170307 教育のあり方 <アクティブラーニング>と<森友学園問題>を考える
今朝は小糠雨でしょうか、いや一時の気まぐれな細雨のような感じでしょうか。ともかくだんだんと暖かさを感じる日々です。
さて今日は朝から忙しくするまでもないかと、ブログをのんびり書こうかと思っています。で、なにかと騒がしい森友学園、当初より気になっていたことに、そろそろ少し言及してみようかと思いますが、適切な資料がないので、これまた隔靴掻痒なかんじとなりそうです。
なにが気になったかというと、校舎の建築様式と構造です。木造建築で2階建てという、従来の公立校ではまずないと思われる低層で木造です。土地問題が騒がれ出した2月のいつでしたか写真を見た最初に、なんとなく違和感を抱いたのです。
それは国有地が極めて極めて低廉な価格で買われた、その取引価格や経緯に疑惑が取りざたされている中で、校舎がなかなかいい感じで、ちぐはぐな印象を感じたのです。
施主というのは、土地と建物を総合的に評価して、価格交渉をし、その土地利用も全体としてその価値観が表れるものと感じています。そしてこの種の学校建築では建築や経営コンサルがしっかりサポートしているので、その意思が表れていると思うのですが、校舎建築に対する思いと土壌処理の不手際というか、あるいは悪意のある処理というのか、どうも不自然さを感じていました。
そして3月7日付けの新聞報道から入手できた2月26日までのウェブ情報を参考に、一応の見立てをしてみようかと思ったのです。
建築費については、どうやら国交省への補助金申請の際に提出した21億円は架空というか虚偽に疑いのある金額で、実際は7.5億円程度のようです。国交省に申請したのが15年の何月かは不明ですが、財務局が学園側と有償貸し付け契約を締結、小学校建設に着手建築の着手が15年5月ということですから、補助金申請に誤解があったとかといったことでは説明つかないでしょう。建築計画概要書やそれ以前の建築前の大阪府建築審査課でしょうか、ここで事実経過を調査すれば、すぐに実態が明らかになると思います。つまり21億円がまったくの架空でなければ、同年5月に7.5億円の建築に着手などできるはずがないと思わざるを得ません。建築費もいろいろ変動がありますが、3倍の違いはその金額からしてもありえない差です。
で、奇妙に感じるのは、国会やTVでいろいろ議論している土地の価格と廃棄物処理費の算定とその分の減額です。翌年6月に、不動産鑑定士が土地価格を9億5600万円と査定していますが、その根拠自体、隣接の土地の評価と比べても極めて低いので、どのような近隣地価の資料をどのように分析評価したか、鑑定書自体をみないとなんともいえませんが、かなり疑問を感じています。裁判ではよく争われますし、首都圏にいる時代、私自身友人の鑑定士ともずいぶん議論指摘してきましたが、合理的な根拠を提示することは鑑定士としても結構大変な作業です。むろん裁判でも簡単な評価に定まらない性質のものです。ただ、本件ではだれもが指摘しているように、まさに近隣国有地が約14億円で売却されたこととの比較でも疑問を払拭できません。
そして問題の、土壌汚染ないし廃棄物処理費用です。借地契約開始間もなくの16年4月、国が(1)の撤去・処分費約1億3200万円を学園側に返還し、それから2ヶ月後の6月には、土地売買契約に変更して、上記査定額から廃棄物の撤去・処分費約8億円を差し引いた1億3400万円で売買契約成立。野党議員が指摘するように、200万円で実質的にこの土地を取得しています。
しかも埋設されていた廃棄物の成分・性状・量のいずれもデータとして明らかにされていません。単に一般的な算定基準で、数値あわせをしたに過ぎません。いま土壌汚染問題で議論が沸騰している豊洲移転問題は、売主としての東ガスの問題も当然、議論されます。万が一、校庭内で何らかの有害化化学物質が表土に漏出したりして、児童に健康被害が発生した場合、売主としての国の責任がないといえるか、売ったのだから、瑕疵担保免責条項があるから(確認していませんが)といった理由で、責任逃れする問題ではないと思います。多様な廃棄物がある埋設している土地を学校用地として売却すること自体も、慎重に行うべき事柄です。
それはともかく元に戻って、廃棄物処理を適切に行っていれば、それでも森友学園には、200万円の売買代金の出費があるものの、受け取った1億3200万円と8億円で、廃棄物処理費を支払うわけですから、それはそれで、腑に落ちないものの、一応の解決かもしれません。
しかし、大阪府私立学校審議会では、そもそも収支計画、資産状況に疑問符がついていたのですが、校舎建築費の7.5億円を支払うだけの経済的基礎があったのか疑問を感じています。といって、たまたま廃棄物処理費は合計で訳9億3200万円ですので、この建築費への充当と、なにか帳尻が合うと感じるのは少し穿った見方かもしれません。
廃棄物処理は、多くの建築現場で、なかなか実態が解明されない問題の一つです。とりわけ本件土地は元が池沼であった(地目もそうなっています)のですから、軟弱地盤であることは確かで、さまざまな廃棄物、(なぜか安倍首相はゴミといっていますが、産廃であることを薄めるような言い方に疑念を感じます)そして地下深くにあった池沼の土壌に産廃の有害物質が溶出した可能性も否定できないことから、しっかりした土壌分析が行われれば、有害性の有無も確認できると思いますが、まったくそのような調査を行った形跡が認められないことも懸念材料です。
なお、当該土地の登記事項証明書をネットで入手しましたが、昭和54年に運輸省が売買で取得し、その後平成24年10月に新関西国際空港(株)に現物出資され、平成28年6月に森友学園に売買されています。国交省の買戻特約付きですが。それはともかく、森友学園は借入のために一切の抵当権をつけていません。建築費についてもです。それが不思議なのです。一体、経済的に余裕がないと思われる森友学園が7.5億円もの建築費を借入なくか(3億円の借入と記載があったように思いますが、当該土地には抵当権はつけていません)、あるいいは残り4.5億円はどうしたのでしょう。さらにいえば事業継続のための費用は、入学予定の生徒数の入学金等では賄えませんね。寄付に頼るということですが、毎年の事業費を考えると疑問です。
なぜこのような状態で認可の手続きを進めたのか、大阪府の責任も大きいと思います。
さてと、こういうあまり美しくない話題はこの程度にして、もともとテーマとしようとした<アクティブラーニング>について、少し明るい話題として提供してみたいと思います。
教育は、森友学園の幼稚園のように一方的に詰め込むものではないと思うのです。幼稚園の園児の礼儀正しさとか、教育勅語の暗唱、さらには運動会での政治的発言など、これらを見てすばらしいと感じる政治家や関係者の感覚を疑いたい。安倍昭恵氏は、首相とは異なる感覚で発言するように思えていましたし、それについて安倍首相も許容するような飽和力を示しているようにも見えて、それはそれで評価できると思っていました。しかし、今回の森友学園の名誉校長の承認が、報道によれば、園児から懇請されたため、断れなかったということであれば、残念ながら識見を疑わざるを得ません。園児の姿は、まるで園指導の動きとしか読めません。
園児は本来、自由闊達で、統制されるものではないと思います。それを高く評価することに疑問を感じます。しかもとりわけ「名誉校長」といった大人の感覚での表現を園児が自分の考えですると思う方が不思議です。
他方で、アクティブラーニング(AL)を先行的に導入している奈良市立一条高校の「よのなか科」の授業の報告があります。これは貴社が同校長の藤原和博氏に注目したものです。<教育改革実践家の藤原和博さん(61)が昨年4月に同高校長に就任したことだ。藤原さんは約10年前、東京都杉並区立和田中の民間人校長として、塾と連携した「夜スペ」や、世の中のことを議論する「よのなか科」の授業で注目された。「日本は成長社会から正解のない成熟社会に移った。『納得解』を求める情報編集力が必要だ」というのが持論だ。>
報告の一部を援用します。<よのなか科の授業は土曜日朝の約90分間。生徒は自由参加で、保護者や教育関係者などの大人も参加して生徒と議論する。初回のテーマは「ハンバーガー屋の店長になってみよう」だった。配られた地図の中のどこに店を出せば繁盛するか、数人のグループで人の流れや周辺環境を考えた。確かに思考力は養われる。>
<2年の熊木洸太さん(17)のプレゼンは「高校ってなんだろう」。中学校と高校の違いや定義を説明した上で「あなたにとって高校はどんなところ?」と問題提起した。グループでしばらく議論した後、生徒たちはスマホのアプリを使って自分の意見を送信。「高校とは失敗を積み重ねる場」「中学校よりも広い範囲で友達ができる所」などの意見が次々と前面スクリーンに映し出された。なかには「人と違うことをするのが難しい」という本音も。>
<生徒たちが成長できた理由を考えた時、いくつかの注目すべき特徴に思い至った。
その一つが、高校生のほとんどが持っているスマホを活用したことだろう。検索機能を使って情報を入手し、議論の最中に「ながら」で意見を送信した。彼らのスマホスキルは高い。無記名なので、日ごろ積極的でない生徒も気軽に打ち込んで“発言”していたのが印象的だった。
二つ目は議論の仕方。藤原さんは「初めにとっぴな意見を出して。後は他人の意見を聞いて修正すればいいから」と呼びかけていた。三つ目は、教師側からは結論や正解を言わない、という点。普通の授業では、教師が最後に教え諭すことが多いのと対照的だ。>
おそらく教師側は、大変な作業が必要だと思います。しかし、これまでの一方的になにか知識を提供するというのは、部分的には有効であっても、個々の人格や知的能力の成長には繋がらないと思うのです。
戦後生まれた日本国憲法は、ほとんどの人の支持をうけたと思っています。その中の「個人の尊厳」こそなによりも大事にされるべきことと思います。教育を受ける権利は、その価値観を前提に保障されるべきではないかと思うのです。教師が一方的に教科書の内容を教える、それを生徒が覚えるというのでは、決して、個人の独立した考えや、個人を尊厳する考え方が育っていかないと思うのです。
その意味で、藤原校長の取り組みは、決して生やさしいことではないと思いますが、本来の教育に近い道を一歩ずつ歩んでいるのではないかと思い、エールを送る意味で、取り上げました。
なお、私のつたない失敗例を最後に一言。ある大学で、3年間、非常勤講師を務め、その際、学生は2年生くらいから大学院生まで、自由に授業選択ができるものでした。私は授業方式を、小集団に別れてもらい、ある事例を与えて、一週間後に、それぞれの集団毎に、プレゼンをしてもらい、生徒間で討論、つまりディベートをしてもらう方法をとりました。これはちょっと違いますが、北米の大学で行われている一般的な授業方式の一つです。その後白熱教室などでTVなどでも見ることができるようになりましたが、私の場合、個人、個人だとまだちょっと難しいと思い、集団方式にしました。
しかし、残念ながら、まだ私自身の能力も足りず、教材も生徒には膨大すぎたため、成功したとはとてもいえません。北米の大学だと、もっと大量の文献を一週間の間に読み込み、理解した上で、学生間でどんどん議論を深めます。ところが、わが国では、みなまじめですが、読み込むのに精一杯なのと、多くの授業があって、これに対応するのに時間がとられるのと、内容が少し難しすぎたため、プレゼンするので精一杯で、学生間の議論が深まるまでとは鳴りませんでした。
これは小学生からディベートを学んできた北米と異なり、わが国の場合、時間がかかると思います。しかし、グローバル社会の中で生きていくためには、企業の中でも議論が活発にできるようなミーティング、さらには取締役会、経営会議にならないと、生きていけないと思うのです。いやそんなことより、自分自身の生き方、考え方を教育の過程の中で、小学1年生から大学4年生までに、しっかりした素養を獲得する大切な期間が現在のような教育方法では、福沢諭吉も嘆いているのではないかと思ってしまいます。