鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

TOKYO1964

2021年08月23日 | 兎糞録

 使っていない部屋を整理したらいろんなものが出てきました。

 まだオリンピックがまともだったころ東京で開催されたときの記念切手です。

 こんなものもありました。

 まだ競技がまともな種類だけだった頃ですね。

 さて、今度はパラリンピック、首相のコロナ感染拡大政策のために。

 それにしても「障害者」という表記、新聞、官公庁は「障がい者」と表記しますがいくら常用漢字として「碍」の字が認められないからと言ってこんな意味不明の書き方はないでしょう。それにいまだ「障害者」と書く場合もあります。

 「障害者」と書けば「さまたげ害をなすもの」という意味になってしまいます。それだから心無い人はそういう風に解釈して行動します。「障碍者」と書けば体の機能に「さしさわり・さまたげ」のある人の意味になります。んーん、でもどうでもいい人ばかりなんでしょうね。

 常用漢字にないからと言って新聞、公共機関が正しい文字を用いず平仮名、あるいは意味の異なる他の文字で表記するということは文化が崩壊しているということです。漢字制限は日本語廃止の動きから来ているのですから。近い将来どこかの国の属国になろうとしているからなのでしょうか。

 


一度は泊まってみたかった大平小屋

2021年08月21日 | 鳥海山

 2012年(平成12年)でしたでしょうか。大平小屋が解体されたのは。滝の小屋と同じデザインの小屋でした。その滝の小屋一時解体され、ほぼ同じデザインで建て直しされました。

 山小屋建設のいきさつなどはめったにお目にかかれないのですが、畠中善弥さんの「影鳥海」そのいきさつがありますので紹介させていただきます。


  大平小屋が建つまで

 昭和二十七年秋の国体山岳開催地が鳥海山に決まった。それについて山の施設として第一に山小屋を新設する事になった。蕨岡口と吹浦口の二ヵ所が予定地である。因って県と関係市町村及び山岳代表者が屡々酒田に会合し協議を重ねた。山小屋建設地として蕨岡口は白糸滝下に好適地があり、標高一二八〇㍍の地に早くも決定を見た。即ち現在の滝ノ小屋である。小屋名は白糸滝近くとあって滝ノ小屋と命名した。所で吹浦口の方は初め七合目御浜近く笙ケ岳寄りの沼地付近を調査したが水質検査の結果飲水に不適当と判り且つは御浜宿舎に近い事もあって見送る事になった。そして標高一四二〇㍍付近の清水が良かろうとの声が大勢を占めた。即ち飲水があり、急坂の蔦石坂を登り切って間もなくの地点であり、東南ピラミッド型の笙ケ岳を控えた広大な緩斜地の一隅にある事から雪期の遭難防止にも役立つといった箇所でもある。所がその後、県側の話に依れば山小屋は今後観光的利用も考慮の要あり、必ずしも高所に限らぬとの意向である事を耳にした。私もその席の一員である事もあって、これは良い事を聞いたと喜んで、私は清水でなく大平を断固主張して一歩も譲らなかった。その理由は、清水は岳人にとり登山基地として、又避難小屋として有用な地の一つであろう。然し国体登山を契機として今後鳥海山の観光的使命を重視すべきであり、清水は三合目駒止から七合目御浜の中間でなく距離的アンバランスが片寄りとなる。従って登山の安全性から無理がある。夏山は問題ないが近年鳥海山の春スキーは全国的に高く評価され、東京方面からの来山者は年とともに増加している。大平は標高一〇〇〇㍍、駒止から御浜のほぼ中間に位し四合五勺に当り、その名の如く大台地になっている所、大平から清水に至る区間は雪期、蔦石坂の大斜面を擁する鳥海随一の大スロープになっている所で、スキーヤー随喜の滑降面である。

 然し一旦荒天になりガスや吹雪の際は目標物のない難所となり、山に馴れた地元の岳人でも満足に歩ける人は殆どいないといってよい。従って清水に小屋があったとしたら遭難は絶えないという事になる。なお観光的に見た場合、建設は下から順次上方へと段階的に施行するのが建前で大平を抜きにして一足跳びに清水では無理がある。県側と山形山岳会、それに酒田、八幡、吹浦の各代表は清水か大平で激しい論議が交され大勢は清水に傾いたが私は絶対大平は譲れないと一人奮戦したので地元村長も止むなく私の説に従うより外なかった。当時の地方新聞に、畠中が大平に固執し続けているので小屋の建設地は難航していると書いてあった。現在の大平小屋がこうした経緯で建ったものである事を伝えるとともに私は今でも当時の考えが正しかったと思っている。なお仮に清水に小屋が建ったとした場合当然付近の這松・白山石楠花・ミヤマハンノキ・ナナカマド等の濯木は燃料に伐採されるのは必定、かつ管理維持面においても荒廃甚だしかったであろう事は想像に難くない。


 伝石坂(傳石坂)は以前は蔦石坂と書いていたと思ったのですが、畠中さんはちゃんと蔦石坂と書いています。ブルーラインの出来る前ということを頭に入れておかないとこの文章の意味も分かりにくくなります。

 清水大神に山小屋があったら面白いなあと思いますし、候補地の「笙ケ岳寄りの沼地付近」というのはどのあたりかと想像するのも楽しいです。まあ、でも皆さんの頭の中には観光ということがお題目としてあってそれが何よりも何かを行うときの大義名分となっていたのは今も変わりはないようです。なお蕨岡口、今では湯ノ台から車で車道終点から滝の小屋に向かいます。滝の小屋から先分岐になっていて通常は右手雪渓を登りますが、夏の初め雪渓が大きく残っている場合は上り降りに使うとアイゼンがない場合滑落の危険があります。特に初心者の方は雪渓を経由せず、いったん左へ向かい突き当りを右へ向かった方が安全でしょう。で、その突き当りから左へ行った方に嘗ては蕨岡の大物忌神社が管理する小屋がいつのころまでかあったということです。その跡地を確かめてみるのもまた面白いと思います。

 写真は畠中善弥「影鳥海」より(アルバムに残念ながら大平小屋はありませんでした。)

 ついでに、旧滝の小屋(撮影年月日からするとそのはずです。)

 もう一つおまけで、「東北の避難小屋144」という本に大平小屋の案内が載っていました。

 この解体した建材はどこかで再利用されているのでしょうか。それとも焼却、破砕処理?

 小屋が老朽化し、利用者が少なければ取り壊されるのはしょうがありませんが、それにしても河原宿の小屋は惜しいものです。


伝喜太小屋

2021年08月18日 | 鳥海山

 昔、みちのくの豆本というシリーズがあり、その中の一冊に斎藤十象「鳥海山談義」という本があります。何サイズと呼ぶのかはわかりませんが縦11cm、横8cmのハズキルーペなしでは読めない小さな本(自分にとって本は今ではすべてそうですが)です。

 斎藤十象氏は明治三十二年生まれ、酒田東高校の講師をしていたそうです。この本は昭和四十年の刊行。限定350部なのでおそらく鳥海山好きの人でも目にすることはできないでしょう。

 その中に、今はなき伝喜太小屋の事が書いてありますのでぜひとも紹介したいと思います。


    高橋伝喜太翁のこと

 鳥海山には、それまでほんとの意味での沢沿いの登山路はなかった。日向、月光の二つの川が鳥海の東面と南面から出て、最上川の下流域穀倉荘内平野の北半を潤おし、最上川へは注がずに、西流してそのまま日本海に入る。ふたすじの乳の流れとでも云うべきか。

 月光川の源流は、滝と潭との連続で大へん美しいのだが、この沢の上流に龍ヶ滝という滝があって、高さ約六十米、この沢中豪壮第一の滝である。その下流には、一ノ滝、二ノ滝があって、ここまではいい登山路があり、特に二ノ滝は縁結びの神として、旧六月一日の例祭には、地元の青年男女の登拝によって賑わっている。そこには熔岩の洞窟があって、岩面にできている無数の小さな岩瘤に、左手で紙撚を結びつけるのである。この沢は、だから二ノ滝沢と呼ばれている。

 どこの山にも付きものの、この山にも七太郎さんという奇人がいた。部落から一里ばかり山へ入ったところに、掘立小屋を建てて住んでいた。私は、この七太郎老人の小屋で、焚火を囲んで、訥々と語られる山の話を聞くのが好きだった。この老人、いつか、部落にある自分の家から鍋を提げて出てきたが、そのまま一里の山道を小屋まで行ったものだ。何と、その鍋には、煮かけた鰯汁が入っていた。聞けば、煮かけていた汁を、そのまま小屋で進ぜようと思って、かくは提げてきたのだというのであった。

 いま一人伝喜太翁がいた。翁は、村の素封家で呉服屋の檀那さんであった。それに慶応義塾のオールドボーイで山好きで能書家であった。七太郎さんとは、馬が合うというのであろうか、一は無学文盲、一は才ールド文化人であったが、すこぶる仲がよかった。年も同じ位であった。龍ケ滝へ道をつけようと思い立った二人は、早速仕事にかかって、二ノ滝の上部を、沢沿いに道路を切り開きにかかった。二人は、遂に念願を達して、龍ケ滝の壮観を世に紹介することができた。それからの上部は、二人を助けた地元の若い人達の奉仕で、二ノ滝口鳥海登山道が完成したのはいうまでもない。昭和七年のことである

 私は、生徒をつれてよく山へ出かけた。二ノ滝登山路の途中、三ノ滝の上、山毛榉の密林の中に建てられた「伝喜太小屋」は、私達の登山基地になった。そこには、炊事道 具はいうに及ばず、ドラム缶の風呂もあったし、螺細の古雅な漆器で、お膳代りにするお盆に至るまで備え付けられてあった。私は、伝喜太翁とも幾度かここで寝起きした。翁は、ここで、山毛榉材に自ら刻んだ素朴な達磨や根締めに、特別注文で作らせた焼印を押したものを、山の土産に自由にお持ち帰り下さい、というわけであった。桜の葉や蕗の葉の形に手ずから焼いた菓子皿もいただいたりした。帰 りには、よくお宅にお寄りして、山で集めた石を見せてもらつた。

 「こでまり」の花の咲く頃であった。例の如く生徒をつれて二ノ滝口を登った。小屋へは、伝喜太翁のお宅のある町から四時間はかかる。途中雨に降られ、山の部落の神社で暫らく雨宿りをしたりして、小屋に着いたのは日の暮れかかる頃であった。山毛榉の新緑が折りからの夕日に映えて美しく、急湍が淙々とひびいていた。着いて間もなく、小屋の外にいた生徒が、「伝喜太さんが来たァ!」という。翁が炉傍でリユツクサツクからとり出したものを見ると、なんとそれは、お重に詰めた十人前位のおはぎであった。

 私はよく単独で山を歩きまわった。八月のじりじりと照りつける頃のことである。その日も二ノ滝道をテクテク登っていった。と、途中、道路の左側から、カッチンカッチンという金属性の音が断続的にきこえてきた。「ここだな」と私は合点した。わずかについている踏み跡を辿って、左側の薮にかくれたガレ(急な岩屑地帯)跡のようなところをよじていった。そこには、急な斜面に、露岩が、灌木の間に綴られたように点在して、上へ続いていた。カッチンカッチンは、この岩に鑿を当てるひびきであった。山仕事の装束に鳄広の麦藁帽を冠り、背をまろくして、一鑿一鑿を丹念に岩に打ち込んでいる翁が、唯一人そこに蹲っていた。空は青く、灼ける日に輝く莊内百万石の田圃と、それにつづく日本海が、雲霞模様の縮緬皺をただよわせて、 漂渺とひろがる大景が眼下にあった。翁は、一念発起、ここに日参して、観音像を露岩に一つずつ刻んでいたのであ る。もう数体が完成していた。その時、私が山手帳を出して記念に書きつけていただいたのが、たしか「未語相見酔」という一句であったと思う。

 四季いつ頃の山が一番いいかと問われたら、それは早春の山と初冬の山だと私は答える。一は谷筋にはまだ雪が詰っていて、尾根筋が黒い地肌を露わす頃であり、他は広葉樹がすつかり葉を落してしまい、六合目以上にはもう雪がきている頃だ。早春の山では、新しい生命の胎動が感ぜられ、初冬の山では、脳の髄まで泌み通る静かさがある。新緑炎ゆる晚春初夏の山、灼熱の下界と隔絶した清涼盛夏の山、錦繡に包まれた秋の山、氷雪を鎧い酷寒苛烈な厳冬の山、それぞれの魅力はあるけれども、私に「わがふるさとはここだ」と思わせるのは、矢張り早春の山と初冬の山である。

 山行きに相棒は付きものだが、単独行もまた棄てがたい。そして、「わがふるさとはここだ」という感慨は、独り旅でなければほんとに味わえない。伝喜太小屋が出来てからしばらくして、その一段上に龍ケ淹小屋が出来てから、この沢道は更に便利になった。初冬の頃この小屋に一泊して、登頂の帰り、私は、伝喜太翁のお宅のある町の駅で夜の汽車を待っていた。と、背後から私の肩を軽く叩く人があった。黙って振りかえる私の鼻先に突きつけられたのは、なんと、その日私が山で紛失した五万分の図副ではないか。「斎藤というはんがあったので、てっきり(必定の意)先生だと思いました」という伝喜太翁の童顔が、そこにほほえんでいた。

(昭和三十一年六月)


 地図に載っているのも「山と高原地図 鳥海山」くらいでしょうか。

(昭文社「山と高原地図 鳥海山」 1976年版より)

 もちろん現在は新規に小屋を建てたり、あるいは増改築、道を開鑿することは禁じられていますし、岩を穿つことも一切許可されていません。蕨岡の旧道も、そこにあったものを修復するということで許可が下りたそうですし、再度修復しようとすればまた許可を取る必要があります。一物一草かってにいじくりまわすことはできません。鳥海山で最終的に残るのは吹浦口と矢島口位でしょうか。かつては賑わいを見せた蕨岡口ももはや廃道寸前です。歴史を残し伝えていくことのいかに困難なことかと思います。せめて残された本の一部だけでも知っていただけたらと思い部分的に載せてみました。


続・破方口 その1

2021年08月18日 | 鳥海山

 斎藤重一さんの「鳥海山」にはたびたび破方口が登場します。破方口は本荘、矢島方面の古い登山者の方にはなじみの地名なのかもしれません。それほど多くの人に訊いてみたわけではありませんが庄内、旧修験の地蕨岡でも破方口の名前を知る人はいませんでした。もちろん大物忌神社にも問い合わせてみましたがわかりませんでした。

 絶版でおそらく人の目に触れることは難しいでしょうから、少々長いですが「鳥海山」より無雪期の鳥海山北面を登る部分を紹介します。最後の方に破方口が出てきます。

 

 『新道と外輪壁の接するところで、赤川までのルートを捜す。百メートルほど下がったところに、なんとか降れそうな岩場があったので、落石に注意しながら、七時、 慎重に降りはじめる。もろいもろい岩、西むきの熔岩内壁は三段になっている。一段目は、三十メートルくらいの壁だが、比較的岩が堅くホールドもしっかりしていて、中間点まではザイルなしで降りる。最後の十メートルほどをアプザイレンで降り、二段目とのガレた草地を大きく左にまく。落石と敷きつめられた火山礫、 火山砂、低いミヤマハンノキにつかまりながら慎重に下っていく。八時、三段目の壁ではアプザイレンする。ひとりずつ、石を落とさないように、注意ぶかく壁の基部に降りる。 わずかな距離をヤブ漕ぎして、赤川に降りる小沢にでて、あとは一気に赤川本流にかけくだる。八時四十分。ここから、なじみの新山の基部までは、赤川ぞいに二十分しかかからなかった。

 鈴木が、上を見上げていう。「すごいブッシュだ。上まで何時間かかるのかなあ」、ほんとに、この急斜面の灌木帯はたいへんだなあと思う。しかし、いま視界にはいっていない上部には、新山から落ちている熔岩の流れが走っていて、そこからはブッシュとはお別れだということも知っている。目のまえの急斜面を登りきれば、あとは、秋の鳥海山の眺望をほしいままにして、快適な岩場の登りがあるだけだ。九時、ヤブ漕ぎにとりかかる。かたい雪があるときにはアイゼンの出っ歯をきかせて登る新山基部のとりつきが、いまきてみると累々るいるい とした火山礫の堆積で、 その表面を二杯ほどのミヤマハンノキ、ミヤマナラ、ダケカンバ、ミヤマヤナギなどがびっしりと覆っているのだ。 網の目のようにからみあった太い、曲がりくねった、つよい枝、こちらの体を枝のあいだにこじいれて、一段、二段と上にはいのぼる。背中のサブザックも邪魔になる。これは木のぼりだ。たいへんな全身運動だ。三十分もすると、ヘトヘトになってしまう。まだ、さっぱり高度を稼いでいない。あとからの述懐では、このときは小玉も鈴木も、「これは途中でビバークだ」という思いにとりつかれたという。外界がなにも見えない密室にとじこめられたような気持ちで、めいめい枝にぶらさがりながら、顔を見あわせる。灌木との格闘だ。三十分ほどで、いくらか高度が稼げたかなあと思うが、黄葉したミヤマハンノキのあいだから、稲倉岳の高さをまだ越していないのをたしかめてがっかりする。十時五分、左を登る小玉が、登りやすい小沢があるという。灌木に覆われてまったく隠れているけれども、人ひとりがやっとはい登れそうな細いカレた小沢が見上げるような急傾斜で上にのびている。さあ、これでヤブ漕ぎ地獄から解放される。フリクションのよくきく岩場、両側からのブッシュもいいホールドだ。運のいいことだった。 沢の階段状の岩を、ブッシュに邪魔されないでどんどん登り、たちまちにして高度をあげる。十時三十分には、ガレ場の下部にたどりつき、浮き石に注意しながら登る。ここは、八月いっぱいくらいまでは残雪があって、ひろびろとした斜面が黒い輝石安山岩に埋まっている。ところどころに矮小なハイマツ。十一時、新山東端と破方口から垂れる山稜にとりつく。残雪期には雪と氷に頭だけしか出していない山稜は、いま見ると、小家ほどもある熔岩の堆積で、上にいくにしたがってぐんぐんと斜度をましてくる。二ヵ所ほど、滑落をさけるために慎重に行動するが、あとは落石に注意して気持ちよく登っていく。それでも、小玉が、二抱えもある岩をぐらりと動かして、冷や汗をかく。破方口わきには十一時四十五分、そのまま新山に直登して、十二時、頂上。 若い小玉、鈴木が、満足そうな笑みをうかべている。このくらいの体力があったら、屋久島でも、三人ともなんとかいけるだろう。これで、ことしは、三月の春山合宿と今回と、まったく違う条件で北面の直登ができた。』

 

 そこに添付されているスケッチですがイメージできますでしょうか。

 次回はその破方口山の写真をお目にかけましょう。


鳥海山と帆掛け船

2021年08月17日 | 鳥海山

 昭和8年(1933年)から19年(1944年)の間に発行された絵葉書の一部です。

 帆掛け船は自分が小学校へ上がるころもまだ走っていました。ヨットではないですよ。何を運んでいたのでしょう。岸壁に帆掛け船が係留されているのは見た記憶がありません。

 港のボラードに繋がれた船、戦前の風景と言いながら記憶にある港の景色と変わりありません。

 鳥海山、港の景色、いずれも小学校以前の記憶が今なお続いているようです。