところに意味があり、昔の人はそこを「虫穴」と呼んだということが大事なのです。物理的に大きなガスが抜けた跡がある溶岩塊の意味ではないのです。わかりやすい必要は全くありません。
 
 ガイドを生業の一部とする人にとってはわかりやすいことが重要なんでしょうけれど、それならば名前の由来がはっきりしている場合はその由来も説明し、正しい名前も伝えていくのもガイドの役目ではないでしょうか。由来を知らなければ説明のしようがないですが、鳥海山をガイドするならその辺は必要条件じゃないでしょうか。
 
 長い歴史の中で「虫穴岩」という呼称が使われてたという事例があるかどうかを確認しないで、また確認したうえでならなのこと、わかりやすいから「虫穴岩」でも良い、両方使われているから「虫穴岩」でも良い、正誤の問題ではない、という人はガイドの名に値しません。
 
 ついでですが、鳥海山、山形県地元の人はチョウカイサンとは発音しません、チョウカイザンと発音します。PCでは登録しないとチョウカイザンでは変換できませんでした。七高山も「ナナタカヤマ」と入力しないとならないので「シチコウザン」の読みで単語登録しました。そういえば秋田の鳥海山麓の方では若い方でも鳥海山を「おやま」と呼んでいました。
 
 そういえば夢の倶楽で斎藤政広さんの写真展をやっているというので行ってきました。夢の倶楽、驚きましたね、未だに「おしん」を目玉に観光で生計建てようとしている。たいした観光資源もないのですからしょうがないのでしょうがちょっとひどすぎます。表現は悪いですが、醜女の遊女が他人の着古しのほころびた着物着て客引きをやっているようなものです。
 あっ、写真ですか。つまらなかった。鉾立のビジターセンターでやっていた高田秀一さんの写真展は力強い鳥海山への思いが感じられましたけれど。
 写真で生業を立てている方の写真って案外つまらないです。誰にでもわかりやすい場所をわかりやすいように無難に撮影しているからでしょうか。そこからは山で出会った新鮮な驚きも感動も伝わってきません。素人の方が撮影したものほうが衝撃は強いものが数多くありますね。
 ある写真家の方がこちらで鳥海山写真展を開いたのですが、それを見に行った方「おっ、いいなあ、欲しいなあ、一枚買うか。」と値段を見たところ、ん十万円。「ウーム、この風景だったら俺でも写せるか、止めとこう。」
 決して酸っぱい葡萄の論理ではありませんね。それを聞いた人々、「わかる、わかる。」
 
 悪口、罵詈雑言と思われるかもしれませんが、昔から仲良く褒め合う友達はいりません、って生きてきたので今更治りようがありません。

んーっ、カップ・ヌードル

2020年09月21日 | 兎糞録
 よく出来ていますねー、カップヌードルのプラモデル。
 昭和46年(1971)9月18日の発売だそうです。半世紀も前ですね。発売当時は100円、袋麺が30円の時代に。様々なカップラーメンが発売され、カップ・ヌードル自体もいろいろな味のものが発売されたけど、最後に行きつくところはこれ。
 左本物、右プラモデル。取り外しのできる全面が少し浮いているのでちょいと違和感はありますけれど、蓋をとって置いておくと間違ってお湯を入れそうになってしまいます。


鳥海山の八十年前の絵葉書

2020年09月21日 | 鳥海山
 古いカラーの絵葉書があります。
 左は御田ケ原、今の御田でしょう。右は七高山。
 左の写真を見ると神事に倣い、田植をしているようです。そういう故事があるために撮影用に行ったのではないでしょうか。
 左の葉書の下の方にアルファベットで、Godengahara on Mt.Chokai,Akita と書いてあります。このころは「ごでんがはら」と呼んでいたのでしょうか。象潟口に御田ヶ原がありますが「オタガハラ」です。矢島口のこの地形は「御田」として神事が行われていたのではなかったでしょうか。矢島方面の詳しいことはわかりませんのでどなたか教えてください。ただし御田は「オダ」とは呼ばれていなかったのは確認しています。上の絵葉書の表記が間違いないなら御田の読みは「ゴデン」でしょうか。

 左、新山への登り、右は山頂御本社です。
 左は行者岳、右は中の一枚にあった差出人です。戦争中、米国との開戦一年前ですね。この時点でナチスドイツはオランダ、ベルギー、フランスに侵攻開始しています。昭和十五年(1940)ですからカラー写真ではなく着色でしょう。それにしても八十年前の葉書がこれほど色鮮やかに保管されていたとは驚きです。


 最初に見たとき、あれっ、蔵王の御釜の写真が混じっていると思いました。湖の色と、縁に緑がないせいです。着色のせいでしょうか。それにしても対岸が少々荒々しく削られているように見えます。

 手元にある鳥海山の古い写真のコレクション、すべてスキャンして整理、まとめて閲覧できるようにしようかと思います。

昔、大清水での山納

2020年09月20日 | 鳥海山
 ずーっと昔、会社の広報に頼まれて書いた原稿が出てきました。このブログを書き始めたころこの大清水の避難小屋のことを書いたことがあるのですが、その時の詳細を書いたものです。大清水の避難小屋での宴会は十年ほども続きました。このころ体育の日は10月10日と決まっていましたから、その前後休みをもう一日とって行っていました。これはその初回の記録です。何度も言いますが大清水は「オオシミズ」ではなく「オシズ」です。地名の漢字は古ければ古いものであるほど音に合わせて文字を当てはめた場合が多いようです。以下お暇でしたらお読みください。

 八月の四日間の黄金の日々が過ぎ去ると、しばらくは休日の度に悪天候に見舞われ、山行きも思い出に残るようなものがなくていたところ、十月に入って、連休に山小屋で酒飲みしようと友達から電話があり、鳥海山百宅口大清水避難小屋に一泊することに決定。
 当日はスーパーですき焼きの材料、鰻蒲焼、麻婆豆腐の材料、帆立、ビール、ウヰスキーなどを買い込んで一路紅葉に囲まれた奥山林道を大清水までまっしぐら。しかし空は一面の曇り空。雨を含んだ冷たい風が吹き、今にも降り出しそう。
 林道を走ること一時間余りで目的の避難小屋に到着。いつもはたいして訪れる人のいないここも思いの外賑っている。小屋の中には先客がいて泊る場所もないかに思われたけれど、幸い二階が空いていたので早速荷物を広げ一部屋占領する。
 右の避難小屋はもうありません。石垣の左に階段がありますが腐って今にも崩れそうになっており、翌年には梯子に掛けかえられていました。いかにも山小屋といった風情の小屋でした。

 外に出て湧き水にビールを冷やし、一本飲みながら景色を見るが、頂上は生憎ガスに囲まれている。秋の夕暮れ、さすがに寒さが身に凍みる。小屋の中では薪ストーブがパチパチと音を立て、焚口の隙間からオレンジ色の炎を見せている。二階に上がると下でストーブを焚いているため十分に暖かい。静かになったので外の様子をうかがうと階下の人も外でキャンプしていた人の姿もいつの間にか見えなくなっていた。よく冷えたビールを重ねるうちに下にまた誰か登山者が来たようだ。到着した登山者独特のざわめき、荷物を下ろす音が聞こえてくる。
 日も暮れてきたのでガスランタンに火を灯す。そろそろ腹が空いてきた。プリムスのコンロにフライパンをのせ、牛肉を炒め始める。醤油、調味料、酒、葱、豆腐、春菊、椎茸、白滝を入れ煮込み始めると山こやでこんな贅沢をしていいんだろうかと思えてくる。さて今度は何をつくろうか。アスパラのサラダ、帆立貝、大蒜のホイル蒸し、食料はまだまだあるが、酒が足りなくなってきた。もう一人来る予定なんだけれど外はいつの間にかものすごい土砂降りだ。雷も鳴りだした。あんな凄まじい悪路、真っ暗闇、しかも豪雨の中、ほんとに来るだろうか。来てもらわないと酒が足りない。

 みんな酔いが回り十分に満腹になったころ、ガラッと扉を開けて雫を垂らしながら、
 「来たぞーっ」
 「よぐ来た、よぐ来た、飲めーっ」
 こうして避難小屋の夜は更けていった。

 翌朝、もう一人到着。また酒が来た。雨はあがったものの、空には相変わらず雲がかかっている。朝から宴会の続きになってしまった。秋の山の朝は骨をきしませるほど寒い。

 風の音が止み幾分日が差してきたなと全員で二階のベランダに出てみるとなんと、真っ白に雪をかぶった頂上が。紅葉の上にのしかかるように白い鳥海とその背景を塗りつぶす青空。雲が時々大きな刷毛のように空を刷いていく。全員口々に「いい、いい」の連発。カメラが並ぶ、響くのはシャッターの音だけだ。これだけの景色を眺めればここの誰もがもう山に登らなくとも十分に満足してしまった。
 酔いもさめたし、あとは林道を走って鳥海山を一周して帰ろう。

 おまけで大清水山荘の概要をのせておきます。階段が梯子にかわっているのがわかります。人が腰をかがめているところが湧水を貯めて流すコンクリートの水槽があります。
 東北の避難小屋144より。今は無い山小屋の貴重な資料でしょう。どうです、泊ってみたかったでしょう。次の図はオオシミズ避難小屋の内部見取り図です。
 同じく東北の避難小屋144より。上の図右側の二階の細長い板張りの寝所がいつもの宴会場所でした。他の季節でも山荘の前にあった湧き水でゆでた素麺をさらすとこの上ないおいしさになりました。

まだ続く虫穴

2020年09月17日 | 鳥海山
 まずはご覧ください

 宝永元年(1704)蕨岡と矢島との鳥海山頂をめぐる争いに際して作られた張抜模型です。
 右から生嶽(笙ケ岳)、弥三郎岩(御浜小屋の右隣にある巨大な岩)、その下稲村嶽(稲倉岳)左、七高山の上に「虫穴」が見えます。
 この時の裁決の図面の裏書した裁決文があります。引用は松本良一「鳥海山信仰史」です。読みやすいように新かなづかいにして書いてあります。

 「矢嶋百姓申す所、峯通りの証據一円これなし、今度新規の総図面に峯境相知らざる由、これを記すに付、正保年中の古絵図點検せしめ候、庄内領百姓申す趣と符合せしめ候、その上蛇石を限り両郡境の由申すといへども、膀示より八拾間余り北方に件の石これあり、糾明せしめ候処、蛇石より南は飽海郡の由証文これあり候、此石庄内領においては、虫穴と名付けている旨申すに付、由利郡鳥海山麓の者並びに小瀧村衆徒に相尋候処、蛇石は焼石峠の所で仁加保道にこれあり、矢嶋百姓申す処の蛇石は、虫穴と号し由、これを申し、不毛の地、麓之村々並びに由利郡本郷村庄屋不致進退旨これを申す。」
 (下線、赤文字、太字はこちらで強調のため修飾しました。)

 「此石庄内領においては、虫穴と名付け」とあります。決して「虫穴岩」と名付け、とは云っていません。鳥海山麓、小瀧村の衆徒の言う蛇石は今でいう象潟口の焼石峠(今のどこでしょうか)にあった石のことを云っていましたが、矢島側の云う蛇石とは庄内側で云う「虫穴」の矢島側での呼称だったということです。最後の文は、麓の村云々の庄屋は「よくわからない」と答えたということです。
 前回載せた絵図は1800年代ですから、それより百年近い昔も「虫穴」と呼ばれていたことがわかります。これを近年一個人、一部の団体あるいは行政が、わかりやすいように、混乱の無いように、すなわち観光客への媚から「虫穴岩」と呼び変えることは鳥海山への敬意の棄却、歴史への冒涜以上の何物でもないでしょう。