170324 歩くことと人生行路 <正しく歩いて痛み知らず>を読んで
今日もどんよりした曇り空。でも仕事が忙しくて、風景を楽しむ余裕がないのが残念です。
仕事が終わったら、もう帰る時間。これからブログを考えるのはちょっと厳しい思いです。
それで今日も安直に、見出しの記事を取り上げて、手っ取り早く仕上げようかと思っています。
歩き方によっていろいろなところに痛みが生じるとか、歩いていないとぼけやすいとか、いろいろ言われていますので、私も経験的に感じてきました。
この記事では、歩く場合の足の踏み入れ方に重点が置かれた解説ですが、それはそれで面白い視点だと思うのです。私の場合靴底の減り方がかかとの外側が少し減る程度ということで、ここでいう「理想型」です。そして今はいている靴はなんと10数年使っています。といってもとくに当地に来てからはこの靴で長く歩くことはありませんので、いわゆる万歩計で測るまでもなく、たいした距離を歩いたわけではないことがわかります。その靴底が理想型というのはうれしい限りです。でもほんとかなと思うのは偏屈でしょうかね。
というのはたしかに靴底の減り方はそのとおりですが、体調不調の中で、足に極めて重症状態になることもありました。ほとんど歩けない状態ということもありました。それは歩き方が原因ではないのかもしれませんが、歩き方がよければ痛みがなくなるとは限らない一つの例です。
足の裏がぱんぱんに近い状態で腫れたこともあります。あるいは脹ら脛はちょっちゅうおかしくなり、歩くのが大変なこともあります。それが歩き方に問題があるのかどうかはわかりませんが、どこかおかしいところがあるのでしょう。
ただ、この解説をされている医師の言わんとすることは理解できます。正しい歩き方をすることにより、重心の移動が足の機能にマッチすることになり、一部の部位に変に荷重がかかり、そのために足や脚の変形に繋がることがすくなくなるだろうなとは思います。
とはいえ、歩き方として、よく話題にされる美しい歩き方の代表?のモデルなどの歩き方が理想的かというと、この医師の見解を待つまでもなく、そうではないように思うのです。私自身、美しいとも思いません。テレビで偶然少し見る程度ですから、よく分かっているわけではありませんが、とてもきれいな、魅力的な歩き方という風には私の場合感じません。
さてそろそろ歩き方の形の話しはこの程度にして、私がこのテーマを取り上げた理由を述べたいと思います。歩くと言うことは、人間の進化にとっても、また成長にとっても、極めて重要なことだと思います。
赤ん坊が立っただけでだれもが喝采します。まして歩いたりしたら、それこそ両親はじめ家族は有頂天になるでしょう。しかし、それは赤ん坊本人にとっても、頭脳の働きが急速に活発になる契機になるのだと思うのです。
そして歩くことにより、人はより創造的であったり、いわゆる発見的なものを見いだすことに繋がりやすいのではないかと愚考しています。むろん病気で寝たきりになってしまった人の中にも素晴らしい才能を開花させることができた方も大勢います。しかし、普通の人にとって、歩くことこそ、頭脳を明晰にする重要な要素ではないかと思うのです。
維新前は、誰もが歩いていました。龍馬や海舟が歩いた距離はいまでは想像出来ないほどの距離だと思います。彼らは歩きながら世の中をどうしようかと考えたに違いないと思っています。そして歩くことによりひょいといいアイデアが突然出てくることも少なくなかったように思うのです。
ところで、高齢になり、次第に歩くことが少なくなり、いや歩けなくなったとき、認知症の症状も早まるのではないかと思っています。卑近な例でいえば、母親はとっくに90歳を過ぎて、いまは歩くことが出来なくなり、認知症の症状も次第に悪化しつつあります。ただ、彼女はなんとか歩こうと努力します。私が手をとってあげると、歩くのです。必死に自分の足で歩こうとするのです。それは赤ん坊がそうであるのと似たような状況かもしれません。
歩き方はともかく、その歩こうとする情熱は、彼女の認知症の症状をさほど悪化させていないように思うのは誤解かもしれませんが、そう信じています。その歩くことに対する熱意は、普通の食べ物を自分で箸を使って食べることへのこだわりにも繋がっているように思うのです。私のことはなかなか思い出してもらえませんが、それでも会話は普通にできます。
それはまさに歩くこと、歩くことのへの熱意があるからではないかとおもっています。そのように断片的な経験ではありますが、歩くことは人間にとってとても大切なことだと改めて感じています。
そして正しい歩き方をすることは、ほんとは姿勢も正しくなり、その心自体も正しいものになると信じたいところです。しかし、森友学園の理事長が国会で証人として証人席に行ったり、戻ったりする姿勢、歩き方は、なかなか堂々としていることが外観上はそういえるように思うのです。しかし、その証言の内容、いや彼が報道陣に対してとった態度、その前に幼稚園における退園児童に対する言動などを見聞する限りは、歩き方や姿勢だけでは、その心の中は清浄となることは簡単でないことを示しているようにも思えるのです。
彼の言動は、私のように紛争事案を手がけてきた人間にとっては、多様な表現の有様をみていると、紛争事案によく出てくる人の類型の一つかなと思うのは少し一面的な見方かもしれませんが、そう感じてしまう内容です。
それはともかく、本来、人は正しい歩き方、姿勢をとっていれば、人生における個々の選択においても大きく道を誤ったり、関係する人を傷つけるといったことは、通常あまり起こらないように思うのです。
ただ、作られた形、強制的にか、意図的に作った形の場合、それは砂上の楼閣に過ぎないのですから、当然、実態のある正しい方向性を示すことにはならないように思うのです。
私も、そうはいいながら、森友学園事件など、最近起こっているさまざまな事象、人の有様を見て、他山の石として、我が身に問題がないか、鏡に向かって問いかける必要を感じています。そして鏡に向かわなくても、正しい歩き方を日々心がけていれば、自然に、正道を外れることもなくなるように思うのです。
見出しの記事から大きく外れた独り言でしたが、正しい歩き方を心がけることは、呼吸法とともにしっかり身につけ、日々精進を繰り返せば、死そのものも気持ちよく受け止めることができるのはではないかと期待して、今日はおしまいとします。