昔、みちのくの豆本というシリーズがあり、その中の一冊に斎藤十象「鳥海山談義」という本があります。何サイズと呼ぶのかはわかりませんが縦11cm、横8cmのハズキルーペなしでは読めない小さな本(自分にとって本は今ではすべてそうですが)です。
斎藤十象氏は明治三十二年生まれ、酒田東高校の講師をしていたそうです。この本は昭和四十年の刊行。限定350部なのでおそらく鳥海山好きの人でも目にすることはできないでしょう。
その中に、今はなき伝喜太小屋の事が書いてありますのでぜひとも紹介したいと思います。
高橋伝喜太翁のこと
鳥海山には、それまでほんとの意味での沢沿いの登山路はなかった。日向、月光の二つの川が鳥海の東面と南面から出て、最上川の下流域穀倉荘内平野の北半を潤おし、最上川へは注がずに、西流してそのまま日本海に入る。ふたすじの乳の流れとでも云うべきか。
月光川の源流は、滝と潭との連続で大へん美しいのだが、この沢の上流に龍ヶ滝という滝があって、高さ約六十米、この沢中豪壮第一の滝である。その下流には、一ノ滝、二ノ滝があって、ここまではいい登山路があり、特に二ノ滝は縁結びの神として、旧六月一日の例祭には、地元の青年男女の登拝によって賑わっている。そこには熔岩の洞窟があって、岩面にできている無数の小さな岩瘤に、左手で紙撚を結びつけるのである。この沢は、だから二ノ滝沢と呼ばれている。
どこの山にも付きものの、この山にも七太郎さんという奇人がいた。部落から一里ばかり山へ入ったところに、掘立小屋を建てて住んでいた。私は、この七太郎老人の小屋で、焚火を囲んで、訥々と語られる山の話を聞くのが好きだった。この老人、いつか、部落にある自分の家から鍋を提げて出てきたが、そのまま一里の山道を小屋まで行ったものだ。何と、その鍋には、煮かけた鰯汁が入っていた。聞けば、煮かけていた汁を、そのまま小屋で進ぜようと思って、かくは提げてきたのだというのであった。
いま一人伝喜太翁がいた。翁は、村の素封家で呉服屋の檀那さんであった。それに慶応義塾のオールドボーイで山好きで能書家であった。七太郎さんとは、馬が合うというのであろうか、一は無学文盲、一は才ールド文化人であったが、すこぶる仲がよかった。年も同じ位であった。龍ケ滝へ道をつけようと思い立った二人は、早速仕事にかかって、二ノ滝の上部を、沢沿いに道路を切り開きにかかった。二人は、遂に念願を達して、龍ケ滝の壮観を世に紹介することができた。それからの上部は、二人を助けた地元の若い人達の奉仕で、二ノ滝口鳥海登山道が完成したのはいうまでもない。昭和七年のことである
私は、生徒をつれてよく山へ出かけた。二ノ滝登山路の途中、三ノ滝の上、山毛榉の密林の中に建てられた「伝喜太小屋」は、私達の登山基地になった。そこには、炊事道 具はいうに及ばず、ドラム缶の風呂もあったし、螺細の古雅な漆器で、お膳代りにするお盆に至るまで備え付けられてあった。私は、伝喜太翁とも幾度かここで寝起きした。翁は、ここで、山毛榉材に自ら刻んだ素朴な達磨や根締めに、特別注文で作らせた焼印を押したものを、山の土産に自由にお持ち帰り下さい、というわけであった。桜の葉や蕗の葉の形に手ずから焼いた菓子皿もいただいたりした。帰 りには、よくお宅にお寄りして、山で集めた石を見せてもらつた。
「こでまり」の花の咲く頃であった。例の如く生徒をつれて二ノ滝口を登った。小屋へは、伝喜太翁のお宅のある町から四時間はかかる。途中雨に降られ、山の部落の神社で暫らく雨宿りをしたりして、小屋に着いたのは日の暮れかかる頃であった。山毛榉の新緑が折りからの夕日に映えて美しく、急湍が淙々とひびいていた。着いて間もなく、小屋の外にいた生徒が、「伝喜太さんが来たァ!」という。翁が炉傍でリユツクサツクからとり出したものを見ると、なんとそれは、お重に詰めた十人前位のおはぎであった。
私はよく単独で山を歩きまわった。八月のじりじりと照りつける頃のことである。その日も二ノ滝道をテクテク登っていった。と、途中、道路の左側から、カッチンカッチンという金属性の音が断続的にきこえてきた。「ここだな」と私は合点した。わずかについている踏み跡を辿って、左側の薮にかくれたガレ(急な岩屑地帯)跡のようなところをよじていった。そこには、急な斜面に、露岩が、灌木の間に綴られたように点在して、上へ続いていた。カッチンカッチンは、この岩に鑿を当てるひびきであった。山仕事の装束に鳄広の麦藁帽を冠り、背をまろくして、一鑿一鑿を丹念に岩に打ち込んでいる翁が、唯一人そこに蹲っていた。空は青く、灼ける日に輝く莊内百万石の田圃と、それにつづく日本海が、雲霞模様の縮緬皺をただよわせて、 漂渺とひろがる大景が眼下にあった。翁は、一念発起、ここに日参して、観音像を露岩に一つずつ刻んでいたのであ る。もう数体が完成していた。その時、私が山手帳を出して記念に書きつけていただいたのが、たしか「未語相見酔」という一句であったと思う。
四季いつ頃の山が一番いいかと問われたら、それは早春の山と初冬の山だと私は答える。一は谷筋にはまだ雪が詰っていて、尾根筋が黒い地肌を露わす頃であり、他は広葉樹がすつかり葉を落してしまい、六合目以上にはもう雪がきている頃だ。早春の山では、新しい生命の胎動が感ぜられ、初冬の山では、脳の髄まで泌み通る静かさがある。新緑炎ゆる晚春初夏の山、灼熱の下界と隔絶した清涼盛夏の山、錦繡に包まれた秋の山、氷雪を鎧い酷寒苛烈な厳冬の山、それぞれの魅力はあるけれども、私に「わがふるさとはここだ」と思わせるのは、矢張り早春の山と初冬の山である。
山行きに相棒は付きものだが、単独行もまた棄てがたい。そして、「わがふるさとはここだ」という感慨は、独り旅でなければほんとに味わえない。伝喜太小屋が出来てからしばらくして、その一段上に龍ケ淹小屋が出来てから、この沢道は更に便利になった。初冬の頃この小屋に一泊して、登頂の帰り、私は、伝喜太翁のお宅のある町の駅で夜の汽車を待っていた。と、背後から私の肩を軽く叩く人があった。黙って振りかえる私の鼻先に突きつけられたのは、なんと、その日私が山で紛失した五万分の図副ではないか。「斎藤というはんがあったので、てっきり(必定の意)先生だと思いました」という伝喜太翁の童顔が、そこにほほえんでいた。
(昭和三十一年六月)
地図に載っているのも「山と高原地図 鳥海山」くらいでしょうか。
(昭文社「山と高原地図 鳥海山」 1976年版より)
もちろん現在は新規に小屋を建てたり、あるいは増改築、道を開鑿することは禁じられていますし、岩を穿つことも一切許可されていません。蕨岡の旧道も、そこにあったものを修復するということで許可が下りたそうですし、再度修復しようとすればまた許可を取る必要があります。一物一草かってにいじくりまわすことはできません。鳥海山で最終的に残るのは吹浦口と矢島口位でしょうか。かつては賑わいを見せた蕨岡口ももはや廃道寸前です。歴史を残し伝えていくことのいかに困難なことかと思います。せめて残された本の一部だけでも知っていただけたらと思い部分的に載せてみました。