ローマ帝国が抑圧に困ったキリスト教を統治機構の内に取り込むまでの経緯を最後に確認しておこう。ローマ帝国の東端で生まれた新宗教は4世紀の為政者にその高い組織力が着目される頃までには、無知な一般レベルへの適合に長けた西洋人キリスト教への奇怪な変形を遂げていた。
コンスタンティヌスの過失は、キリスト教の美しい"人道主義"の覆いに隠された偏狭さ、凶猛性を見抜けなかった点にあろう。異質なものとの共生ができない未熟で不名誉な装置を後世に残す事になるとは、考えもしなかったのではないか(母はキリスト教徒だった)。哲人皇帝ユリアヌスはそのコストを見抜き、ローマの美術品を破壊するキリスト教徒に怒りの目を向けた。
コンスタンティヌスの生涯の信仰が不敗の太陽神ソルと共にあった事は念頭に置く必要がある。彼は2体の像を造り1体は母神キュベレ、もう1体は自身に似せたソルだとした。彼のコインにも“不敗の太陽神(SOLI INVICTO)”の文字が刻まれている。 死に際してコンスタンティヌスはキリスト教の洗礼を受ける。彼は崩壊して行こうとする落日のローマ帝国の再建をキリスト教に託すのである。 画像借用元: Ancient Coins Chronicles |
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Q コンスタンティヌス大帝の彫像はアウグストゥス帝と比べると明かに下手。キリスト教の普及で古代ローマの造形技術がそうなった?
A 西洋美術史の一般論では、古代ローマ末期は芸術衰退期。原因はキリスト教の普及。
非常に観念的なキリスト教の精神世界が、現世的で人間的なものに価値を置く古典古代の精神世界にとってかわっていく。
実在するヒーローに至高の価値を見いだし表現するか、見えない神という観念的な存在にそれを求めるかによって当然芸術は変容。前者では写実性の中に崇高さを求め、後者は「意味」が重要で記号的になったり装飾的な傾向が強い。
ローマ分裂後はキリスト教の世界が主流。それが中世の始まりであり、古代ローマとは全く異質。中世に向かって崩壊しつつあるとも言え、皇帝の彫像にも変化が出てきている。人間の尊厳を表現するモチベーションが感じられない。
この時期に比べると、最盛期のアウグストゥスの彫刻は、非常に芸術性が高い。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1298433.html
>スイス人仏教学者がみた 日本人の宗教観
Q 欧州での仏教ブームをどう感じていますか。
A 先進国は物質文明に飽きているということは間違いないでしょう。何かを模索しているということが共通にあると思います。
同じ真理を同じ言葉で聞くと飽きがきてしまうから、仏教が新鮮で、欧州で流行るのではないでしょうか。また、キリスト教と違って、改宗する必要がないのと、瞑想すること自体、自分の技術として身につけられるのが魅力でしょう。宗教体験はどれも通じるものがありますからね。
Q 日本人の仏教観はどのような行動、生活に反映されていると思いますか。
A 生死観に関して特に仏教の存在が感じられます。予測しなかった事故とか出来事が起こったときにどういう対応をするかといった時に仏教的なものが無意識の中にあるという感じがします。つまり、仏教の良いところをいえば、責任を重んじるということです。この悪い結果は自分が作ったといったような、責任を重んずる、カルマという発想が日本の社会に根付いていると思います。
例えば、西欧では大変な事件が起きた場合は「何故、神はそれを許すのか」と考える人がいます。仏教では自分以外の神がいないので直面しなければなりません。超人間的な力に任せるだけでは説明できない、自分の人生に対する責任感が生まれるのでしょう。
Q 今後は宗教はどのような役割を担っていくのでしょうか。
A 英語と仏語では宗教(Religion)と霊性(Spirituality)という二つの概念に分けて考えます。この区別が妥当だとすれば、霊性のほうが伸びる可能性が多いと思います。つまり、大方の既成宗教としての勢いは弱まりますが、個人としての霊性という問題は高まっていくでしょう。霊性というのは宗教の根底にある土台です。
例えば、「私とは誰か」といった疑問は自分で探していかなければ意味はない。知的な理解だけでなく、体と心を含めて自ら体得し、自らの「気づき」がなければ力を持ちません。過去を振り返ってみると、形としての宗教よりも霊性を求める修行体系(ヨガなど)がいつも残りましたから。批判的な精神がないと宗教が組織になってしまって、どうしてもイコール権力という構造になってしまいますから、危険なところです。
http://m.swissinfo.ch/jpn/detail/content.html?cid=5214818
http://www.swissinfo.ch/jpn/index.html?cid=4675596
http://www.swissinfo.ch/jpn/detail/content.html?cid=752926
http://www.swissinfo.ch/jpn/detail/content.html?cid=32366760
仏教は1000倍客観的な宗教なので厳然たる因果応報(様々な惨禍はキリスト凶の賜物)と向き合わせる現実的な宗教です。邪魔な神への祈りもない。彼らもやはり向上心、探究心は持っているし1500年くらい前に魂を吸うヒルから解脱できていればと思うことしきり。
戦後9割台あった米国のキリスト教徒率も最近7割台に低下し昔の健全な世界を徐々に回復しているようです。
キリストは「東の方角から白馬に乗って」世を救いに来るのだとか、はっきり言って明らかに太陽ですよね(笑。
キ教を嫌う異教徒が書いた『ピラト行伝』にマクシミヌス・ダイア(東方帝)が感激してあちこちに貼り出し、学校の教科書にも使ったとか。これで怨嗟の邪気が堆積してユリアヌスを殺した気がして来ますね。
「東の方角から白馬に乗って来る」は初耳です。ギリシャの太陽神ヘリオスも毎日4頭の馬車で東から西へ駆ける事になっており、ヘリオスはローマ神話ではソルなのですね。
http://www.ephodia.eu/ceramiquegrecoitaliq/mythologie/mythologie_helios1.htm
軽佻浮薄な人々が「太陽神ぽい物で帝国をリニューアルしよう」として失態を犯したのかもしれません。
またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。
その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。
彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。
少数派キリスト教が他宗教を押しのけて国教の座に付いたのは、思想が優秀だったからでも
みんなに認められたからでもなくて。依然帝国の"悩みの種"だったからですね。頭の中まで筋肉な皇帝たちが「これで一挙両得。俺って天才」と安易な判断をした。その流れの中で哲学青年として育ち思慮深い賢帝が逆に舵を取ろうとしていたことは忘れたくない哀切の歴史です。
結果として欧州全体が人類の"頭痛の種"になりました。(笑えない)
最近何かと騒がしいリビア、エジプト、ギリシャ、シリアの辺り、かつてはローマ帝国の領土だったと思いますと、何か感慨深いものがあります。
ローマの強引さにはエジプトもギリシャも不服でしたが、ギリシャ神話が西側まで浸透したり宗教世界が華やいだのは一つ功績だったと思います。しかし程ほどにしないからユダヤの地でヘンな神を掘り起こしてしまったようで…(笑)
それにしても目的をとうに失った廃炉はいつまでだらだらと存続するつもりなんでしょうね。
http://www.eastpress.co.jp/manga/shosai.php?serial=1539
http://yosaburo.web.fc2.com/coin/roma/marcus-aurelius-aug.html
>マルクス・アウレリウスは、皇帝であると同時にストア派後期の哲学者である。キリスト教を迷信であると退けた。彼は、「人間は絶対者や 救済者に頼ってはいけない。自身が律しなければならぬ。」とする「克己主義者」であったからである。
太古の昔から"真理"を追うのは宗教より哲学の範疇であり、転がる岩、空の墓、裂ける幕などではなかったです。
一人一人についての真理を描くように意図された精神ドラマを誤ってある人物の生涯に付け加えたことで、生を真摯に生きた偉大な先人の営みは全て徒労に終わってしまいました。
ローマ人の良き指針を見ているとある時期に設置された人間性を壊すダイナマイトが残念でなりませんね。コンスタンティヌスは身内も猟奇的に殺している人物で、キリスト教の父(アッバ)としては似つかわしいかもしれません。