鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

やっと完成 鳥海山登山案内記

2022年03月21日 | 鳥海山

 毎日少しづつ進めてきた鳥海山登山案内記のデジタル化、やっと完成。

 表紙(左)と中表紙(右)

 奥付、出版案内、裏表紙

 国内で見つけることの出来たのはわずかに三部。二部は実際手に取ってみましたが内一部は地図が切り取られていました。完全な形で残っているのは二部だけということになります。山岳修験の研究者も、地元の研究している方も橋本賢助の鳥海登山案内を字句を間違て引用することはありますが、この元本について触れたものはありません。橋本賢助の鳥海登山案内も完全な形で残っているのは全国の図書館で二三冊(こちらの手元にも一冊あります)。研究者の方は橋本賢助の鳥海登山案内も実際には読んでいなくてどこかからの孫引きだと思われます。姉崎岩蔵の鳥海山史も橋本賢助からそのまま引用していますし、しかも出典を明記しないまま。

 とにかく漢字が、異体字が多いのでその文字を探すのが大変でした。書いてみろといったって書けません、そんな漢字がいっぱい。他にもこういった資料があればやってみます。

 しかし、こんなものデジタル化して何になるんでしょうね。誰に見せるでもない。一部だけ知人に贈呈しましたがあとは近いうち一部製本して蕨岡の竜頭寺、かつての蕨岡の学頭へ納めてこようと思っています。


映像で見るJAZZ Miles Davis DINGO

2022年03月21日 | Jazz

 LASER DISC後DVDも買いましたが処分してしまいました。映画の筋としては何の記憶にも残らない映画です。MILESの演奏を見るためだけの映画です。So What,he said.

 ベルを下に向けて吹く晩年のスタイルですね。トランペットはおなじみの赤く塗ったやつ。映像は一部YouTubeにありました。ここMilesが途中からステージに上がってくるところが山場です。演奏の雰囲気が一発でガラッと変わります。

 Milesの綺麗な映像を見るならこちら、Miles Davis with Quincy Jones & Orchestra Live At Montreux 1991。
 Milesは吹けていないなどとしたり顔でいう人もいますがMiles好きなら見ない手はありません。Blu-rayが意外と安く手に入ります。フルHDなので見てストレスはありません。100枚以上あったBlu-rayもほとんど処分してしまったのですがこれとMichel ペトちゃん、情熱のピアニズムBlu-rayはまだ手元にあります。
 マイルスの影武者ウォレスルーニーも2020年にCOVID-19で亡くなってしまいました。

 


LUMIX DMC−G2

2022年03月20日 | 兎糞録

 綺麗なのを見つけるとついムラムラッとして、やっちゃたんです。そんなことをする気は無かったのですが体が勝手に反応して言うことをききません、悪いのはあっしじゃありません。悪いのはこの手です。はい決して二度といたしませんのでお許しを。

 

 先日小さなミラーレスカメラPENTAX Q10を処分して、もう買うことはないだろうと思っていたのですが。

 聞いてくだせえ、お奉行様、手前のような貧乏人は、ミラーレスカメラはCANONのEOS Mを使っていたのですが、電子ビューファインダーはEOS M3からでないと使えないし、電子ビューファインダーもお値段異常CANON。
 EOS Mの液晶モニター部分に遮光フードを取り付けてみたけれど効果はほぼ無し。邪魔なうえにすぐ壊れる。液晶モニターに取り付ける三角錐のような形のビューファインダはとても邪魔。Nikonのでかい一眼レフはひょいと持ち歩くには重すぎる。ほんと液晶モニターは晴天時には全く使えない。

 等々都合の良いように言い訳をならべまして、犯罪者の心理です。安くて超美品というのを見つけましてポチってしまいました。ipadで寝転がってみていたものですからボディカラーをブラックとばかり思いこみ、ゆうパックの箱を開けてみたらブルー。まっ、いいか。加水分解も全くしていないし、ファインダーはあるし液晶モニターはバリアングル、散歩のついでに使うにはこれで十分。と勝手に納得するのでありました。

 今日は言い訳日和。家族には見つからないように隠しておきましょう。また使いもしないものなんか買って、て言われそうだから。

 

 ※上の写真、背景がほぼ消えていますがBg Eraserというフリーソフトで切り抜いてみました。


鳥たち鴨たち白鳥たち

2022年03月19日 | 兎糞録

 過日テレビの「庄内なんたら」いうのを見ていたらアナウンサーがやたら鳥たち、鴨たち、白鳥たちと連呼するんで即消しました。聞き苦しい。

 山毛欅たち、稚児車たち、なんていう人もいますが気持ち悪い。蝮たち、蝿たち、とはそういう方々は言いません。
 
 落語の蕎麦の殿様を思い出してしまいます。
 月見の席で、重役の三太夫を呼んで「今宵は十五夜であるが、お月様は出ているか
「お月様とは婦女子の使う言葉、御大身の身、月と呼び捨てるがよろしかろうと存じます」
「さようか、しからば月は出たか。」
「一点隈なく冴え渡ってございます。」
「して、星めらはどうじゃ」
 
 なんでこんなに違和感が有るんだろうと思っていたら丁度そのことについて書いてあるものがありました。それは高島俊男さんの「お言葉ですが 第7巻 漢字語源の筋違い」の中の一章にありました。ちょっと長いですけれど紹介させていただきます。このシリーズ大変面白いので興味持たれた方は入手できるうちに買っておいた方がいいです。あっという間に読んでしまいますから。
 

 複数と言えば昨冬病院にいた時、春日井市の小島徹さんから楽しいお手紙をちょうだいした。

 ちかごろテレビを見ていると、「たち」の濫用が気になってしようがない、というのである。最初はN H Kの女子アナウンサーが北海道で連呼した「流氷たち!」であったそうだ。つぎは天気予報の「雲たち」。あるいは「白鳥たち」「虫たち」。本を読めば「句たち」というのまで出てきた。そんなになんでも「たち」をつけたいのならこんなのはどうだ。 「公園には花たちが咲き乱れ、山には木たちが茂り、畠には野菜たちが育ち、教室には机たち が並び、本には漢字たちが書かれ、・・・・・・」 と作文していらっしゃる。

 たしかに最近「たち」が多くなったようです。それも、以前にはつかなかったようなものにつく。小島さんは、さすがにこれは無理だろう、というのを選んで作文なさったのだが、「花たち」や「野菜たち」は、もう三年もしたらあたりまえになっているかもしれません。 このことについて、鈴木孝夫先生がこう書いていらっしゃる。

 〈日本人は日本語をほかの言語に、ヨーロッパ言語にしたい。そう思ってるのにそれができない。そこで、日本人は日本語を、何とか英語に見せかけようとやたらと外来語を入れ、ローマ字にして、擬似西洋にする。(…)だから、ヨーロッパ語に単数、複数があるというと、日本語はそれがないから原始的言語だといって、やたらと虫たちだとか鳥たちなどと言い出す。〉(「英語教育と日本語の将来について」中『三省堂ぶっくれっと』二〇〇一・七)

 日本語と英語(あるいはヨーロッパ言語)とは、もともと系統のことなる言語なのだから、当然種々の相違がある。その相違を、明治以後の日本人は、すべてあちらがすぐれており、こちらが劣っているゆえの相違だと思った。

 単数、複数のこともそうで、日本語はその区別ができないから日本では科学が発達しなかったのだ、などと言う人がよくあった。小生なども敗戦後、「B29が来たといっても一機来たのか複数来たのかわからない。英語ではちゃんと言いわける。これじゃ負けるよ」といったたぐいの話をよく聞いたものです。たしかに「敵機たち来襲!」とは言いません。

 「たち」の盛行は、鈴木先生仰せの通り、英語コンプレックスのあらわれの一つなのでしょう。この点については小島さんも、「名詞の語尾にSをつけるという至極簡単な法則を得々と日本語に転用して、『たち』を連発してやまない生嚙りの英語化はまことに噴飯もの」と書いていらっしゃる。しかし考えてみると、単数と複数を言いわけるというのが、それほどすばらしいことですかね。B29が一機来ようと二機来ようと、大したちがいではない。二機来たか二百機来たかは大ちがい だ。その一と二のところだけを区別してみたってしようがないじゃないの。 講談社の大村数一さんが『英文日本大事典』を作った時のことを書いていらっしゃる 學鎧』(一九九三・一二)

 たとえば諏訪大社の御柱祭の項がある。山から木をおろす、というと、日本人なら「山から木をおろす」と書けばよい。ところが外国人編集者は、その木が一本か二本以上かがわからないと文章が書けない。あるいは江ノ島に橋がかかっているというと、橋が一つか二つ以上かわからないと書けない。そう言うと、さすがに英語は厳密だ、と感心する人があるかもしれんが、なに二本でも百本でもtreesなんだから、厳密と言うほどのことでもない。不自由なだけだ。

 しかしともかくそういうわけで、日本人には「複数のS」に対するあこがれがあって、それが 「たち」の流行になっているのではないかしら。

 あとからひとこと

〈米子市の宮下喜代治さん 大正十年ごろのお生れからお手紙をちょうだいした。

 私等は中学時代、「君、僕、子供、女、犬、鬼」等に「たち」をつけて複数表現するのは誤用であると教えられた。「達」は公達の達であって、右の「君、僕、子供……」等には「等」「共」を接続すべきである、と。〉

 これが正統の用法でしょうね。

 『日本国語大辞典』の「たち」の項を見ると、この語の価値の下落がよくわかる。

 〈①……上代では、神・天皇・高貴な人に限られたが、時代が下がるにつれて範囲が拡大し、丁寧な表現として用いられるようになった。「ども」「ら」に比べて敬意が強い。

②複数の意が薄れ、軽い敬意を表わす。

③敬意を失って、目下の者、一人称の代名詞、また擬人化して動物などにも用いる。〉

 戦前の中学校では、右の 、すなわち本来の正統的な用いかたを教えたのであるようです。


 書かれたのは結構以前ですけれど、 やっぱりなあ、と思ってしまいます。「たち」のどこが悪いの、いいじゃない、という方もいらっしゃると思いますけど、それでも私は嫌です、その言い方、気持ち悪い。

 


鳥海山酒田港の帰帆

2022年03月19日 | 鳥海山

 これも鳥海山の範疇に入れておきましょうか。

 太田宣賢の「鳥海山登山案内記」の図版にもこの写真が載っているのですが墨で消した文字があります。

 SAKATA HARBOR が消してあります。大物忌神社に係わるものなので横文字は消したのでしょうか。又この写真には(酒田名所)の文字は入ってません。この写真は明治末に作成された本(実際の発行は大正二年)の中にある写真ですが、最初の絵葉書は表面の書式から大正7年(1918)~昭和7年(1932)に発行されたことがわかります。ということは、下の画像は明治から続いて使用されたということになります(この本が大正期に再版されたとは考えられません)。この「鳥海山登山案記」は現存するものは全国の図書館で三部しかないようです。著者の御子孫の自宅にもこの本は残っていませんでした。こういうことを調べるのも楽しいものです。