鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

山でクマに会う方法

2021年08月05日 | 鳥海山

 YouTubeで甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根を登る動画を懐かしさをもって見ていたら、「あの山の向こうに七丈小屋があるという感じです。」だって。小屋があるのは「事実」で「感じ」じゃないのにね、そのうち「クマに襲われたみたいな感じです。」とか「滑落したみたいな感じです。」というんでしょうね。こういうのなんにでも「かな」、「みたいな」、「という感じで~」と喋るのを「かな、感じ変換」と言います。

 ということはさておいて、「山でクマに会う方法」読みはじめたら面白くてやめられません、みたいな感じです。自分までつられてどうする。ツキノワグマを27年間にわたり調査し続けてきた方の書いた本です。

 中身は興味のある方読んでみてください。熊に会える方法がわかれば逆にクマに会わずに済む方法もわかってくるでしょう。

 クマの餌とよく言いますが、餌とは人間によって与えられたものをいい、野生動物の場合はすべて「採食」というのだそうです。それと、よく冬眠と言いますが、冬眠とは、越冬中に体温や代謝が下がり昏睡状態になることを言い、クマは体温が極端に下がらないので「冬ごもり」というのが普通ということです。ということは、やはりスノーモービルが臭い排気ガスをまき散らし爆音をあげて走り回る現状、エイッやかましいわっ、と言って飛び出してきて襲い掛かるかもしれません。

 クマよけには鈴と笛の効果を試したところ、鈴の方がクマの反応が大きかったそうです。鈴を腰やザックにぶら下げれば、笛を吹き続けるのは困難でもあるし、楽で効果もある、鈴は音が大きくて、キンキンと鋭い音がするものが良い,ということです。

 

 絶対にクマに会いたくない人は、

  1. クマのいるところに行かない:出かける前に情報を集め、熊が出没しているようなら行かない。
  2. 熊に近づかない:山中でフンや足跡などの痕跡を見つけたらすぐ」引き返す。クマが活動する早朝や夕方の時間帯を避ける。
  3. クマに自分の存在を教える:ザックにクマよけの鈴をぶら下げたり、ラジオを鳴らしながら歩く。
  4. クマを引き寄せない:食べ物やゴミの匂いが遠くにいるクマを呼ぶこともある。人間の食べ物の味を覚えたクマほど早くやってくる。

 かいつまんでいえば、以上の注意をする必要があるということです。

 

 以前マタギの人にクマの臭いについて聞いたところ、「クマは臭くないっす」という返事だったのですが、この本の著者の方は「魚の腐ったような独特のにおい」と書いています。山で時々嗅ぐ強烈な獣臭はそうするといったい何なのでしょう。タヌキは臭いといいますが、山で嗅ぐ獣臭はどうもタヌキの様な小型のものではなく大型の獣の臭いの様な気がするのですが。そういう臭いの立ち込める場所からは急いで去った方が無難ですね。また、鈴の音も一段と大きくならした方がいいでしょう。どなたかクマの臭いについてご存じでしたら教えてください。

 駒止から水呑、鳳来山、また鶴間池周辺は人にとってもいいところですが、広葉樹林はクマの食料が沢山あるのでクマにとってもいい所なんですよね。クマの行動範囲は限られているそうなのですから、滝の小屋のあたりもクマの採食場所になっているのが目撃されていますのでいつ出会ってもおかしくないところです。


鳥海山の地質図を見て楽しむ

2021年08月04日 | 鳥海山

 今から四十年も前、初めて七高山に足をのばし、その石のほかと全く違うことに驚きました。鳥海山の成り立ちはいろいろなところで紹介されているので今更ここで書くことはないですが、改めて二十万分の一地質図幅を見るとその複雑さに驚いてしまいます。

 この地質図は産業技術総合研究所産総研)のページで見ることが出来ます。

 黒く太い文字はこちらで記入しました。こうしてみると七高山熔岩と呼ばれるものが鳥海山の山頂のほとんどを覆っていることがわかります。荒神岳熔岩も見るからに粘着質層に流れています。新山熔岩はちょいととびだして様子見をしたというところでしょうか。七五三掛連嶺しめかけながねを形成しているのは千蛇谷熔岩の様に見えます。今度詳しい人に訊いてみましょう。

 熔岩と火山岩とに別れていますが、今まで気にしたこともなかったですが、

 熔 岩:火山の噴火によって地表に出てきた液体状のマグマや,それが冷えて固まった岩石

 火山岩:マグマが地表や地表近くで,急に冷えて固まった岩石

 だそうです。岩石のゴロゴロしている破方口の下部は石禿川火山岩となっています。法体熔岩もかなり広範囲ですね。この図の下、あるいは左につながる部分も相当に面白いです。千蛇谷熔岩の流れていった先には鳳来山火山岩もあります。

 やれ百名山の何山目に登ったなどと鳥海山中で自慢するよりもこちらの方がずっと楽しいと思いませんか。トレランで山を荒らしまわることはやめてじっくり山に向かい合いましょう。知人は鳥海山でトレランやるならピケ張ってでも阻止すると今も意気盛んです。賛成、賛成、大賛成。

 


大正時代のわが街を見る

2021年08月03日 | 兎糞録

 古い絵葉書が十枚ばかり。

 葉書の宛名面上の「きかは便郵」が「きがは便郵」と濁点つきになったのは何を見ても昭和8年2月以降からとなっていますがこのはがきの入ったタトウには購入したと思しき大正14年3月23日というメモが鉛筆で走り書きしてあります。宛名面の二分の一に通信文を書くことが出来るようになったのは大正7年以降なのでそこは合致します。他の絵葉書でも「きかは便郵」が「きがは便郵」と濁点つきとはなっていても昭和8年以前のものと思われるものがありますのでここは完全に信用するわけにはいきません。絵柄とも照らし合わせて制作年代が推定できるのですがここは大正期のものと一応仮定しておきましょう。

 この時代にはまだ生まれていないのですがなんだか見覚えのある風景の様な気がするのはなぜでしょう。

 この写真も同じく見覚えのあるような気がします。

 これなんかは現在とほとんど変わりありません。映画「おくりびと」で少しのあいだだけ有名になった手前の小幡洋館は現在改装中です。奥の煉瓦造りの洋館は近年までありましたが記憶にとどめている人はほぼありません。

 他にもありますがとりあえずこのくらいで。観光といっても今も昔もそれほどのものはありません。観光のために作った葉書が観光ではなく、貴重な記録として残っています。

 この町でも〇〇さんは胸に日本遺産のバッジをつけて歩いていますが日本遺産などというものが地域活性化の起爆剤、観光の目玉などと考えるのなら世界遺産の本当の意味をよく見てから行動しましょう。あれは観光のためのものではないのです。ジオパークだって目的を観光にゆがめてはただの遊びになってしまうし、ジオパーク弁当だ漬物だなどとやっているうちにいずれ遠くない将来飽きられ見捨てられるのは間違いありません。

 鳥海山も観光、地域活性化のための山としてとらえ活用しようとするのならその自然も荒れはて、最後には飽きられて浮ついた人々からは見向きもされない荒れた山となってしまうでしょう。


横堂今昔物語

2021年08月02日 | 鳥海山

 なぜか横堂が好きです。今までの画像をもう一度整理してみます。

 最初は中村不折の画いた箸王子(横堂)です。「史跡鳥海山」では秋田の須貝商店が発行したものと書いてありますが、手元にあるタトウには「國幣中社大物忌神社社務所發行」と書いてあります。須貝商店が発行したものはおそらく再版でしょう。大物忌神社より先に発行することは考えられません。葉書の表面に仕切り線はないので一見明治期の葉書のようですが、「きがは便郵」と右から左に濁点付きで書いてあるのは昭和に入ってから。中村不折が鳥海山に登ったのは大正8年8月14日、山頂に一泊翌15日下山したとありますからこのはがきの発行年はますます不思議なものとなります。しかしこの絵は大正期の横堂を表しているのは間違いありません。

 奥にあるのが横堂、横につながって建てられているので横堂と言います。箸王子神社が祀られています。手前にあるのが笹小屋です。横堂について詳しく書いてあるものは橋本賢助の「鳥海登山案内」です。


【横 堂】(よこだう)山路四里。實測頂上までの畧々半分の所で箸王子はしわうじ神社があり又第二の笹小屋も在る。社務所の出帳所も置かれて登山者の便利を計つて居る。昔は一の木戶とも云った。此の笹小屋は當山小屋中の最も大きなもので馬の脊なりの出に道を扶んでトンネル形に建てたものである。ぞれが枯れた「ネマガリダケ」(俗名ジダケと云ひ一見クマザゝの如くである。當山には最も多い種類の一で、根際がまがつてゐる、葉もクマザゝよりは細長い)で圍てゐるから、色からしてカマボコの樣である。中では白玉 (所謂鳥海山の力餠)・草鞋・イケウマ等をを賣つて居る、一般參詣人はよく「イケウマ」を云ふもの買って土產にするものだ。之は蘿藦ががいも科の「イケマJの根だが、聞く所に依ると馬の妙藥なそうで、何でも生け馬位に利くのだそうだ。小屋を出ると其所に板張りにした、箸王子神社が道を挾んで橫に建てられてゐるから俗に橫堂と云はれて居る。左が神殿、右が出張所になつて居るから、此處に登山鑑札を出して認印を貰はなければならない。又社前から右に折れる小徑がある、途中鎖や太い網を傳つて下りる所があつて大澤神社に行くのであるが其處には炭酸鐡で赤くなった高さ五六丈もあらうと云ふ瀧があり、此の瀧が卽ち御神體で拜殿の中から拜む樣になつて居る。之が名高い大澤の赤瀧である。何でも弘法大師の創始に係る所だと云ふので、極めて尊崇して居る所である。


 左が神殿となっていますが、後年右が神殿になったようです。昭和の時代に宿泊した人も左側に泊ったといっています。蕨岡できいた話でも右が神殿とのことでした。笹小屋では色々なものを売っていたようです。

 橋本賢助が見た横堂はこの写真でしょう。(「鳥海登山案内」より)大正7年発行の本ですのでそれ以前の写真です。

 次の葉書は明治40年から大正6年の間に発行されたものです(表面の書式による)。上の写真と同じころのものでしょう。もしかすると同じ日のものかもしれません。神職の方と右の人が同じようにも見えますが、でも幟が前の写真には立っていないか。

 「史跡鳥海山」に掲載されている写真ですがこれは左に少し見える小屋が板張になっているのでもっと後年のものです。手元に現物がないので発行年の推測はできません。

 これはおそらく昭和二十年代のものです。蕨岡山本坊の御当主鳥海さんが御父君と一緒に立てた小屋だそうです。こうしてみると結構大きそうに見えますが、実際はそれほど大きくはなかったでしょう。

 昭和54年、横堂はすでに無人です。柱も傾いているようです。いつまで神職が常駐していたのかはきき忘れました。

 倒壊した横堂。鳥海山フォトギャラリー様から借用させていただきました。20年ほど前ということですので平成12年(2000年)前後と思われます。月光坂からの雪崩で倒壊したと蕨岡の般若坊さんより伺いました。しばらく放置されていたそうですがどこからか苦情がありやっとのことで片付けたそうです。

 横堂のあったところには祠だけが残されています。

 横堂の前の石段も何段か残されていました。

 

 まったくこういうことを調べるのも楽しいことです。

 ※最後の写真の後蕨岡に寄ったら「熊ど会わねけが(熊と会わなかったか)」と聞かれました。南高ヒュッテのあたりで熊から唸られた人もいましたし、最近洞腹の滝のあたりで黒いものが目の前を横切って行ったという人も、平田の奥の沼で釣りしていたら対岸に熊が出たとか熊の話もだいぶ聞こえてくるようになりました。

 

 


十二神将

2021年08月01日 | 鳥海山

 鳥海山の本地物は薬師如来ですが薬師如来といえば十二神将。神仏分離以前の鳥海山頂には薬師如来は鎮座していましたが十二神将は取り囲んでいなかったのでしょうか。松本良一「鳥海山信仰史」には「箸王子堂にあった薬師如来と十二神様」として長渕寺ちょうえんじの仏像の写真が載っていますが横堂から移してきたものなのでしょうか。いずれ訪ねてみましょう。

 箸王子堂にあった薬師如来と十二神様

 明治維新の神仏分離、廃仏毀釈は日本のタリバンでした。文明開化の名のもとに日本の文化を破壊、後退せしめたのが明治維新です。

 これはなんだか東南アジアからやってきたような十二神将ですね。もちろん鳥海山にもともとあったものではありません。なんだかかわいらしさのある十二神将です。

 暇があると(毎日ほぼ暇なのですが)鳥海山に関する文献、資料を開いて遊んでいます。何の役にも誰の役にも立たないのが最高にいいです。