鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

国鉄バス

2022年03月18日 | 鳥海山

 国鉄、なんて言っても若い人は?何それっ?てなもんでしょう。日本の企業なのにJRなんて米国に乗っ取られたのかと思った。山手線も一時E電と呼ばせようとしたけど失敗。国鉄スワローズってのもありましたね、金田が巨人に行ったときは裏切り者め、と思いました。

 それはさておき、昭和49年の国鉄バス乗車券。噴火した年です。鉾立は曾て国鉄キャンプ場もありました。

 下の図に国鉄鉾立キャンプ村と書いてあります。まれにこの古い地図を真に受けてテントを張る空け者(うつけもの)がかつては見られました。

(上図は昭文社「山と高原地図 鳥海山」1976年版より)

 冒頭の写真、駐車場の部分拡大ですが左の奥に赤い屋根の建物が見えます。当時の鉾立山荘です。


高山樗牛 鳥海山紀行

2022年03月17日 | 鳥海山

 明治四年羽前国鶴岡生まれの高山樗牛が明治二十四年に鳥海山に登った時の紀行文です。国会図書館のデジタル閲覧あるいは、googleブックスの高山樗牛全集に収められているもので読むことが出来ます。国会図書館のものは焼けて黄色くなっています。両方に共通しているのがページがスキャンした通り斜めのまま。読んでいると首が曲がってしまいます。まさか貴重な資料を裁断して自炊するわけにもいきませんのでしょうがないでしょう。傾きを補正するのも大変な労力を要します。

 そこで太田宣賢の鳥海登山案内記は127頁のうち100頁迄できたので一休みし、気分転換に高山樗牛全集より鳥海山紀行をデジタル化してみました。

 明治24年、高山樗牛は蕨岡口から登り、吹浦に下りています。


蕨岡は鳥海山の麓を去ること里許にある小丘の巓みなり。大物忌神社拜殿の在る所なり。村中別に旅店と名くるものなし。道者の此山に登る者の爲に五軒の道者宿を設け、社務所員之を周旋す、宿坊之なり。予の鶴岡出るや、我友藤湖子姓名佐藤小吉號藤湖子に與ふるに予等兄弟を社務所員鳥海朝光氏に紹介するの一書を以てす。至れば朝光氏予等を鳥海重任氏の家に導き、周旋至らざる所なし。子告ぐるに予等は道者として登山する者に非ず、只其景勝を探らんが爲なるを以て拜神に關する諸々の縟禮は一切之を除去せられんことを以てせり。氏笑て之を諾す。蓋し世人此山を以て神聖犯すベからざる者となし、之に上るもの必ず先つ少くとも三通間齋戒の勞を取らざるベからす。斯の如くにして登山するもの所謂道者之也。其之に上るや、至る所祈禱祈願等をなし、予等の如き者に於ては煩繁寧ろ厭ふべきものあり。予故に預め之を避けたるものなり。


 明治のこの時点で蕨岡三十三宿坊は五件しかやっていなかったことがわかります。之が明治末、太田宣賢の鳥海山登山案内記に坊として名前の出てくるのが山本坊、清水坊、般若坊、大泉坊、玉泉坊ですのでこの五宿坊が明治の初め、すべての僧坊が復職したのちも宿坊としてやっていたと思われます。ちなみに最後まで営んでいたのは般若坊さんだそうです。


黎明、一の木戶に達す。狀關門の如し往來の人を點檢するなり。其前一茅舍あり、侚僂して入ベし、内餠を鬻ぐ、名て力餠と云、予良太と各一碗を喫す、味極めて佳なり。


 これは横堂に着いたところです。ここが関所のような役目をしていたことがわかります。山役料を徴収するわけです。"其前一茅舍あり"というのは笹小屋の事です。太田宣賢の鳥海山登山案内記には下のように書いてあります。

箸王子神社は保食の神を祭る又社務所の出張所あり登山鑑札に照らして人員を點檢す是登山者保護上の必要(たいせつ)に依る側に掛茶屋あり酒餠菓子(くわし)の類を鬻ぐ

 

 現在の無雪期には訪れる人もほとんどいない横堂の姿から往時をしのぶのは難しいです。


午前九時、初めて山頂に達す。山上一平地をなすに非ず、山角相繞て馬蹄形をなし、西面獨り缺損して深谿をなす、山間陷落し、赭黑色の岩石、瑰琦として遠く谿に沿て相重り、其間片靑點綠の見るベきものなし、山上は怪巖矗々として天を衝き、相依て鋸齒狀をなす。谿に昇降するに鐵梯子を以てし、一步を誤れば忽ち現世の人に非ず。之に臨めば隱崖幽暗、風稜鐵の如し、人をして悚然として毛髮竪立せしむ。頭を囘せば眼界廣漠、天地渺茫、將に之れ魂舞ひ神飛ばんと慾す。


 お峯に上がり、七高山に着いたようです。"赭黑色の岩石"は七高山熔岩の事でしょう。


上山別に神社なし、只岩石の間素屋數檐あり、道者の休憩所に充つ。予等兹に握飯を喫し、一行と別を吿げ、山を下りて吹浦に向ふ、時正に午前十一時。


 このとき山頂御本社は無かったように書いてあります。さてこの後吹浦に向かうのですが、太田宣賢の鳥海山登山案内記ではちょうどこの部分が(中略)で削除してあります。


路險なること蕨岡に倍す。荒草雜木、蒙茸として路を塞ぎ、七八里の間一茶亭の憩ふべきなし。疲餓交々至り、吹浦に到る頃、精氣殆ど竭く途に仆れざるを幸とするのみ。


 御浜では一服しなかったのでしょうか。今は登山道も整備されて鉾立か大平に下りればそこで終わりですがブルーラインなんてない、その時代の話です。蔦石坂も今よりはもっと急な坂です。どなたか車道を使わずこのコースに挑戦してみようとする方はいらっしゃいませんか。蕨岡からの旧登拝道、一緒に登るのは致しませんが情報ならありますよ。


一千万都市での偶然の再会

2022年03月16日 | 兎糞録

 先日書いたレコードショップムトウでの地元の人との偶然の再開、これが初めての偶然の再会では無かったのです。(”さいかい”と入力すると生活がにじみ出るのか“最下位”と変換されてしまいます。)

 一度目の再会は以前獅子舞の話に書いておきました。東京都の人口は昭和37年以降1千万を超えて今も増え続けているようですが、その1千万の人が蠢く大都会で高校の同級生に偶然であったことが何度かあります。今地元にいてすら出会うことがないのに。

 あの頃、恵比寿にあった広告代理店でアルバイトに明け暮れていました。東急エージェンシーの下請けで。東急エージェンシーの社員もしょっちゅう顔を出していて、「うちに来なよ」といわれたのですが、その頃広告代理店なんて胡散臭い商売だと思って適当に流していたのですが。

 で、そこのアルバイトは東急プラザの催事からとんでもなくちっちゃい仕事まで様々。駅でのビラ配りも時々入ります。

 上野駅でビラ配りをしていた時は、二人連れの体格のいい背広を着たお兄ちゃんから「今度うちのもやってくんないかなあ」、思わず「どちら様ですか?」すかさず「自衛隊だよ」

 自衛隊が上野駅で職もなく上京してきた若者をスカウトするという噂があったのですが、本当なんだあ、とその時は思ってしまいました。まっ、そのうわさ話を知っていてからかってきたんでしょうけど。

 本題にもどりますと、ある日渋谷の駅前でティッシュ配り(ティッシュ配りは1960年台からすでにあったそうです)。こういったビラ、ティッシュ配りはそれこそ千か万かに一件手ごたえがあればいいのだそうです。文字通り”万が一”。渋谷駅で降りて出勤途上の若い男女にティッシュを配っていると、独りの若い女の人がティッシュを受け取ると、ひょいとこちらを見て驚いたように、”〇〇君!”

 この人、名前は全く思い出せないのですが、背が高く目が細い、絵に書いたら目が横に線が一本で済むというイメージの人。顔は今も覚えています。ああ、この人は卒業して都会で働いているんだあ、自分と違ってしっかり働いているんだなあと思ってしまいました。これはそれで終わり。

 またある日、新宿のパチンコ屋さんで、あの当時はまだ立って打つのだったか、玉を弾いていて何の気なしに首を曲げて左を見ると隣で打っているのが高校の同級生。思わず顔を見合わせ互いに「オラーッ!!」、それから彼曰く、阿佐ヶ谷の河北病院の裏に下宿してるんでこれから遊びに来い、ってことで行ったんだけど、そこでの話で覚えているのは、「騒ぎすぎてアパートを追い出され、」だったか「寝たばこでボヤ騒ぎを起こして追い出され」だったか、アパートを探し回り不動産屋に「騒げるアパートはないですか。」と聞いて回ったそうで、何処へ行っても「そんなところはありません。」、ところがある不動産屋へ行って同じように聞いたところ、「ああ、ありますよ。」といわれて紹介してもらったのが今のところだとか。

 このときの彼が同級生のT君だったのか、それともW君だったのか思い出せないのです。W君は地元にいるようなので今度会ったときに聞いてみましょう。

 他にも都内で同級生にばったり会ったことが他に二三回あります。同級生以外では連れ合いの妹に前日にそれじゃ、といって別れたのですが、その日に地元へ帰るつもりが東京へもう一泊ということになって翌日新宿紀伊國屋の前を歩いていたら、前の日に分かれた妹とばったり、こういった出来事って忘れられないものですねえ。


アメ横で買ったジャズレコード

2022年03月14日 | Jazz

 高校三年の時、受験する学校を下見したいとの口実で今は亡き同級生と連れ立って上京。本当は唯一刻も早く東京の空気を吸いたかっただけ。少ない小遣いでジャズのレコードを捜しに。何の下調べもなく立ち寄ったのが上野のアメ横にあったレコード屋さん。ガード下だったかどうか今となってはわかりません。その後アメ横に行くたびにこの辺だったかなあと思うのですが、今はあちらの方々の店ばかり。

 そこで買ったのが二枚。一枚がこれ、

There Will Never Be Another You (Remastered)

 最近やっとCDを購入しました。もう一枚が BILL EVANS の POLKA DOTS AND MOONBEAMS、しかもジャケットがこれ、

 初めて聴いたときは、何だこれ、バラードばっかり、と思ったのですが。

 あの頃の輸入盤は封を切ると中の紙の臭いが独特の茶色い香りでした。臭いようなそれでいてなんだかぅッと嗅いでいたくなるような。のちにオリジナルジャケットを見たときは、何だこれっ、全然違うっ、と思いました。

 値段も安かったですね。地元へ帰っていつも行くレコード屋さんの女の店員さんと話していたら、「えっ、その値段、うちの仕入れより安い!!」

 その後東京へ出て高田馬場のムトウでしたか、レコードショップに入ったらその地元にいた店員さんがそこで働いていたのにはびっくり。おたがい驚きの顔、でもそれはそこで終わり。その後も何もありません。

 あのでかい東京で、高校の同級生とばったり出くわしたのが数回あります。あれって不思議ですねえ。知った顔って大勢の中から一瞬で見分けることが出来るんですから。今じゃ人の顔はすぐに忘れてしまいますけれど。美人になるほど記憶に残りません。それじゃ私は美人じゃないってこと?って言われそう。


宣教師

2022年03月14日 | 兎糞録

 今日は久しぶりに宣教師に出会ってしまいました。

 嫌いなおやじなんですがなんだか親近感を持たれてしまってやたら話しかけてくる。その話の内容たるや、自分の過去の自慢話ばかり。このおやじ、都会からの移住者。二言目には都会の自慢をして自分の住む地元の人間を見下すのに一生懸命。亡くなった同級生が行っていたことは本当ですね。都会から移住してきた連中はこの辺の住民を無知蒙昧だから自分たちが教え諭してやらなければならないと思っている。まさにその通りの志向がうかがえる数々の発言でした。

 先日もある記事を見たら、移住者の談話で、都会は住みずらい、仕事はリモートワークで出来る。駄目ならまた都会に戻ればいい、なんて発現していていました。リモートで仕事できるのなんて人生の間ほんの一瞬、みんな幻想に酔いしれている。実際に体を動かして働く人がいてこそ生きていけるというありがたさを理解できない、宣教師気取りの発言でしかないのです。(実際に、縁あってこちらに住んでゐる人が宣教師だとは言っているのではありせん。)

 

 買い物に行ったついで、知り合いの女の子にあったら(女性は何歳になっても女の子なのです。)新しい上司がひどい奴で、売り上げが悪いのは従業員が悪いからだ、と言うそうです。兵卒を率いるものが無能ならば兵隊は働かないのは昔からわかりきっていること。今でもこういうものがいるんですね。会社もこういった無能な上司が好きで任せているのは江戸時代以前から変わっていないようです。でもこういう腐ったやつが大手を振って生きていけるんですねえ。こういう人は日本が攻撃されたらすかさず、命を惜しめ、妥協点を見つけて降伏しろ、というのです。而も自分は絶対の安全圏を確保してから。