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見慣れない場所ですね。この場所ついては登山案内にも載っていません。奈曽渓谷を登り詰めたところ、写真左の滝は御滝、その右上方こんもりして見えるのがジャンダルム、そこに続く右の尾根が蟻の戸渡です。秋田県の山なのに写真発行が遊佐町高橋写真館になっている、と思われた方もいるでしょうけれどなぜか御滝、白糸の滝は県境を越えて山形県。
ここへ至る道、かろうじて昭文社「山と高原地図 鳥海山」1976版に破線ながらルートが載っています。説明はありません。池昭さんは自分しか歩かないような道も地図に載せて楽しんでいたようです。例えば中折沢右岸から笙ヶ岳へ至る道とか。先輩のNさんは池昭さんにひっぱられて笙ヶ岳から中折れ沢へ藪を漕ぎながら下った記録を残しています。(佐藤要編集・発行 山歩きの雑記帳 vol.12)
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「農村ライフ 日々是好日」で「ひろの元気男さん」がここを登った記録を残してくれています。ここを登った記録を見ることが出来るのはこれくらいかもしれません。
無雪期こその面白さです。山行の記録は積雪期の山行きよりも無雪期に人の行かないところへ行った記録の方がおもしろいです。
※ 蟻の戸渡といえば山の地形を連想するでしょうけれど、会陰が本来の意味です。風来山人作「道行虱の妹背筋」に「褌谷の片ほとり肛門寺とて名にしおふ大師の古路ふし拝み蟻のとわたり打過ぎて金太の宿にぞ着きにけり」というのもあります。本来は若いお嬢さんが口に出す言葉ではなかったのですが戸隠山の蟻の戸渡で有名になってしまったようです。
姉崎岩蔵「鳥海山史」では「鳥海山の支峰稲村岳の形成について」としてこの場所について書かれた一節があります。
鳥海山の支峰稻村嶽の形成について
稻村嶽は稻倉嶽、あるいは平家森とも稱し、鳥の海の北に聳えている。矢島方面から見ると、鳥海の西方に低く突起している山で、ちょうど富士山における寬永山のような位置を占めている。標高一千五百二十米、笙ヶ嶽、月山森と伯仲の間にあって、關川の上流西之大澤はその南西麓を繞り、東之大澤はその東麓を劃している。この東西の大澤は障子のような一脈の絕壁で隔てられ、當地方ではこれを蟻戶渡と稱して一奇觀を呈している。この稻村嶽の形成については、次の各說をを持っていることに注意せねばならない。これというも地形の甚だ複雜しているのと、昔のものと形が餘程異なっているからであって、唯だ「火口壁の壞れ殘りだろう」ということだけは、皆一致するが、さて何れの火口壁かとなると議論が多くて決定に至らない有様である。故三浦理學士(明治二十六年五月吾妻山噴火の際、調査中に噴孔より飛揚する岸石に擊たれて倒れた人)は新火山の外輪山、卽ち七高山連嶺の一部であると見做し、石井理學士は笙ケ及び月山森と連なるべきもので、一大外輪山の一部であると三浦說に反對している。所が、かつて鳥海山を最も精細に調査した中島理學士の說によると、稻村嶽はこれらの火山とは全く無關係の山で、舊火山よりも尙一層以前に噴出して出來た火山の殘魂であるといっている。而して氏は熔岩の性質からまた重なり合った形狀態から見て、稻村嶽熔岩や靈峰熔岩が舊火山に屬するよりも別種であって、而も古い事を確かめている。若しこの噴火口を見ようとするならば、小瀧口鉾立付近に行かねばならない。一大爆裂口らしいものがあって、底を關川(奈曾川のこと)の上流がもの凄い音を立てゝ流れている。此處か卽ち大西澤で、向って左側には例の稻村嶽、右側絕壁には名高い白絲の瀧が懸かっている。瀧の高さは凡そ百米、其絕壁に十二段の熔岩層を數えることができる。又東大澤と西大澤との閒、卽ち遙拜所の方から稻村嶽に渡る所をアリノトワタシと云って、頗る細い馬の背が見えている、
これ、姉崎岩蔵の文章だと思うでしょう、ところがなんとこれは橋本賢助「鳥海登山案内」の「第五章 稲村ヶ嶽、一名稲倉ヶ嶽」のほぼ丸写しなのでありました。下に橋本賢助「鳥海登山案内」のその部分載せておきます。
第五章 稲村ヶ嶽、一名稲倉ヶ嶽
以上新火山、舊火山或は寄生火山、爆裂火口等に就いて學者の說も略一定して居るのに、獨り稲村ヶ嶽のみは各人各樣の鑑定をしたのである。之と云ふのも、地形の甚だ復雑してゐるのと、昔のものと形が余程異なつたからであつて、唯「火口壁の壊れ残りだらう」と云ふ事だけは、皆一致するが、扨て何れの火口壁かとなると、議論百出其適歸する所を知らない有様である。故三浦理學士 (名を宗次郎と云ひ、明治二十六年五月の吾妻山噴火の際、調査中噴孔より飛揚する岩石に撃たれて斃れた人である。)は、新火山の外輪山、即ち七五山連嶺の一部分であると見做し、石井理學士は笙ヶ嶽及び月山森と運るべきもので、一大外輪山の一部分であると云つて三浦說に反対して居る。所が近頃 鳥海山を最も精細に調査した中島理學士の說に依ると、稲村ヶ嶽は之等の火山とは全く無關係の山で、舊火山よりも尚一層以前に噴出して出來た火山の殘塊であると云って居る。何れの說も一理ある事で、而も斯道の大家の調査であるから、今俄に之に對して自分の臆斷を下す事を憚るが、最も細密に而も最近に調査せられた、中島氏の說をオーソリチーと見てよからうと思ふ。氏は熔岩の性質から、又其重なり合った狀態から見て 稲村ヶ嶽熔岩や霊峰熔岩が、舊火山に関するそれよりも、別褌であつて然も古い事を確めて居る、若し此噴火口を見んとならば、宜しく小瀧口鉾立附近に行くがよい、一大爆 裂口らしいものがあって、底を關川(奈會川の事である)の上流が物凄い音をたてて流れて居る。此處が即ち西大澤(にしおほさわ)で、向って左側には例の稲村ヶ嶽嶽、右側絶壁には名高い白糸の瀧が懸つて居る、滝の高さ大約百米突其絶璧に十二段の熔岩層を数へ得るのである。又東大澤と西大澤との間即ち遥拜所の方から稲村ヶ嶽に渡る所をアリノトワタシと云つて、頗る細まつた馬の背か見えて居る。
姉崎岩蔵の説と信じて引用する方はもう一度確認しましょう。姉崎岩蔵「鳥海山史」は橋本賢助「鳥海登山案内」丸写しの所が結構あります。著作権侵害だったのは間違いないです。引用としても記載はされていません。
ところがもう一つ、橋本賢助「鳥海登山案内」は太田宣賢「鳥海山登山案内記」の丸写しの部分がいっぱいあるんです。文献引用するときはよく調べましょうね。