たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

妄想による殺傷(医療と法の狭間) <淡路島5人刺殺 死刑判決 裁判員、判断負担重く・・>を読んで

2017-03-23 | 医療・介護・後見

170323 妄想による殺傷(医療と法の狭間) <淡路島5人刺殺死刑判決 裁判員、判断負担重く・・>を読んで

 

今日も柔らかそうな雲が大きく空を覆っていました。今にも降り出しそうという感じがない分、のんびりとした気分になれるのでしょうか。

 

さて今日は午前中から仕事が細々とあってなかなか終わらず、そして相談案件も少し時間がかかり、いつの間にか夕方です。今日のテーマに考えようかと思っていた材料開発におけるAI、「マテリアルズ・インフォマティクス」(MI)はいまから検討するとうまく整理できそうもなかったので、見出しの重たいテーマ、これもしんどい話題ですが、身近で事件が話題となっていることもあり、簡単に(問題は深刻ですが)触れてみたいと思います。

 

淡路島での5人刺殺事件では神戸地裁が死刑判決を言い渡しました。そして和歌山地裁では今、紀の川市での小五の児童刺殺事件の審理では先日懲役25年の論告求刑がなされました。そして相模原知的障害施設での障害者19人の刺殺事件の衝撃は甚大でした。

 

いずれの事件でも犯人は妄想を抱いていました。これまでも同種の事件はありましたし、今後も起こりうることを否定できる人はいないでしょう。

 

淡路島5人刺殺事件では、<精神障害を巡る責任能力について裁判員は困難な判断を迫られ、遺族は「ただただむなしい」とやるせない思いをコメントで寄せた。>と記事冒頭で指摘があります。

 

責任能力の有無・程度について、裁判員が判断することはとても大変なことでしょう。むごい刺殺の写真などを見るだけでもぞっとするのが普通です。その加害者の言動を冷静に観察して、責任能力を判断するというのは一般の方である裁判員にとっていかに過酷な精神状態になるか、相当程度理解できます。

 

そもそも裁判官にとっても、専門医にとっても、その判断は簡単ではないでしょう。

 

判決では、<長井裁判長は「『被害者は工作員で、自分への攻撃に対する報復』との動機は、妄想を前提とするものだ」としたうえで、「被告の犯行前後の行動は合理的で一貫していた」と指摘。被害者の就寝時間を狙ったことや、逮捕時に「弁護士が来るまで答えない」と話したことなどを列挙し、「計画性があり、殺害を決意し実行した行動に病気は大きな影響を与えていない」と断じた。>とされています。

 

被告人の妄想を認めつつも、その犯行前後の行為態様を見て、合理的一貫していたということで、責任能力を認めています。妄想性といっても多様ですから、計画性があることや犯行前後の言動から、責任能力を認めるとの判断も一定の合理性があるといえるでしょう。

 

しかし、それほど簡単とは思えません。計画性のあることが責任能力を認める根拠として本当に有効か、精神医療や犯罪心理学など多様なの知見として確立しているのか、なお検討を要するのではないかと思っています。

 

たしかに結果はあまりにむごく、非人道的という言葉だけでは物足りないでしょう。到底許せない行為と言わなければなりません。ただ、それが妄想によって生じた加害意思であった場合、より慎重な責任能力についての判断が求められるのではないかと思うのです。

 

私はこの事件の被告人の言動や責任能力について、事実関係を知っているわけではないので、安易な発言は慎むべきだと思っています。ただ、<神戸学院大の内田博文教授(刑事法)は「精神障害者は『人格が危険』と判断されがちで、量刑が重くなる例が多い」と分析。今回の判決でも犯行動機は妄想が前提にあったと認めつつ、「結果の重大性」が重視された。内田教授は「こうした運用が続くと、『精神障害があるがゆえに減軽される』という従来の責任能力規定の廃止という議論にもつながりかねない」と懸念している。>との指摘は、詳細な分析の上での議論かはっきりしませんが、そのような懸念を抱かせる判決だったのではないかと愚考しています。

 

また<岩波教授は司法と医療の連携の不十分さも指摘する。心神喪失者医療観察法は重大な他害行為をした精神障害者への医療提供と社会復帰を促す制度だが、「司法と医療の縦割りは変わっていない」と嘆く。平野被告への治療は事件の約8カ月前に途絶え、県と県警との情報共有に不備があったと指摘されている。岩波教授は「精神医療の人員は全く不足している。司法ともしっかり連携しないと、同種事案は何回も起こる」と訴えている。>との指摘は、平成15年に新設された心神喪失者医療観察法の医療観察が有効に機能していない問題を取り上げており、この問題は多少とも相模原障害者施設19人刺殺事件とも関連する内容だと思います。

 

専門医の判断においても妄想性と他害性との関連性がそれほど簡単に判断できないことを裏付けているように思うのです。それが裁判員や遺族の方にとって、より厳しい現実として対応しないといけないことになっているのではないかと感じます。

 

といって私は裁判員制度において、この責任能力問題のある事件を対象から外すべきとの考えにたつのではありません。むしろ専門家と言われる、専門医、そして裁判官にとっても簡単でない問題を彼らだけに任すのではなく、社会の一員として一緒に考えてもらいたい、判断してもらいたいと思っています。そして社会全体で考えていく契機なることを期待しているのです。

 

相模原障害者施設事件では、加害者は精神保健福祉法に基づいて緊急措置入院した後、退院後に事件を犯しています。精神保健福祉法では、心神喪失者医療観察法と異なり、重大な犯罪を行い、心神喪失等で責任能力がないなどと司法判断がなされた者は対象でなく、自傷他害の疑いがある人が対象ですので、専門医の判断だけで医療措置が行われ、その措置の解除も行われます。

 

そのような重大な判断を専門医とはいえ、医師一人の判断に委ねたり、社会的な連携システムを構築しないで対応することの問題が指摘されています。

 

紀の川市の小5刺殺事件では、やはり被害妄想が起因となって犯行を行っていますが、かなり以前から被害妄想があったとのことで、犯行までになんらかの対応ができなかったのか、社会システムの問題をも感じます。

 

いずれの制度もこのような妄想による重大な死傷事件に対して、有効に対応できる状況にはないということを私たちがまず意識し、理解することが大事ではないかと思うのです。

 

このことから妄想患者に対して、予防的措置として不当な拘束や強制的な治療を行うような制度設計は、妄想の多様な症状からみて妥当とは思われません。私たちは現状、現在の具体的な実態を把握することが肝要であり、その対応を検討することが求められていると思うのです。

 

なお、参考までに心神喪失者医療観察法の概要をウェブ情報をアクセスしていただければと思います。この検討はいずれまたとします。