170304 イメージセンサとカンブリア大爆発 <BS8・AIとカメラの未来>を見て
今朝は少し霜が降りていましたが、作業にはちょうどよいぐらいの気温で、多少手がかじかむ感じで始めて作業を始めるとすぐ体がぼかぼかになってきました。今日もヒノキの枝打ちと倒れかけた竹木の伐倒整序です。
ヒノキは胸高径10数cmですから、とても売り物になるものではありません。でも細い枝が伸び放題、年寄りの髪の毛が乱れているのが見苦しいのと同じです。私も最近は少し気にしだしていますが床屋へはなかなか行く気にならない、五木寛之氏みたいにかっこよく長くきれいな髪の毛だといいのですが。それにツタが根元からてっぺんまで完全に覆っているので、このまま放置すれば中が腐食して自然に倒れてしまいます。それで、いつものぶり縄で、高さ10mくらいの木の7,8m位まで登って、ツタと枝を払っていきました。
ツタが絡まっているので、まず少しずつツタを払いながら、ぶり縄のロープを幹に回していくのですが、これがなかなか大変。登るのに邪魔なので、道具を軽い竹ノコだけにして、枝打ち用のナタを下に残したため、たくさんあるツタを切るたびに、切りくずが顔や体に降りかかってくるのです。顔より下で伐ればいいのでしょうが、ぶり縄を上に上げるにはどうしても顔より上を伐らないといけないのです。
一本のヒノキを伐るとどっと疲れます。しばらく切ったツタや枝を整理して休んだ後、今日はもう一本、枝打ちをしました。筋肉痛がなくなると、昨日の夜から今日はどうやろかと考えていますので、老体?(ま、最近は80歳を過ぎないと当てはまらないかもしれませんね)を顧みず、どんどんと登っていきました。地上からは7,8mですが、すぐ下に川が流れているので、川底からだと10m近くになり、結構、見栄えがします。
以前、アメリカ製のレインジャー仕様というノコギリで枝打ちしていて、太かったのでつい力を入れすぎ、枝がすぱっと切れたのはいいのですが、そのまま太ももをノコギリの刃で傷つけてしまったことがあります。それもあって最近は竹ノコを使っているので、多少失敗しても大丈夫?です。とはいえ、今日も、枝も中には枯れかかっているのもあって、うっかり足を置くと、ポキッと折れて、もう少しで下に真っ逆さまに落ちるところでした。
ほんとうは、安全対策として、腰にベルトをして幹に回して、体の重心を支えるのですが、この腰ベルト、少し手間取り、買ったものの使わないままで放置しています。実際は作業するときも、ベルトで体を支えるので、両手で作業できますが、左手か右手で体を支えながら、一方の手で枝打ちするので、結構、手に負担となったり、体も傾くのできつくなります。これも性分でしょうか、多少の危険は覚悟で、手っ取り早く作業ができるということで、ずっとこの調子です。
その後、倒れかけている竹木、これは長さは優に10数mととても長く、幹も10数cmあり、何本か伐倒すると疲れます。それはいいのですが、時折、不意に跳ねたりもするので油断できません。今回は以前に誰かが伐倒して放置した竹木上で、作業していて滑ってしまい、なんと横向きの細身の竹木に首つり状態で当たってしまいました。すぐに後に転倒したのですが、切り株に当たらなかったのは幸いとはいえ、私には頸椎に少し後遺症があり、ちょっとしばらく動けませんでした。
となんだかんだとやっているうちに、普通は昼のお知らせチャイムの音で帰宅準備するのですが、今日は聞こえなかったので、のんびり帰ったら、もう一時近くでした。結局、5時間半くらいの作業を黙々とやったことになります。なんとまあ、我ながらがんばったなと思うと同時に、疲れも一遍にやってきました。といっても夏の間、草刈をするとこんなものでなく、帰り道は息絶え絶えになるのですから、体力のなさを感じるに十分です。
と長々と半日の出来事を書いたのは、まだ疲労感で充実した意識の中にあるからかもしれません。と同時に、今日のテーマと少し関係性があるかなと思いながら、いつもより長めに書きました。
今日の毎日の川柳に次の秀逸な作品がありました。
<AIに勝つには電気抜けば良い 厚木 アマの余談>
AI(Artificial Intelligence;人工知能)の話題が毎日のように取り上げられ、あるいは知らぬ間に日常生活の中に相当浸透しているに脅威を抱く人に対する、諧謔的な表現の一つでしょうか。あるいはアイロニーみたいな意味合いもあるのでしょうか。
それはともかく、突然ですが、この川柳から、日本が誇る縄文文化を急に思い出したのです。たしか縄文土器でしたか、発見されたもので最も古いのは15,000年前だとか。それはエジプトや中東、いや中国よりも古いとのこと。その縄文文化は弥生人が訪れる紀元前3世紀くらいでしたか、、それまで続いた、いやアイヌ民族の縄文文化性は平安期以降も残っていたとも言われています。
その高度な文化性と自然生態系との調和や再生エネルギーを基本とする生活様式は、現在見直されつつあると思うのです。狩猟採取といったこと自体に包含する多様な文化性はいまなお十分解明されていませんが、その縄文土器や漆塗りの技術などは、豊かで安定的な経済的基礎なくしてはなしえない文化ではないかと思うのです。弥生人がもたらした水田耕作は開発という名で、長く続いた森林文化、自然破壊を行ったわけです。そこには祟りという恐れを抱く人々に、卑弥呼のような呪術による祭祀が必要とされたのかもしれません。
で、私が行っているヒノキの枝打ちも竹木の整序も、縄文文化とは一切関係ありません。ただ、強いていえば、道具の使用において、基本、人のもつ五感、体力、自らのエネルギーのみで行う点は多少共通するところがあるかなと勝手に思っています。そしてそれは生きていく上で、とても気持ちがいいのです。疲れという感覚は、体力知力の消耗だけ、自然との付き合いの中で生じるもので、企業や学校という場で生じるものとはまったく違います。もちろん、AIがいかに発達してもこの疲れのほどよい感覚は味会うことができない、人間本来の高揚感的なものがあるように感じるのです。
さて、余談はこの程度にして、本題に入ります。
プライムニュースは、よく見ています。首都圏で仕事をしている頃は、久米さんのテレ朝を見たいがそれより遅く帰ってきて、小池さんの番組を見ていた記憶です。その後どんな番組を見ていたかあまり覚えがないのですが、当地に移ってからは夜は仕事をしないことにしていますので、TVを見るか読書をするかです。その中でプライムニュースは以前もなんども取り上げたと思いますが、反町キャスターの突っ込みと、対立する主張の出演者の議論が興味深く、いい番組と思っています。といって、BSフジですので、局自体の傾向性もあり、反町キャスターもしっかり持論をのべており、むろん私と同じではありません、私がその議論の中身自体を支持するといった意味合いはありません。私のような職業では、対立する意見をしっかり聞いていないと、かえって一方的で身勝手な持論になりかねないと危惧しますので、その意味では非常に参考になります。
で、昨日は、寺西信一氏が2017年のエリザベス女王工学賞の受賞者の一人に選ばれたということで、その受賞の根拠となったイメージセンサの話と、AI分野の第一人者の一人、松尾豊氏、それによくコメンテーターとして登場される小宮山宏氏が登場して、イメージセンサとAIの融合による日本の経済発展の基軸にするといった雄大な話を伺いました。
イメージセンサといっても、私自身ぴんとこなかったのですが、私たちが普段使っているデジタルカメラやスマホ(私は持っていませんが)など多様な用途に使われる撮像デバイスの基本技術である、埋込フォトダイオードを開発したのが寺西氏でした。NEC勤務時代の80年に特許を取り、20年で特許期間が経過後は普及が促進したそうです。
そういえば、私も下手なカメラやビデオカメラをとり続けてきましたが、この30年くらいでものすごい進化形にあるのかなと感じています。当初はカメラがフィルムで、ビデオカメラも次第に小型化しましたがビデオテープでした。それがいつの間にかデジタルになり、これは便利と買い換えが、画素数が大きくなるたびに、つい衝動的に買ってきたようにも思います(とても縄文人の意識とはかけ離れていることを痛感)。
その開発者ともいうべき人が寺西氏というのはこれまであまり取り上げられてこなかったのではないかと不思議に思います。青色発光ダイオードの開発者の一人、中村修二氏のように企業内特許という日本特有の慣行の中で、独自の道を切り開いた弁舌さわやかな人とは異なり、寺西氏はNEC,パナソニックの技術畑を着実に歩いてきた技術者らしいぼくとつな印象ですが、研究成果とのその汎用性は驚くべきものです。
松尾氏がこれまた弁舌さわやかに、寺西氏が開発した特許がもつイメージセンサ機能が、カンブリア大爆発を起こすだけの起爆剤となると、これまたすごい話となりました。松尾氏いわく5億年以上前のカンブリア紀に生物が爆発的に増大した根拠の一つに、進化生物学者で古生物学者のアンドリュー・パーカーが指摘する眼を持った生物の誕生を唱えた説を紹介しています。
ウィキペディアによると、<生物の歴史上、はじめて眼を持った生物(三葉虫)が生まれ、積極的に他者を捕食することによって眼をもっていない生物に対して有利となった。眼と、硬組織を獲得した生物がその捕食に対抗できるようになったという説>です。
で、松尾氏は、このイメージセンサは、画像をとらえる「網膜」の機能を電子化したもので、それを判断する視神経の部分ではAIが機能することにより、その統合作用の結果、劇的なカンブリア大爆発のような産業革命が生まれるといったような話だったかと思います。
そうですね、イメージセンサであらゆる対象物を瞬時にすべて把握して電子化し、その機能は飛躍的に拡大しているわけですね。視神経に当たるというか人工知能の方もあらゆる方面で研究成果が実現して増大しているわけですね。
小宮山氏はいろいろ具体像を提示していましたが、たとえばアスクルの工場火災のような場合に、消防士が入れなくても、真っ暗闇で火災に巻き込まれる危険があっても、AIとイメージセンサを備えたドローンで現状把握や消火方法を見つけることが可能とかわかりやすい例を出していました。
とりわけこのようなAIとイメージセンサの普及拡大によって、かえって仕事を奪われるのではないかといった不安について、トランプ大統領の十八番のようなラストベルト地帯の白人労働者救済措置を訴えるような人が出てくることを懸念してか、小宮山氏は一般的な仕事には使われないで、特殊な場面で使われるでしょうと言った弁解めいた話までしていたのには少し驚きました。
ヤマト運輸では、ネット販売の増大の結果、過重労働になっていることから、昼間の配達を制限するといった方向を打ち出しています。この運搬物の増大といったことに対応するには、AIとイメージセンサは極めて有効で、すでにアマゾンでしたか、センサー付きロボットが必要な配達物の場所まで即座に移動して、荷物棚も自動的に動くようになっていて、配達物の選別等が見事に機械化されています。
こういったサービス分野といったいままで機械化されていない、マンパワーが中心の業態では、今後ますますAIとイメージセンサが活躍することは誰が見ても明らかでしょう。
それ自体は、労働者との多少のコンフリクトがあっても、倫理的な問題にまで発展することは少ないと思います。しかし、問題は、顔の識別能力を利用したような場合のプライバシーへの侵害のおそれや、介護現場で使用されつつあるロボットでも、単に労働補助的なものであれば別ですが、認知症患者に対して接するロボットの導入などを含め多様な問題が起こりうると思われます。いま実証段階のようですが、認知症患者といっても多様で、それを人物の識別ができない患者として、個性のない、あるいは顔の特徴をわざと抽象化したロボットに対応させようとしていますが、医学的知見との整理ができているのか疑問なしとしません。
むろん医学分野により高度なイメージセンサを持つAIのロボットが導入されれば、もしかしたらある種の医師は必要なくなるかもしれない?なんてこともあり得るかもと考えたりもしています。いや弁護士も含め士業や専門家と言われる人でも、同じ状態になる可能性を含んでいると思っています。こういった問題だけに限るわけではありませんが、倫理上の問題はかなり深刻に、ディプランニングしておかないといけないのかと、人間側の課題と思っています。
その検討は松尾氏が専門家ですから、もう少し話題提供があってもよかったかと思いますが、時間が足りなかった(石原氏の当たり障りのない、ある種無責任さを露呈した会見内容を議論する意味があったか疑問を感じたのは私だけではないように思いますが)のかもしれません。小宮山氏も一般論的すぎて、工学系の第一人者でしょうが、AIやイメージセンサといった先端分野については、より適切な方があったかもしれません。ま、素人にわかりやすく説明していただけると言うことで、出演者に選ばれたのかもしれませんが。
舛添氏のときもそうでしたが、石原氏も弁護士と相談しているようですが、どうもまともに弁護士と協議したようには思えない内容で、あるいはそういう弁護士をわざわざ両氏とも相談相手にしているのかと愚考してしまいます。
ちょっと脇道に入ってしまいました。松尾氏による倫理的な問題について、現状どのような議論がされているのか、うかがいたかったのですが、ちょっと口惜しいため、関係のない話までしてしまいました。最後にまた最初の川柳を繰り返しておくのが落ちでしょうか。