たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

命と人と農 <健一自然農園 生やし放題で大和茶「長寿」>を読んで

2017-03-22 | 農林業のあり方

170322 命と人と農 <健一自然農園 生やし放題で大和茶「長寿」>を読んで

 

今朝は少し薄曇りでしょうか。それでも薄明が窓の外に感じられると、自然に眼が冷めてしまいます。人間の懐中時計が自然な生の循環を促しているのかもしれません。

 

昨夜は辛い決定をして、そのせいかほとんど眠れない夜を過ごしたのですが、眼は閉じたままだったせいか、自然に目が開いたようです。

 

人は進化とともに煩悩の世界と直面して常にその生き方に悩むのかもしれません。以前書いた扁桃体の発達と過度で継続的な反応がうつ状態を招いているというのも人間の性かもしれません。同時に、進化を拒否して自らの安定や民族の平穏を選んできたアフリカのハッザ民族のように、時間の拘束もなく、日々の営みに幸せを感じ、仲間との分かち合い、平等の実践こそを大切にする生き方も学ぶところがあるように思うのです。

 

さて見出しのテーマでは、命というあらゆる生命体、それには無機質も観念的には考えてよいと思いますが、その命と人、それをどのような絆というか触れあいを共同体として形成できるか、いま新たな段階にあるのかもしれません。

 

見出しの青年の葉っぱビジネスではなく、自然茶事業を取り上げる前に、先日NHKが放映していたBS1スペシャル「“異人”がやってきた町~りんごの里・幸せの行方~」を少し紹介したいと思います。

 

都会の大学を出たばかりの青年がたしか200円の手持ち金でふらっと東北の小さなにやってきました。彼は生活の糧を得る手段を知らないというか、そこに意欲がないようです。集落は20戸あまりの小さな、過疎地に見られるいわば70代を優に超える人々ばかり。そこにずけずけと入っていき、出された食事を食べる。何をするでもない。ただ老人夫婦の話を聞き、出された食事をおいしいとうれしそうに食べるだけのようにもみえるのです。農業の経験もなければその意欲や熱心さも欠けている印象。なんとま、いい加減な生き方でしょうか。

 

でも村人は彼の怠け者的生き方に少し小言を言うものの、まんざらでもない様子で、彼の相手をする。彼もあまり役に立たないものの農業の手伝いもどきをする。それが5年も続いているというのです。彼はなにか仕事といった明確な物ではないものの、作業らしい物を自分なりにやっています。農家の高齢者たちもどうしようもないと言いつつ、彼を受け入れています。

 

最近、彼はネットで民泊を募集し、外国人数人が訪れ、案内しました。そこで外国人が農家の手料理を食しながら、農家の人たちと交流を始めたのです。彼自身が異人ともいうべき人物ですが、外国人との交流も農家の人たちにとっては初めての経験で楽しい一時を過ごしました。

 

ついちらっと途中からちらっと見た放送でしたが、なにか心温まる彼と集落の人々とのやりとりでした。

 

これを見ながら、またイザベラ・バードの東北紀行を思い出しました。過疎地に暮らす人々は維新10年後でも維新世界とは断絶して飢餓と困窮の中にあったのですが、異国人バードを迎える人々の彼らが精一杯行う心温まるもてなしは、バードをして、英国貴婦人としての気品を失うことなく、日本人の礼節さ、もてなしに深い感銘を記録させています。

 

長々と前置きを述べましたが、人の営みのあり方の一端をここに感じるからです。もう一つ、本題に入る前に、残業時間規制を扱った<水説以下でも未満でもなく=中村秀明>について少し触れておきたいと思います。そこでは<残業の上限規制づくりの終盤でもめた繁忙期の100時間「以下」と「未満」の差は何なのか。労働担当の論説委員に聞くと「1秒の違いですね」と苦笑した。>と100時間の攻防について取り上げられています。

 

新日鉄を含む大企業労働者の問題と中企業労働者の問題を比較しつつ、あくまで労働者の多くを占める立場からの議論が強調されているように思えます。そこには大企業か中小企業家を問わず、強いられた労働、大事な生き方の一部を制約された労働という形で、労働時間問題が取り上げられているように思うのです。

 

パワハラ・セクハラ・過労による物心両面の疲労困憊など、扁桃体が機能しなくなり、うつ状態になるリスクが高まっていることへの配慮は、容易に認めることが出来ません。むろんそこで取り上げられている<ヤフーの宮坂学社長>の<長時間労働が常識のIT業界に一石を投じ、週休3日制も可能な新しい人事制度を進める。日本記者クラブで先日、記者会見し、「働く者の3割が疲れている。労働者の心身状態の改善も企業の役割です」などと話し、100時間問題に見解を述べた。>という考えも次第に増えてきていることは確かでしょう。

 

しかし、振り返って、現代の企業による「働き方改革」という呼び声だけに頼るのでは、これからの生き方を改善するのは見通しが暗くないでしょうか。いま求められているのは、働く人、それぞれの意識改革ではないでしょうか。

 

先に取り上げた、怠け者のような異人である若者も立派に自ら選択して自分にあった生き方を選択しているように思えるのです。過疎の集落はこうだ、電気・水道・トイレなど充実していないから、いやさまざまなエンターテインメント施設がないからとか、いろいろ必要と思えばそれらが欠けているかもしれませんが、はたしてそれぞれの生き方において必須のものがなにか、その程度は、それぞれの考え方次第ではないかと思うのです。

 

そのような自分なりの生き方は、その人のまさに選ぶ人生です。その一つの例として、<健一自然農園(奈良県大和郡山市) 生やし放題で大和茶「長寿」>は参考になるように思うのです。まだ35歳の健一氏は、<中学時代に学校教育に矛盾を感じ、「環境問題にコミットしたい」と15歳で畑を借り、17歳から自然農の塾に通った。実に早熟だ。>というのです。15歳からすでに20年の自然農法の実践者です。

 

彼の言葉は、自然の命を讃え、その生命力で活かされている自然生命体とともに、自らも生かされ、その成果物を人にも分け与えようとするものではないでしょうか。その言葉をそのまま引用しましょう。

 

<「お茶の木は枯れないんです。自然に生やしとけば長寿。なんで農薬が要るかわからない。子どもと一緒っすよ。勉強せえとばかり言ってお坊ちゃまにしてしまうんじゃなく、自然に生きる力を大事に」

 「元を汚さない方が手間がかからない。環境、作り手、食べ手の三方よしになる」

 「農薬をやると、そこだけ肥えた状態になるので虫がわく。うちの畑はクモやバッタやカマキリはいるけど、嫌な虫はいない」>

 

以上は、私が学んだ川口由一さんの自然農法とほぼ同じです。川口さんは、同じ奈良県の纏向を拠点にして、三重県名張市赤目で全国から外国人も含め多くの参加者を得て、耕作放棄地における自然農法を実践されています。

 

その骨子は

<●耕さない

大地を耕すことは不自然なこと

たくさんの生命が生きる舞台を壊すのはやめよう>

 

<●肥料・農薬を用いない

だれも肥料や水をやらないのに

山の木の実はなぜ毎年実を付けるの?>

 

<●草や虫を敵としない

草を「雑草」と分類するのは人間の都合

生態系のバランスが取れていれば「虫害」もない>

 

というものです。彼の言葉は宗教的色彩を帯びているように感じることもありますが、常に飄々として、穏やかで、自然体、そして土の中の生命体を、土から育つ生命体を、さらにこれらの生命体とともに生きるさまざまな生命体との共生を基本としています。

 

そして基本的なエネルギー使用は、自然です。ま、いえば人力です。老若男女、いろいろな人が来ますので、多少、機械を使うことは大目に見ているようですが、彼は基本的に手作業です。エネルギーの大量消費で、原発がベースロード資源として不可欠との前提は、わが国の多くの国民が現在の消費方法を継続する限り、打ち破るのは容易でないでしょう。

 

加重労働を続ける社会構造も、簡単には変わりそうもありません。でも健一氏のように、農業のあり方を、働き方のあり方を変える人も、そういう節目の時だからこそ、オルタナティブとして出現するのではないかと思うのです。

 

このような新たな働き方、事業のあり方、それを支援する制度論といったことも検討する必要があるかと思います。

 

<農業ファンド参入促進へ 「特産」耕す地域金融 成長支え、収益拡大狙う>という記事では、これまでJA銀行が独占的に行ってきた、農業法人への融資などに、新たな事業への選択の幅を広げるものとして注目してもよいかもしれません。JAが生産者側の視点で主に事業支援を行ってきた中、地域の中小企業相手に融資実績のある信用金庫や地銀など地域金融が農業分野に入っていくこと自体は、消費者目線など異なるアプローチや事業継続性といった面で有効な側面があると思います。

 

ただ、それだけだと、JAバンクもこれまでさまざまな努力を重ねてきているので、本当に新規参入の手助けになるかはまだわかりません。というか、農業価値をどう新たに設定できるか、それが消費者意識の改革や、新たな市場開拓など、大胆な新規事業化が図られないと、絵に描いた餅になるかもしれません。できれば、というか、自然農法といったこれからの自然との調和と人間力の復活を目指すような事業に新たな支援の触手を上すだけの胆力を期待したいと思うのです。