今から2千年前、ユダヤ教が“子羊”を殺して神に捧げる供犠を“イエス・キリストの犠牲”に置き換えて新興宗教キリスト教は始まった。十字架にはオシャレなアクセサリーのイメージがあるものの、実際は薄暗い一面血だらけの神殿祭儀の象徴である。
人間がどこまで駄目になるのかの標本としては貴重なキリスト教史を裏で支えた新約聖書は、初期教団においては重要視される物ではなかった。彼らの正典はあくまでユダヤ教聖書であり、それが“旧約聖書”と呼ばれるようになるのは4世紀以後のことである。 「これは神が与え賜うた」と思わせたい作為が生んだ書物に独善排他性の強いキリスト教文書が加えられた事は人類史にとっての一大悲劇になった。 以降聖書は人間(主に異教徒)をいくらはたき殺し・奴隷化しても裁かれない神の兵器と化してしまうのである。
あらゆる犯罪行為に手を染めた宗教が課されるべき高等批評の成果で、福音書がイエスの弟子達の著作ではない事、数点のパウロ書簡を除いた約20書が偽名文書(著者不詳)である不吉な事象も欧米の教役者の前では警戒心を持って聞かれる事柄ではなくなっている。(但し、聖書の全容を教え込まれる神学生は牧師など聖職位に就くなり、不思議な程これらの事実を信徒へ語りたがらなくなるとか…) 擬似パウロ書簡 wikipedia ■イエスの最後の言葉
事実を書き取ったものだとするなら、無謬どころか上記の内2つ以上が間違い(又は創作)になる可能性は100%だろう。しかしこれらが文芸作だと考えると『マルコ』は迫害を受ける信者の苦悩を、マルコの数十年後に出来た『ヨハネ』は高度に完成したキリスト教神学を十字架上に描き出したものであると理解できる。 他書とは別物語の『ヨハネ』福音書はイエスが奇跡を行い過ぎてユダヤ人に命を狙われ始める(11章)。話が他の福音書と全く整合しないではないか、と難癖がつけられるが、これは「我は世の光」としてイエスが盲人に光を与え、「我は死と甦り」の存在として死者を甦らせる象徴的物語なのである。全ては現実に起きた事ではなく寓話・霊的洞察・発想の材料として右脳的に蓄えられなければならない。 ■一緒に処刑された強盗たち
現場に同行していない者が聞き間違いのレベルではないこの書き加えをした以上話の信憑性は失われるが、ルカの主張が字面の外に隠されている箇所と考えられる。歴史ではないものを字義通りの説明的表現として捉えても大切なものは殆ど残らない。 『マタイ』⇔『ルカ』でイエスの血筋が異なるのも、両者が別々の場所で発生したためであった。初期キリスト教は統制の取れない種類多岐なグループだった事が知られており、ローマ帝国の迫害の中でも正統として生き残るため教義の正当化・信者獲得等の要で100を超える文書が生み出されている。(福音書・パウロ書簡共約20種) 新約聖書正典・外典・教父文書一覧 「聖書は神が与え賜うた」 それらは全て神の力で書かれたのだろうか?雑多な書物を“聖書”として纏め上げたのはキリスト教の政治利用を考えたローマの便宜主義だった。新約聖書の記者たちは当然、自著が数百年の後肩を並べて聖書に組み入れられようなどとは知る由もなかったのだ。 聖書の肝要は記述内容よりも"如何なる"書物であるか。大した検証もなく肝心な所は神だの霊だのと誤魔化し、思考停止に陥った様は不名誉な暗黒に暗黒を上塗りした人類史を築いた過去のキリスト教徒と変わりが無い。 ある段階でキリスト教の語る「神」「主」は「ローマ帝国」に、「父」とは新約聖書の生みの親である「ローマ皇帝」にある程度置き換えられた事実を知る必要があるだろう。 |
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