鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

津雲出郷、蛇石、破方口、風石

2024年12月04日 | 鳥海山

 津雲出郷(ツクモデゴウ、ツクモイヅゴウ)とは十四世紀ころの矢島町の古い呼び名です。

 当時の記録には読み方までは書いてありませんのでもしかしたらツクモイヅノサトかもしれません。近年であれば矢島口登拝道を例に挙げてみれば「御田」はその読み方が多くの書にオタ、オンタと記載されており間違うのは勝手に読み違えている人ばかり。

 先日頂いた冊子「津雲出(つくもで)」矢島町の郷土史研究会によるものです。

 長い間康さんの鳥海山日記のこの部分が不明でした。大舘高校の二名の遭難の話のところです。


鳥海山日記 昭和28年8月

八月十四日

天気が悪いので、五人は、午後二時半、頂上に登った。暴風もおちついてきた。

午後七時、この五人のうちの一人と、本社の飯炊き須田元太郎の二人が来て話す。

きのう登った二人が遭難しているとのことだ。遭難場所は、七高山破方口の風石と蛇石の間。死んだ二人は五十メートルも離れて死んでいるとの事だ。


 「七高山破方口の風石と蛇石の間」ここが不明でした。

 

 そのまえに宝永元年 (一七〇四 )九月二十二日幕府詳定所における矢島、庄内の鳥海山境界争いの採決文には次のようにあります。


矢嶋百姓申す所、峯通りの証據一円これなし、今度新規の総図面に峯境相知らざる由、これを記すに付、正保年中の古絵図點検せしめ候、庄内領百姓申す趣と符合せしめ候、その上蛇石を限り両郡境の由申すといへども、膀示より八拾間余り北方に件の石これあり、糾明せしめ候処、蛇石より南は飽海郡の由証文これあり候、此石庄内領においては、虫穴と名付けている旨申すに付、由利郡鳥海山麓の者並びに小瀧村衆徒に相尋候処、蛇石は焼石峠の所で仁加保道にこれあり、矢嶋百姓申す処の蛇石は、虫穴と号し由、これを申し、不毛の地、麓之村々並びに由利郡本郷村庄屋不致進退旨これを申す。(引用は松本良一「鳥海山信仰史」)


 矢嶋百姓のいうところの蛇石と庄内百姓のいうところの蛇石が違っていたということです。矢嶋でいう蛇石は庄内でいうところの虫穴で由利郡鳥海山麓の者並びに小瀧村衆徒に尋ねたところ蛇石は焼石峠のところで仁賀保道(象潟口)にあるということだったのです。その時の張り抜き模型には焼石峠と蛇石、虫穴ははっきりと書かれています。

 

 ところが今回読んだ「津雲出(つくもで)」令和元年第31号 

 付記 「鳥海山大権現」に記載されていない場所 千三百九十一年以降に記されたり誕生した拝所・名所 ここには次の記述があります。


蛇石

外輪山最北端の頂き部。舎利坂金鎖斜面を登り上げる時、行く手正面から襲いかぶさるように、頭上に迫ってくる蛇頭に削られた頂き部東面の名。

斜面を登り終え、左折して七高山、右折すると蛇石の頭。

(七高山とほぼ同じ高さ )

破方口

舎利坂を登り終えた後の蛇石・七高山の分岐地点。 (左右の頂きへの凹部 )

日本海から山頂に真直ぐ上昇してきた気流が外輪内壁に当たり、左右上下に分かれる地点」から名付けられたと言う。

 

七高山頂から稲倉・鉾立方面を眺望する時、その視界は左に新山、右に蛇石、中央に稲倉、中央下部が破方口の構図となる。 

 

虫穴 (虫穴権現 ) (風石・縁結び岩 )

七高山から南に外輪を一五〇mほど歩むと、左手に屏風のように立つ大岩がある。この大岩を「虫穴』または「虫穴権現」「風石」「縁結び岩」と言う。ゴツゴツした溶岩肌が長年の風化によって、虫に食われたように細かな凹凸状になっている。近年はあまり目立たなくなったが、昭和三十六年頃までは、多くの紙縒りが岩の凸部に結ばれていた。

その昔、女人禁制の山だったこと、男女の愛が慎ましやかに表現された時代の思い、家族の幸せ等々を祈願したものであったろう。

また、「風石」は西風の強い日に暖と休息の取り場所としてこの岩かげを利用するから…と聞いている


画像は津雲出31号より


 蛇石、破方口、虫穴が一直線に並びました。鳥海山日記の遭難場所もここで頭の中に浮かんできます。

 ただし庄内側の古絵図では「津雲出(つくもで)」に記載された蛇石が破方口、あるいはは破方口山となっているように見えますし、境界争いの文書では蛇石が「津雲出(つくもで)」と異なっています。土地によって同じ場所でも呼び名が違うというのは往々にしてあることと思えばいいのですが、やはりここは斎藤重一さんが存命ならば、何度も「破方口に出た」と書いているくらいですから明確になったことでしょう。


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