オーリングテストはもちろん万能では無く、これだけが「唯一の方法」というわけでも無い。人によっては合わないこともあると思う。
オーリングテストは「パンタ笛吹き」さんの講演会で初めて教えてもらったという話はすでに書いたが、その折、実は「NLP」という別の全く新しい手法も習ったのだ。その頃NLPはまだそれほど知られておらず、当時アメリカのボルダーで暮らしていたパンタさんだからこそ、いち早くそれを参加者に伝授出来たのかもしれない。
ところが一緒に習った筈のその「NLP」のことはすっかり忘れていて、今回ふと思い出したのだ。
この「NLP」というのも、(もしそれがその人に合ってうまく遣いこなせたなら)凄く大きな力を発揮してくれると思うし、オーリングテストのように(練習は必要だが)即効性もあり、具体的で、かなり実用的で役に立つのではと思う。
私の身近かな女性でこの「NLP」の手法を使ってそれこそ「あっという間に」成功された人もいるし、またある男性はそれを仕事にもしておられる。
ほんとにびっくりするぐらいの効果!?をすぐ近くで見ているのだが、私自身はどうしても遣いこなせないというか、(まだ本格的に取り組んだことも無いのだが)まるで喰わず嫌い?のように、どうしてもやる気が起きないのだ。
やればきっといいに違いないという信頼はあるのだが、如何に美味しいものでも「自分の好みでは無い」ものには手が出にくい。
心理学にはさまざまな流派があり、本で読んだり、独学である程度の知識はあるが、その中でも「アドラー心理学」については長年セミナーに通ったりしてこつこつ勉強し、けっこう時間もエネルギーも(もちろんお金も)使ったのだが、同じ時期に始めた知人たちが、どんどん資格を取って仕事にしたり、それを上手に使いこなして人間関係に応用しているのを横目に見ながら、私自身は全くこれがなぜか身に着かなかったのだ。
今でもほんとにくやしく残念に(元を取りたく?)思うのだが、如何せん私には「身に余る」のだろうか?
アドラー心理学は今でも好きで、ユング心理学と同じぐらい深いと思うし、しかもユング心理学よりも実用的で即効性があり、もしもそれをうまく身に着けられたら(仕事にしないまでも)人生が劇的に「楽に」なるに違いないと信じる。本当にとても役に立つのだ。だから練習もかなりしたのだが、私の場合はその場になるとなぜかうまく「応用が出来ない」のだ。
でもこれはいいものだと知っているから、同じやるなら~と人にはけっこう勧めている。(決して無理強いはしないが)
自分が使えないのに紹介するのは無責任かといえば、そんなことは無いだろう。パソコンの機種だって多種多様で、自分に合う、合わないがあるけれど、その人にはその人に合うものがきっとあるだろうと思うから。
この他にも、これをやると目の前の人がほんとにすぐ自分の思い通りに動いてくれるというまるで「魔法のような手法」(これもNLPの分派?)も(本で読んで)独学の練習のために使ってみたら、まさにびっくりするぐらいの結果で、ある時などあまりの効果の凄さに怖くなってしまい、その人が私にくれた超高価なものを後で本人に返したぐらいだ。
人はこんなにも簡単に動くものなのか!?と驚くと同時に、そういう手法で「自分の欲しい物」(この時はたまたまそれは相手のくれたいものであって、必ずしもこちらがそれを望んでいたわけではなかったが)を得ることに対する「うしろめたさ」や、罪悪感があり、それ以来その手法は自分に禁じている。
(このような俗にいう「心理作戦」のようなものは他にもいくらでもあると思う)
そんなふうに何でも「自分の思い通りになるのがいい」とは限らないし、それは結局「エゴを肥大させる」だけであって、もしもそれで願いが叶ったとしても何か「さみしさ」や「むなしさ」があるのでは?と私は思う。
自分の夢が叶えばいいなぁとは誰でも思うだろうけど、自分の足で歩いて頂上に着くのと、ヘリコプターであっと言う間に着いてしまうのとでは、やっぱり何かが少し違うという気がする。
(でもこれは全く私の狭い経験からの一つの感想に過ぎないし、もしかしたらその手法を「誤解している」だけかもしれないので、そういうことに興味のある人は自分で探していろいろな手法を試してみられるのもいいと思う)
さて、前置きが長くなったが、「オーリングテストも万能では無い」ということに関して、私の手痛い「失敗談」を披露しよう。
ある時、友人の「引っ越し祝い」にいくらぐらい包めばいいかと悩んだあげく、オーリングテストで「ある金額」を決めて持参したのだが、後で「多過ぎる!」とお叱りを受け、「返金する」とまで言われてしまったのだ。
その前年にも彼女は引っ越していたので、その時も同じだけを包み、今回はそれほど多くなくてもいいかも?と私自身も感じていたのだが、「オーリングテストでこういう結果が出たからにはもしかしてそれも何か意味があるのかも?」(私にはわからない理由で彼女に必要なことがあるのかも?)と思って、それに素直に従ったのだが、見事にコケてしまった!
電話口で彼女に猛烈に怒られてしまった時にはさすがに涙まで出て、なぜ?と不思議だったのだが、おかげで凄い学びになった。
要するに「自分で考えられることは自分で考えた方がいい」ということだ。
いくら考えても「頭」ではわからないことをオーリングテストで知ることが出来るのは、ある意味でとても便利なことだが、例えば上記のようなよく知っている親しい友人へのお祝いは(たとえ間違ってもいいから)自分で(気持ちをこめて)考えるべきだったのだ。
それをしないで簡単にオーリングテストで決め、しかも自分の気持ちとは少しずれていたのに、その「直観」の方を無視して、安易に「オーリングテストまかせ」にしようとした「姑息な」?私の曲がった根性を、はっきり戒められた気がする。
そして「馴れ」というのはコワイものだと感じた。いつのまにか「初心」を忘れていたのかもしれないと深く反省した。
それに自分自身に関することならオーリングテストでいくらでもチェックしても(誰の迷惑にもならず)それでオッケーかもしれないが、他人の関わることまで(横着に?)「オーリングテストまかせ」にしてはいけないということかもしれない。
もしかしたらオーリングテストはそういう私の心情までも先に見抜いていて、わざと?違う結果を出して、それを私に教えてくれようとしたのだとしたら、「あぁ、やっぱりオーリングテストってさすがだなぁ~」とさらにのめり込みそうだが。
これはもう「科学的」というより、私の場合は盲目的「オーリングテスト信仰」みたいで?(気付かないうちに)まるで「宗教」のようになってしまっているのかも?
(教祖は「オーリングテスト」なう)なんて!
これを読んで下さっている皆様方はどうかそんなことになりませんよう、、念のため。
オーリングテストは「パンタ笛吹き」さんの講演会で初めて教えてもらったという話はすでに書いたが、その折、実は「NLP」という別の全く新しい手法も習ったのだ。その頃NLPはまだそれほど知られておらず、当時アメリカのボルダーで暮らしていたパンタさんだからこそ、いち早くそれを参加者に伝授出来たのかもしれない。
ところが一緒に習った筈のその「NLP」のことはすっかり忘れていて、今回ふと思い出したのだ。
この「NLP」というのも、(もしそれがその人に合ってうまく遣いこなせたなら)凄く大きな力を発揮してくれると思うし、オーリングテストのように(練習は必要だが)即効性もあり、具体的で、かなり実用的で役に立つのではと思う。
私の身近かな女性でこの「NLP」の手法を使ってそれこそ「あっという間に」成功された人もいるし、またある男性はそれを仕事にもしておられる。
ほんとにびっくりするぐらいの効果!?をすぐ近くで見ているのだが、私自身はどうしても遣いこなせないというか、(まだ本格的に取り組んだことも無いのだが)まるで喰わず嫌い?のように、どうしてもやる気が起きないのだ。
やればきっといいに違いないという信頼はあるのだが、如何に美味しいものでも「自分の好みでは無い」ものには手が出にくい。
心理学にはさまざまな流派があり、本で読んだり、独学である程度の知識はあるが、その中でも「アドラー心理学」については長年セミナーに通ったりしてこつこつ勉強し、けっこう時間もエネルギーも(もちろんお金も)使ったのだが、同じ時期に始めた知人たちが、どんどん資格を取って仕事にしたり、それを上手に使いこなして人間関係に応用しているのを横目に見ながら、私自身は全くこれがなぜか身に着かなかったのだ。
今でもほんとにくやしく残念に(元を取りたく?)思うのだが、如何せん私には「身に余る」のだろうか?
アドラー心理学は今でも好きで、ユング心理学と同じぐらい深いと思うし、しかもユング心理学よりも実用的で即効性があり、もしもそれをうまく身に着けられたら(仕事にしないまでも)人生が劇的に「楽に」なるに違いないと信じる。本当にとても役に立つのだ。だから練習もかなりしたのだが、私の場合はその場になるとなぜかうまく「応用が出来ない」のだ。
でもこれはいいものだと知っているから、同じやるなら~と人にはけっこう勧めている。(決して無理強いはしないが)
自分が使えないのに紹介するのは無責任かといえば、そんなことは無いだろう。パソコンの機種だって多種多様で、自分に合う、合わないがあるけれど、その人にはその人に合うものがきっとあるだろうと思うから。
この他にも、これをやると目の前の人がほんとにすぐ自分の思い通りに動いてくれるというまるで「魔法のような手法」(これもNLPの分派?)も(本で読んで)独学の練習のために使ってみたら、まさにびっくりするぐらいの結果で、ある時などあまりの効果の凄さに怖くなってしまい、その人が私にくれた超高価なものを後で本人に返したぐらいだ。
人はこんなにも簡単に動くものなのか!?と驚くと同時に、そういう手法で「自分の欲しい物」(この時はたまたまそれは相手のくれたいものであって、必ずしもこちらがそれを望んでいたわけではなかったが)を得ることに対する「うしろめたさ」や、罪悪感があり、それ以来その手法は自分に禁じている。
(このような俗にいう「心理作戦」のようなものは他にもいくらでもあると思う)
そんなふうに何でも「自分の思い通りになるのがいい」とは限らないし、それは結局「エゴを肥大させる」だけであって、もしもそれで願いが叶ったとしても何か「さみしさ」や「むなしさ」があるのでは?と私は思う。
自分の夢が叶えばいいなぁとは誰でも思うだろうけど、自分の足で歩いて頂上に着くのと、ヘリコプターであっと言う間に着いてしまうのとでは、やっぱり何かが少し違うという気がする。
(でもこれは全く私の狭い経験からの一つの感想に過ぎないし、もしかしたらその手法を「誤解している」だけかもしれないので、そういうことに興味のある人は自分で探していろいろな手法を試してみられるのもいいと思う)
さて、前置きが長くなったが、「オーリングテストも万能では無い」ということに関して、私の手痛い「失敗談」を披露しよう。
ある時、友人の「引っ越し祝い」にいくらぐらい包めばいいかと悩んだあげく、オーリングテストで「ある金額」を決めて持参したのだが、後で「多過ぎる!」とお叱りを受け、「返金する」とまで言われてしまったのだ。
その前年にも彼女は引っ越していたので、その時も同じだけを包み、今回はそれほど多くなくてもいいかも?と私自身も感じていたのだが、「オーリングテストでこういう結果が出たからにはもしかしてそれも何か意味があるのかも?」(私にはわからない理由で彼女に必要なことがあるのかも?)と思って、それに素直に従ったのだが、見事にコケてしまった!
電話口で彼女に猛烈に怒られてしまった時にはさすがに涙まで出て、なぜ?と不思議だったのだが、おかげで凄い学びになった。
要するに「自分で考えられることは自分で考えた方がいい」ということだ。
いくら考えても「頭」ではわからないことをオーリングテストで知ることが出来るのは、ある意味でとても便利なことだが、例えば上記のようなよく知っている親しい友人へのお祝いは(たとえ間違ってもいいから)自分で(気持ちをこめて)考えるべきだったのだ。
それをしないで簡単にオーリングテストで決め、しかも自分の気持ちとは少しずれていたのに、その「直観」の方を無視して、安易に「オーリングテストまかせ」にしようとした「姑息な」?私の曲がった根性を、はっきり戒められた気がする。
そして「馴れ」というのはコワイものだと感じた。いつのまにか「初心」を忘れていたのかもしれないと深く反省した。
それに自分自身に関することならオーリングテストでいくらでもチェックしても(誰の迷惑にもならず)それでオッケーかもしれないが、他人の関わることまで(横着に?)「オーリングテストまかせ」にしてはいけないということかもしれない。
もしかしたらオーリングテストはそういう私の心情までも先に見抜いていて、わざと?違う結果を出して、それを私に教えてくれようとしたのだとしたら、「あぁ、やっぱりオーリングテストってさすがだなぁ~」とさらにのめり込みそうだが。
これはもう「科学的」というより、私の場合は盲目的「オーリングテスト信仰」みたいで?(気付かないうちに)まるで「宗教」のようになってしまっているのかも?
(教祖は「オーリングテスト」なう)なんて!
これを読んで下さっている皆様方はどうかそんなことになりませんよう、、念のため。