明治四年羽前国鶴岡生まれの高山樗牛が明治二十四年に鳥海山に登った時の紀行文です。国会図書館のデジタル閲覧あるいは、googleブックスの高山樗牛全集に収められているもので読むことが出来ます。国会図書館のものは焼けて黄色くなっています。両方に共通しているのがページがスキャンした通り斜めのまま。読んでいると首が曲がってしまいます。まさか貴重な資料を裁断して自炊するわけにもいきませんのでしょうがないでしょう。傾きを補正するのも大変な労力を要します。
そこで太田宣賢の鳥海登山案内記は127頁のうち100頁迄できたので一休みし、気分転換に高山樗牛全集より鳥海山紀行をデジタル化してみました。
明治24年、高山樗牛は蕨岡口から登り、吹浦に下りています。
蕨岡は鳥海山の麓を去ること里許にある小丘の巓みなり。大物忌神社拜殿の在る所なり。村中別に旅店と名くるものなし。道者の此山に登る者の爲に五軒の道者宿を設け、社務所員之を周旋す、宿坊之なり。予の鶴岡出るや、我友藤湖子姓名佐藤小吉號藤湖子に與ふるに予等兄弟を社務所員鳥海朝光氏に紹介するの一書を以てす。至れば朝光氏予等を鳥海重任氏の家に導き、周旋至らざる所なし。子告ぐるに予等は道者として登山する者に非ず、只其景勝を探らんが爲なるを以て拜神に關する諸々の縟禮は一切之を除去せられんことを以てせり。氏笑て之を諾す。蓋し世人此山を以て神聖犯すベからざる者となし、之に上るもの必ず先つ少くとも三通間齋戒の勞を取らざるベからす。斯の如くにして登山するもの所謂道者之也。其之に上るや、至る所祈禱祈願等をなし、予等の如き者に於ては煩繁寧ろ厭ふべきものあり。予故に預め之を避けたるものなり。
明治のこの時点で蕨岡三十三宿坊は五件しかやっていなかったことがわかります。之が明治末、太田宣賢の鳥海山登山案内記に坊として名前の出てくるのが山本坊、清水坊、般若坊、大泉坊、玉泉坊ですのでこの五宿坊が明治の初め、すべての僧坊が復職したのちも宿坊としてやっていたと思われます。ちなみに最後まで営んでいたのは般若坊さんだそうです。
黎明、一の木戶に達す。狀關門の如し往來の人を點檢するなり。其前一茅舍あり、侚僂して入ベし、内餠を鬻ぐ、名て力餠と云、予良太と各一碗を喫す、味極めて佳なり。
これは横堂に着いたところです。ここが関所のような役目をしていたことがわかります。山役料を徴収するわけです。"其前一茅舍あり"というのは笹小屋の事です。太田宣賢の鳥海山登山案内記には下のように書いてあります。
箸王子神社は保食の神を祭る又社務所の出張所あり登山鑑札に照らして人員を點檢す是登山者保護上の必要(たいせつ)に依る側に掛茶屋あり酒餠菓子(くわし)の類を鬻ぐ


現在の無雪期には訪れる人もほとんどいない横堂の姿から往時をしのぶのは難しいです。
午前九時、初めて山頂に達す。山上一平地をなすに非ず、山角相繞て馬蹄形をなし、西面獨り缺損して深谿をなす、山間陷落し、赭黑色の岩石、瑰琦として遠く谿に沿て相重り、其間片靑點綠の見るベきものなし、山上は怪巖矗々として天を衝き、相依て鋸齒狀をなす。谿に昇降するに鐵梯子を以てし、一步を誤れば忽ち現世の人に非ず。之に臨めば隱崖幽暗、風稜鐵の如し、人をして悚然として毛髮竪立せしむ。頭を囘せば眼界廣漠、天地渺茫、將に之れ魂舞ひ神飛ばんと慾す。
お峯に上がり、七高山に着いたようです。"赭黑色の岩石"は七高山熔岩の事でしょう。

上山別に神社なし、只岩石の間素屋數檐あり、道者の休憩所に充つ。予等兹に握飯を喫し、一行と別を吿げ、山を下りて吹浦に向ふ、時正に午前十一時。
このとき山頂御本社は無かったように書いてあります。さてこの後吹浦に向かうのですが、太田宣賢の鳥海山登山案内記ではちょうどこの部分が(中略)で削除してあります。
路險なること蕨岡に倍す。荒草雜木、蒙茸として路を塞ぎ、七八里の間一茶亭の憩ふべきなし。疲餓交々至り、吹浦に到る頃、精氣殆ど竭く途に仆れざるを幸とするのみ。
御浜では一服しなかったのでしょうか。今は登山道も整備されて鉾立か大平に下りればそこで終わりですがブルーラインなんてない、その時代の話です。蔦石坂も今よりはもっと急な坂です。どなたか車道を使わずこのコースに挑戦してみようとする方はいらっしゃいませんか。蕨岡からの旧登拝道、一緒に登るのは致しませんが情報ならありますよ。