過日テレビの「庄内なんたら」いうのを見ていたらアナウンサーがやたら鳥たち、鴨たち、白鳥たちと連呼するんで即消しました。聞き苦しい。

山毛欅たち、稚児車たち、なんていう人もいますが気持ち悪い。蝮たち、蝿たち、とはそういう方々は言いません。
落語の蕎麦の殿様を思い出してしまいます。
月見の席で、重役の三太夫を呼んで「今宵は十五夜であるが、お月様は出ているか
「お月様とは婦女子の使う言葉、御大身の身、月と呼び捨てるがよろしかろうと存じます」
「さようか、しからば月は出たか。」
「一点隈なく冴え渡ってございます。」
「して、星めらはどうじゃ」
なんでこんなに違和感が有るんだろうと思っていたら丁度そのことについて書いてあるものがありました。それは高島俊男さんの「お言葉ですが 第7巻 漢字語源の筋違い」の中の一章にありました。ちょっと長いですけれど紹介させていただきます。このシリーズ大変面白いので興味持たれた方は入手できるうちに買っておいた方がいいです。あっという間に読んでしまいますから。
複数と言えば昨冬病院にいた時、春日井市の小島徹さんから楽しいお手紙をちょうだいした。
ちかごろテレビを見ていると、「たち」の濫用が気になってしようがない、というのである。最初はN H Kの女子アナウンサーが北海道で連呼した「流氷たち!」であったそうだ。つぎは天気予報の「雲たち」。あるいは「白鳥たち」「虫たち」。本を読めば「句たち」というのまで出てきた。そんなになんでも「たち」をつけたいのならこんなのはどうだ。 「公園には花たちが咲き乱れ、山には木たちが茂り、畠には野菜たちが育ち、教室には机たち が並び、本には漢字たちが書かれ、・・・・・・」 と作文していらっしゃる。
たしかに最近「たち」が多くなったようです。それも、以前にはつかなかったようなものにつく。小島さんは、さすがにこれは無理だろう、というのを選んで作文なさったのだが、「花たち」や「野菜たち」は、もう三年もしたらあたりまえになっているかもしれません。 このことについて、鈴木孝夫先生がこう書いていらっしゃる。
〈日本人は日本語をほかの言語に、ヨーロッパ言語にしたい。そう思ってるのにそれができない。そこで、日本人は日本語を、何とか英語に見せかけようとやたらと外来語を入れ、ローマ字にして、擬似西洋にする。(…)だから、ヨーロッパ語に単数、複数があるというと、日本語はそれがないから原始的言語だといって、やたらと虫たちだとか鳥たちなどと言い出す。〉(「英語教育と日本語の将来について」中『三省堂ぶっくれっと』二〇〇一・七)
日本語と英語(あるいはヨーロッパ言語)とは、もともと系統のことなる言語なのだから、当然種々の相違がある。その相違を、明治以後の日本人は、すべてあちらがすぐれており、こちらが劣っているゆえの相違だと思った。
単数、複数のこともそうで、日本語はその区別ができないから日本では科学が発達しなかったのだ、などと言う人がよくあった。小生なども敗戦後、「B29が来たといっても一機来たのか複数来たのかわからない。英語ではちゃんと言いわける。これじゃ負けるよ」といったたぐいの話をよく聞いたものです。たしかに「敵機たち来襲!」とは言いません。
「たち」の盛行は、鈴木先生仰せの通り、英語コンプレックスのあらわれの一つなのでしょう。この点については小島さんも、「名詞の語尾にSをつけるという至極簡単な法則を得々と日本語に転用して、『たち』を連発してやまない生嚙りの英語化はまことに噴飯もの」と書いていらっしゃる。しかし考えてみると、単数と複数を言いわけるというのが、それほどすばらしいことですかね。B29が一機来ようと二機来ようと、大したちがいではない。二機来たか二百機来たかは大ちがい だ。その一と二のところだけを区別してみたってしようがないじゃないの。 講談社の大村数一さんが『英文日本大事典』を作った時のことを書いていらっしゃる 學鎧』(一九九三・一二)
たとえば諏訪大社の御柱祭の項がある。山から木をおろす、というと、日本人なら「山から木をおろす」と書けばよい。ところが外国人編集者は、その木が一本か二本以上かがわからないと文章が書けない。あるいは江ノ島に橋がかかっているというと、橋が一つか二つ以上かわからないと書けない。そう言うと、さすがに英語は厳密だ、と感心する人があるかもしれんが、なに二本でも百本でもtreesなんだから、厳密と言うほどのことでもない。不自由なだけだ。
しかしともかくそういうわけで、日本人には「複数のS」に対するあこがれがあって、それが 「たち」の流行になっているのではないかしら。
あとからひとこと
〈米子市の宮下喜代治さん 大正十年ごろのお生れからお手紙をちょうだいした。
私等は中学時代、「君、僕、子供、女、犬、鬼」等に「たち」をつけて複数表現するのは誤用であると教えられた。「達」は公達の達であって、右の「君、僕、子供……」等には「等」「共」を接続すべきである、と。〉
これが正統の用法でしょうね。
『日本国語大辞典』の「たち」の項を見ると、この語の価値の下落がよくわかる。
〈①……上代では、神・天皇・高貴な人に限られたが、時代が下がるにつれて範囲が拡大し、丁寧な表現として用いられるようになった。「ども」「ら」に比べて敬意が強い。
②複数の意が薄れ、軽い敬意を表わす。
③敬意を失って、目下の者、一人称の代名詞、また擬人化して動物などにも用いる。〉
戦前の中学校では、右の 、すなわち本来の正統的な用いかたを教えたのであるようです。
書かれたのは結構以前ですけれど、 やっぱりなあ、と思ってしまいます。「たち」のどこが悪いの、いいじゃない、という方もいらっしゃると思いますけど、それでも私は嫌です、その言い方、気持ち悪い。