さて、明治、大正、そして昭和もいつごろまでの事でしょうか、蕨岡迄やってきた参拝者は宿坊に泊まります。
而して夏季に至れば參拜者四方より羣來絡譯として織るが如しと雖ども各一定おの〱さだまれるの宿坊に投するの外叨りに他に宿泊混亂することを免さゞりき然るに王政維新神佛分離せらるゝや修驗は悉く飾を更め世襲の官位を解かれ神社は一定の神官を設けらるゝことゝなれり此を以て各職を替へ業を更むるに至れり然りと雖ども尙ほ神社に奉仕するを以て今は參拜者の便宜を計らんが爲一定の鳥海山參拜者取扱所を設け以て諸事誠實懇切を旨として周旋奔走す
と太田宜賢の鳥海山登山案内記にありますが橋本賢介の鳥海登山案内には次のようにあります。こちらは大正七年の発行なのでそれほど違いはないでしょう。
宿屋ではしみづ(鳥海源靜氏宅)、ぎょくせん(鳥海英覺氏宅)、はんにや(鳥海美規氏宅)の三軒ある、何処に宿つてよいか等は社務所又は共榮社事務所に行つて世話してもらふが一番良い、學生なら一晩五六十錢くらい、一般人でも酒を用ゐない人なら七八十錢でやつてくれる、こう宿がきまれば登山の用意に懸からねばならぬ。
ところが、諸事誠實懇切を旨として周旋奔走す、とありますが以前紹介した明治四十一年の鳥海山参拝者の記録(八月十九日から二十日にかけて)には次のようにあります。
鳥海山ノ登口蕨岡ニ着イタノハ午後二時近クデアッタ
阿部源靜トカ云フ家ニ宿ヲトリマシタ
ソノ御馳走ト申シタラタマゲタモノデ仲チャンヤババ様ナンゾハタベタコトハアルマイシ又タベルコトモデキナイデシヨー、
又オ膳ヤオ椀ナンゾモ三四五百年モコノカタツタワッテキタヨーナ古ワン古オゼンカケダラケデアッタ
ネドコモソノトホリ実ニ閉口シタ
平仮名でわかりやすく直しますと、
鳥海山の登口蕨岡に着いたのは午後二次近くであった。阿部源靜とか云う家に宿をとりました。その御馳走と申したらたまげたもので仲ちゃんや婆様なんぞは食べたことはあるまいし食べることも出来ないでしょう、又お膳やお椀なんぞもありました三四五百年もこのかた伝わってきたような古椀古お膳欠けだらけであった。寝床もその通り、実に閉口した
清水坊に宿をとった時のことをこの方は友人に葉書に書いて送っています。何とも言えない様子ですが泊った当人はあきれ返っていた様子がわかります。
さらに鳥海山登山案内記では山先達を頼むように強く言います。又橋本賢介の鳥海登山案内でも「山先達 是非頼む必要がある」と強調します。太田宜賢の鳥海山登山案内記では、
參拜者が一旦投宿したるときは遲滯なく登山の準備を爲すべし卽ち服裝より簑笠杖提燈に到る迄手落無き樣心掛けらるべし夫と同時に山先達を依囑すべし然るに動もすれば偶々一二囘登山したることのあるを唯一無二の盾として山先達を雇はざるものあり是等は可否相半するものにして寧ろ否に近きものたり何んとなれば座談として高山竣嶺容易く踄るべしと雖ども素高山竣嶺深谷急阪加之晴雨定まりなく或時は雲霧晦瞑咫尺を辯ぜず暴風土石を飛ばし又或時は雷霆俄に鳴り强雨川を漲らす等變幻極りなきを以て山先達を雇ふを肝要とす
かなり強く山先達を頼むことを勧めています。大正末期蕨岡の宿坊で学生アルバイトとして夏休み「先達」=「山案内人」として働いた松本良一氏は宿坊の長男でないため道者一人につき三十銭の先達料をいただく資格がなかったそうです。それは宿坊の長男で三歳から修行された「先達」にしか許されなかったのだそうです。アルバイトの先達の収入は頂上までの三十三拝所に「おがみ」をあげて各拝所一銭宛三十三銭が収入だったとのことです。先達は一人から三十銭ですから結構な稼ぎになったのではないかと思います。今のジオパークのガイドさんは下見のガソリン代、時間も込みになるので良くてトントンらしいです。今のジオパーク以外のガイドの方は案内料どのくらいいただいているのでしょうか。高山植物や地形だけでなく、こういった歴史にも詳しければいいですね。でもほとんどの人は興味すら持たないかもしれないですね、そんなものには。