鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

伏拝から御本社

2021年10月25日 | 鳥海山

 ようやく御本社を望むところまで来ました。


御濱おはま鳥海とりのうみ靈湖れいこ遙拜えうはいする處にして大物忌和魂にぎみたまの神を祭る靈湖れいこは〇とりうみしようかつ瑞鷄瑞鷄ずゐてう湖畔こはんついばみたりと是此名のりて起る處なるかたち圓滿ゑんまんにして周圍しうゐ數百頃すうひやくけい湖面泓澄こめんあうちようとしてふかさ計るべからず〇鍋ヶ森なべがもり其西にそばだ壘々るゐゝたる岩石疊重がんせきてうぢよう恰鍋あだかもなべを伏せたるが如きを以て名づくと〇伏拜ふしおがみ御本社ごほんしやの遙拜所にして雲烟靉靆うんえんあいたいあひだ神殿みやを拜することを得べし伏拜ふしおがみすで塵寰じんくわんにあらず〇御峯おみねの如きは人をして羽化登仙うくわとうせんの感あらしむ〇行者嶽ぎやうじやだけ岩頭がんとうえん小角おづぬ道路みちとほしたる紀念きねんとして自其かたちきざみしたるものなりと傳ふ風雨蝕あめかぜしよくして古香こかうたかし此より左折させつ鐵梯てつてい千歲せんざいたにに下れば陰崖幽暗いんがいゆうあんひとをして悚然しようぜんとして毛髮もうはつ竪立ぢよりつせしむ仰見あふぎみ一帶いつたい新山しんざん雄大いうだい豪宕がうとうとして巨嚴きよがんそびえて萬丈だんぢやう絕壁ぜつぺきつく大石たいせきおちいりて千仭せんじんたにを爲し異樣殊態形容端睨いやうしゆたいけいようけいようたんげいすべからず漸くなゝめのぼれば〇御倉おくらに達す大國主少名彥名おほくにぬしすくなひこなの神を祭る〇胎内たいない奇洞きどうくゞ新山しんざんに登ること約三四町にして御本社に達す


 鳥海湖、鍋森を遠くに見た後伏拝の拝所で手を合わせます。伏拝嶽は「既に塵寰にあらず」、もうここは塵にまみれた俗世界ではないということです。古絵図を見ると伏拝にも建物の絵が描いてありますが飽海郡誌には伏拝小屋として小屋があったように書かれています。ここで拝した後次に行者嶽に向かいます。行者嶽には拝所開山大神えん小角おづぬが前鬼後鬼を従えて登った自分の姿を彫ったという岩があります。

 行者嶽開山大神(画像は畠中善弥「影鳥海」記載のもの)

 ところで「鐵梯に緣り千歲が谷に下れば」とありますが昭和の初めころまでは、江戸期も含めて千蛇谷とは書かずに「千歲が谷」と書いていました。おそらく仏教の「千歲」に因るのでしょう。昭和以降「仙者谷」その後「千蛇谷」と書くようになったようです。「弦巻池」が「鶴間池」になったり「桑の森」が「観音森」になったり「千歲谷」が「千蛇谷」と書かれるようになってしまったというのは何か違和感、というより字面を変える軽薄さがあるような気がします。では下っていきましょう。

 (鉄梯子前の昔の道標です。)

 (この写真と次の写真はY.Sさんよりお借りしました。)

 行者嶽の鉄梯子はいつごろからあるのでしょうか。明治期の絵葉書にも鉄梯子は写っています。

 現在はこの道は落石で崩壊し、通行禁止です。たまたま落石を目にした方の話ではそれは凄まじいものだったそうです。自己責任で行くなんてのは駄目です。後始末は全部他の人がしなければならないのですから。

 まっすぐ御本社には向かわず荒神嶽に向かっていきます。荒神嶽では拝所御倉座大国主大神を拝みます。なんといっても三十三拝所を拝することも目的なのです。登拝なのですから。

 ここから次は胎内に向かいます。胎内は両側、天井の三方から岩の迫る狭いところです。マイ・アルバムに写真がありませんでしたのでその近くの「巨嚴聳えて萬丈の絕壁を作り」という景色です。

 さて、新山に登った後は目的地御本社です。

 御本社の裏手に下りてきました。さあ次はいよいよ御本社に。

 飽海郡誌にはこんな絵図も載っています。(ついでに、虫穴岩なんて書いていません、虫穴は昔から虫穴で岩の字はつきません。)


大雪路小雪路莇坂(薊坂)

2021年10月24日 | 鳥海山

 河原宿の清流に飛び込んだ後「針の凝れる如き素麺玉霰の如き白玉」を食したら大雪路目指して歩き始めます。大雪路では拝所大雪路大神を拝しこれから登りです。


大雪路小雪路おほゆきじこゆきじ千古せんこ雪皚々ゆきがいゞとして宛鱗狀さながらりんじやう鬼斧きふを以てけずれるが如く三伏さんぷく炎暑尙且凜冽えんしよなほかつりんれつとして悚然しようぜんたらしむ而して此雪路には濃霧細雨のうむさいむ形狀かたち「ゑもり」に似たるもの所々に匍匐ほふくぞくんで「りうのあらし」といふ人爭ふて之を得んと慾す蓋し婦人みち靈藥くすりなりと莇坂あざみさかは附近にあざみ繁茂はんもせるにりて此名あり山中屈指ゆびなり嶮峻けんしゆんにして道細みちほそ岩角銳がんかくするど羊腸崎嶇ようちやうきく甲脚乙首相接こうきやくおつしゆあひせつし一步は一步より急なり〇仙ヶ洞せんがほら獅子ヶ窟しゝがくつほとりをよぎりて〇御濱おはまに達す


 羊腸崎嶇、甲脚乙首相接し、なんて言葉は今ではほぼ見かけないと思いますが意味は分かると思います。乙首相しゅしょうではありませんのでお間違いないように。その前の婦人血の道の霊薬はお調べください。「龍のあらし子」は橋本賢助の「鳥海登山案内」では「箱根山椒魚」であると書かれていますがクロサンショウウオかどうかそちらは生物に詳しい方にお任せします。ジオサイトでは鳥海湖に棲息していると紹介されていますが見たことはありません。七五三掛と外輪コースの分岐点の御苗代にもかつては見られたということです。

 昔は山椒魚を捕ったりしたの橋本賢助の「鳥海登山案内」にあるように石楠花と這松を持ち帰り悪退散のお守りにしたり、或は御浜の小屋ではずっと昔は囲炉裏で這松を焼べていたそうです。河原宿の流れに飛込んだり、それは今やったら駄目ですけどね。昔はそれが普通だったということです。「○仙ヶ洞○獅子ヶ窟の邊りを過り」それから御浜に向かっていますのでなんだか順路が???です。獅子ヶ窟は坂の上ですし、仙ヶ洞は薊坂 入口より分かれて文殊嶽方向へ向かう途中ですから仙ヶ洞を見ながらということかもしれません。それとも下に引いた橋本賢助の鳥海登山案内にある「鳥の海御濱の神と云ふ拜所」に達す、ということでしょうか。その後御濱について触れていますが(次に書きます)それは伏拝から鳥海湖をみて鳥の海の事を説明しているのかもしれません。御本社が目的なのにここからいったん御濱迄行くことはしないでしょうから。

 1976年の山と高原地図ですので仙ヶ洞を経由して文殊嶽へ向かう道が載っていますが今も破線で載っていると思います。

 仙ヶ洞については以前の記事をご覧ください。

 橋本賢助の鳥海登山案内ではここの所以下のようになっています。


小屋の後から右の方に小徑があり、おつぼ(庭園の意)に行く事になるが、此處は自然に庭園の様になつて居て「白花シャクナゲ」が澤山咲いてゐる、道者は之を「モノタチ」の花と云ひ、鳥海松「本名ハヒマツ」と共に持つて歸りお宮から戴いた悪虫退散のお札を附けて田の水口に挿して置く、すると稲虫もつかず頗る豊作をすると云って居る、之も鳥海山が五穀の神だから起つた習慣であらう。

さて此の雪路の上で、時々「龍のあらしこ」と云ふものを發見する事がある、即ち ! 「箱根さんせううを」の事で、一見兩棲類の井守に似た動物であるが、古來婦人血の道の霊薬と云はれて居る。

【薊 坂】 (あざみさか)山路八里。附近に「ナンブアザミや「ミネアザミ」が澤山生へて居るので此名がある。大正元年道路修繕したので、今では段々になつてゐるから、大した難儀な事はないが、當山第一の嶮所だけ、道の勾配は中々急だ、これでは昔の人が「油絞坂」等と云ったのも、尤の事である。坂の盡きんとする所に獅子ヶ窟と云ふ大きな岩が一つある、形が丁度獅子の首に似てゐるからこの名を得たもので、今でも拜所一つになつてゐる。(獅子ヶ窟の大神と云ふ)坂の絶頂には、鳥の海御濱の神と云ふ拜所があつて、眞直に鳥の海湖を望むやうになつてゐる、之から先は新火山の外輪山で七五三連嶺山路にすると御本社迄八丁の所である。


 大正の道路修繕以前は相当に急だったのでしょう。大平からの傳石坂も以前はルートが少々違い今以上に急坂だったといいますし、横堂を抜けた月光坂もかつてはもう少し左の急登だったそうです。


川原宿に到着す

2021年10月23日 | 鳥海山

 八丁坂の急な道を登りきると雪解け水の流れる河原宿に着きます。(このころは川原宿と書いたようですが川でも河でもどちらでもよいと思います。)

     中村不折の描いた河原宿                         同じころの河原宿の写真

 夏の朝、河原宿小屋の前は雪渓の雪融け水が流れます。日が昇るとともに水量は増えていきます。遠くに見えるのが大雪路、小雪路。


此よりやまますゝ高竣氣愈稀薄かうしゆんきいよゝきはくしばらくにして川原宿かわはらしゆくに達す祓戶はらひど四柱よはしらの大神を祭る纖塵せんじんを止めざる淸流凜烈せいりうりんれつはださすさんと慾す然れども人皆先ひとみなさきあらそをどらして飛込とびこ滿身まんしん淸絕せいぜつ冷絕れいぜつ意氣いき快曠くわいくわうまつた俗塵ぞくぢんだつ恰腋下あだかもえきか羽毛うもうしやうじ殆んどまさばんと慾するの思あらしむ然れども一氣身いつきみをどらして飛込とびこむの勇氣ゆうきなきものは躊躇遂ちうちよついに決することあたはず怯懦きよだ逡巡しゆんゞわらふべし此處にも掛茶屋ありはりこほれる如き素麵玉霰そうめんたまあられの如き白玉しらたま苦熱くねつあせうば涼爽甚愉快りやうそうはなはだゆかいおぼゆ〇川原宿かはらしゆくの東に〇御田ヶ原おたがはらあり天然てんれん田形たがたそんす西北には龍ヶ池りうがいけあり異鱗常いりんつね遊泳いうえいすとつた


 河原宿の清流に先を争い飛び込んでいたのですね。今ならそんなことをしたら何を言われることやら。しかも飛込まないと「怯懦最笑ふべし」とまでの言われ様です。此処でまたしても「針の凝れる如き素麺玉霰の如き白玉は苦熱を去り汗を奪ひ涼爽甚愉快を覺ゆ」と美辞麗句にあふれた食べ物のせんでんです。いやこれはどうしても食べてみなくては、という気にさせてくれます。今と違って歩き始めて一時間ちょいとで着くわけではありません。長いこと歩き続けて到着した河原宿の冷たく流れる大量の清流を見た時の喜びも一入だったでしょう。

 さて、河原宿の東に御田ヶ原、西北に龍ヶ池ありと記されていますがいったいどこを指すのでしょう。鳥海山専門の写真家のAさんも?でした。西北はボタ池ではないかと思うのですが東の御田ヶ原は想像がつきません。ただ制作年代不詳の絵図には載っていました。

 ※鳥海山に詳しい方にメールしたところ御田ヶ原と思われる所について次のようなコメントをいただきました。

 「現在は、多くの人が歩いたため表土が流れて、何が何だか分からなくなっています。」「河原宿の表土流出に見られるような人為的な自然破壊が至る所で進行しているのでしょうね。何としても、自然破壊が進まないようにしていくしかありません。」

 大雪路の下といえばこのあたりでしょうか。

 


箸王子より河原宿まで

2021年10月20日 | 鳥海山

 酒田市立光丘文庫所蔵 鳥海山図(写)より(画像使用承諾済)

 上の図は文化八年(1811年)に登った方が描いたものです。この図を見ると蕨岡口登拝道が良くわかると思います。箸王子より八丁坂茶屋迄の部分をもう少し拡大してみましょう。西物見のあたりから喬木帯にかわります。蓬莱山(鳳来山)の頂上も晴れていれば日本海がきれいに見渡せます。奥院と書いてあるのはこの図では鳳来山の陰にある大澤神社の事です。弦巻池は武具弦巻に由来する鶴間池の本来の呼称、これも図の山の陰にあります。鼓岩の由来も記されていますね。

(※注 享和の大噴火の後に書かれたものですがその時は既に噴火によって無くなった不動岩、瑠璃の壺の名前も記載されています。尚、図の頂上の部分の説明に「新山ヲ享和山トモ云フ享和年中山焼ノセツ新ニ突出セリ荒神嶽本社ルリ壺ノ辺尽ク落入リ谷トナレリ絶頂ノ形享和以前ト大ニ殊トナリ新山ノ高サ七高山ニヤゝ均シト云フ文化八年本社長床ヲ新山ニ建テ遷座アリ」とありますので新山に御本社が置かれたのは大噴火後の1811年だったことがわかります。)


駒返こまがへし牛戾うしもどし等のけん其名そのなそむかず巉巖峭嶒巨石磊落きつたてのいはおほいしごろゞたり〇蛭子岩ひるこいは唐澤からさは東物見ひがしものみ西物見にしものみ諸社しよしやはいして全く木立こだちぐれば天漸てんやうや東方紅ひがしくれなひちよほ彩光山背あやしきひかりやませかすめてなゝめ西海さいかい山風袂さんふうたもとはら心神颯爽しんゝそうさつ天地正大てんちせいだい氣鬱勃きうつぼつとして躍動やくどう壯觀言語そうかんごんごぜつ罔賣岩うずめいはつたいしはる)かに白絲ヶ瀧しろいとがたきのぞめば瀑布亂絲ばくふらんしごと淸新せいしん氣炎きえんねつわすれしむ附近一帶ふきんいつたい岩石壘々がんせきるゐゝ寸土すんどとゞをめず木低きひく草短くさみじかはなまたせうなり碧苔へきたい石壁せきへきしよく幽葩古香ゆうはこかうはつやゝ高山植物を見るみる鼓石つゞみいし奇洞きどうの上によこたはるを以て之をてば異響鼕々いきやうたうゝつゞみたり〇八丁坂はつてうさかには掛茶屋あり其砂糖餠さとうもち上戶じやうごをしてかぶとだつせしめ醇酒じゆんしゆ芳香はうかう下戶げこをして垂涎三尺たらしむよだれをながさしむ攜帶せるたづさへたる丸飯にぎりめし此邊このへんにて喫するたべるとす此よりやまますゝ高竣氣愈稀薄かうしゆんきいよゝきはくしばらくにして川原宿かわはらしゆくに達す


 蛭子岩、唐澤、罔賣岩、傳石の拝所については「-国指定史跡鳥海山文化財調査報告書-史跡鳥海山」では祠は確認できるもののそこが各々の場所であるとは断定できなかったようです。蕨岡の古老が一緒なら判ったでしょうが既に高齢、同道は不可能だったのでしょう。写真を古老に見せることもしたかどうかまでは私は出版に係わるほどの人間ではないのでわかりません。ちなみに笙ヶ岳の下の沢「檜ノ沢ひのそ」の事も唐沢と呼ぶようです。

 昭和、戦後の西物見です。既に高い木の生えていないことがわかります。

 月光坂から大黒台を経る旧道は数えるほどしか登っていないのでまともな写真は手元にありません。やはり便利な車道ばかり利用しますから。

 同じ個所を橋本賢助の鳥海登山案内で見てみましょう。ちょっと長いですがよりわかりやすいと思います。


横堂を出た所が月光坂(がっこうざか)である、長さは短いが仲々の険阻、駒返しや、牛戻しの名其の名に背かない。之からが所謂木立であつて山路一里といつて居るが、此の中は至って旦道なのでとても高山の道とは思はれぬ位である。茂る橅の木は晝尚暗くして物凄いと云ふ有様。入跡絶えた山中の物淋しさを十分に味ふ事が出來よう。此の様に森林の懐に抱かれて行くのであるから、自然と行先を急ぐのであるが、少し注意して四邊に目を配つて行けば、又色々の植物を採集する事が出来る。もう木立も盡きさうな所に東物見と云つて、東方の山々の見える所があり。又少し木立をくぐると愈々森林帯の最終點西物見に着くのである。此處には憩ふ為の小屋とてはないが、大きな岩(輝石安山岩)がゴロ〲してゐるから、庄内の天地を見下さうさする人は、岩頭に立って眼を開くもよからう。眼前に横はる景色に今までの疲れを休めるも愉快の一つであらう之から八丁坂迄の間を籠山と云ふのである (西物見まで山路五里)

【籠 山】(かごやま)大小多種の岩石が累々とし「ミネザクラ」・「コナラ」等の灌木が斬髮をした後に頭を揃へて生へて居る。籠山とはつまり如何に雨が降つても少しも溜る事なく、みんな浸み込んで行くので、山全体が籠の様なものだと云ふ意味蓋相應しい名稱ではないか。それだけ登山者は足元を注意しなければならない。時々岩の間に足をはめたり、岩角に爪先を打つけたりして思はざる怪我をする事があるからである。暫らく行くと行手にあたつて一つの瀧を發見する、之が即ち八丁坂白糸瀧である。仝時に坂の下に嘗て第三の笹小屋を認める。途中に鼓(つづみ)石(いし)と云つて打つと鼓の音を出す石がある。つまり内部の空になった熔岩塊たが、熔岩中には往々にしてこうした音を立てるものがある、悠々山路六里の八丁坂にさし懸かる。

【八丁坂】 (はつちやうさか)小屋ではやはり素麺と白玉を賣ってゐる。又瀧に行く道もついてるから餘力のある人は行つて見るがよい。坂は可なり急だが、こうして一休みしてから上ると何のわけもない、丁度此上河原宿の小屋まで實測八丁である。案内人は此の間を一里として置くが、つまり道は短くとも險しいから、時間と労力から見つもり出した一里を思へば間違はない。坂は緩り登って休まないで通す方が、疲れも薄くて道も捗取るものでこう云ふ時に金剛杖が有難い


 鼓岩、籠山の意味がよくわかります。八丁坂の掛茶屋は今の瀧の小屋とは違う場所ですが蕨岡の古老に聞いてみたところ行ってもわからないだろうとのことでした。あまり良い場所ではなかったということです。それにしても太田宣賢の鳥海山登山案内記の「砂糖餠さとうもち上戶じやうごをしてかぶとだつせしめ醇酒じゆんしゆ芳香はうかう下戶げこをして垂涎三尺たらしむ」とは誇大広告のさきがけの様に聞こえてきますがこの美文調、「醇酒の芳香」の文字を見るだけで酒飲みは本当に涎が出てきそうです。又橋本賢助の鳥海登山案内では八丁坂小屋では「素麺と白玉を賣ってゐる」とありますので白糸の瀧からの澄郷沢沿いの水を十分に使える場所にあったのではないでしょうか。


箸王子神社と大澤神社

2021年10月20日 | 鳥海山

 (此処に掲げた記事、写真は以前掲載したものも多くありますが太田宣賢の「鳥海山登山案内記」に沿って改めて書いていますので箇所に応じて再掲しています。)

 登拝の一行は山先達に連れられて鳳来山を過ぎ箸王子神社までやってきました。今の地名では横堂、昭和の最後までお堂があったところです。横に長い御堂なので横堂。


箸王子はしわうじの神社は保食うけもちかみまつる又社務所しやむしよ出張所ではりあり登山鑑札かんさつらして人員ひとかず點檢あらためす是登山者保護上ほごじやう必要たいせつに依るかたはらに掛茶屋あり酒餠菓子さけもちくわしるゐひさぐ此より右折みぎにおれして少しく下ればたちま奇岩怪石欝然きがんくわいせきうつぜんたる老樹蜿蜒ろうじゅえんゝたる葛藟陰暗寂寥かつるいいんあんせきれうたり行くこと僅にしてだ斷岸絕壁だんがいぜつぺき攀易よぢやすからずたゞ鐵梯かなばしご條索なはすがりて下降くだるすれば〇大澤おほさはに達す倉稻魂命うかのみたまのみことまつれる〇大澤神社おほさはじんしやほか數社あまたあり然れど共社殿おみやを設けずたゞちにたきを以て御神體ごしんたいとなす古昔はおくゐんとな弘法大師くわうばうだいし創始はじめつた極(きは)めて衆庶ひとゞ尊崇そんけいする處なり數條いくすぢ瀑布たき其質そのしつ或は赤く或は白く或は淸くして高く懸崖けんがいより漲落みなぎりおつるもの若くはひく岩腹がんぷくより噴發ふきいだするものいはに觸れいしげき其音そのおん殷雷いんらいの如く餘響烈風よきやうれつぷうの如く飛沫濃霧ひまつきりおこ異鱗雲いりんくもぶのさまあり境内の幽邃いうすゐにして而も雄宕人ゆうたうひとをしてそぞろに仙境せんきやうあそぶのおもひあらしむ再び箸王子はしわうじのぼ休憩一番しばらくやすみ力餠ちからもち頬張ほゝはらすもなるべく美酒さけ勇氣いさみつけする更におほいに可ならん


 この頃は登山鑑札が必要でした。山役料を払わないといけないのです。神職が御祈祷している隙に山役料を払わずにこっそり通り抜けようものなら追いかけていきます。戦後間もないころの山役料は三百円だったということです。

 中村不折が大正8年8月14日に鳥海山に登り山頂一泊翌15日に下山しているそうですからその当時の箸王子はこの絵葉書の様子だったのでしょう。この右手前に大澤神社へ降る道がありました。水場はこの小屋の右先の方にあったようです。のちに大変なので鳳来山の方まで下って採水しました。

 大澤神社へ降る鉄鎖は今も残ります。”條索なはすがりて下降くだるすれば”とある通り此処に奉納の綱も下げて降ります。近年まで綱講としてお山参りが行われていました。

 左の写真は鉄鎖を降りたところの御神体の瀧、ここで足袋に赤くソブを染み込ませるのが赤瀧迄降りた証拠とされました。右はその右手に見える滝です。このすべてが御神体となっていました。

 絵葉書に見る大澤神社、これを蕨岡の神職の方に見ていただいたらもっと左の見えないところにあるといわれたのですが

 こちらの写真ですね。これは先に載せたカラーの写真の左側の方と同一だと思います。だとすると話も合います。

 古絵図に見る大澤神社(澤の字が新字体になっているのでどれくらい古いかは不明)、何本もある滝を「大澤神社おほさはじんしやほか數社あまたあり」と表現したのでしょう。

 この笹小屋は箸王子か河原宿かは不明ですがこの小屋で”力餅”と”美酒”を楽しんだのでしょう。それにしても早朝から酒飲んでこれからの長丁場大丈夫だったのでしょうか。