たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

見えないことの意味について <視覚障害者 自立訓練の実施1割>を読んで

2017-03-09 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

170309 見えないことの意味について <視覚障害者 自立訓練の実施1割>を読んで

 

今朝は少し霜が降りていて、若干の寒さを感じました。これくらいは気合いがはいるのにちょうどいいと思うのです。昔、合気道を少しやっていた頃、寒稽古で冷え冷えとした畳に裸足で踏み入れるとき、一瞬神経が研ぎ澄まされる思いになりました。

 

そういえば合気道の本部道場で行われていた師範による模範演技は、相手に触れる前に、気だけで相手を投げ飛ばすとか、その動きを封じるという技に、なんとなく違和感を抱きつつも、それが気の力かもしれないとも思っていました。それが魅力でもあったように思います。

 

脱線すれば、勝新太郎演じる映画「座頭市」も、そのような相手の気を感じてばったばったと倒していたようにも思えます。いや、目が見える剣客と言われる人も、その間合いの中で、相手の動きを目で追うのではなく、相手の気を把握して、相手の覇気を奪う、これを制することで、刀を交合わすことなく勝敗を決するのが肝要というような話を以前どこかで聞いたか、読んだかした記憶もあります。

 

しかし、それは希有の達人が生死をかけて修行した結果会得するような技でしょう。普通の人は、目が見えなくなると、途端に暗澹たる気分になり、どうしていいか分からなくなるでしょう。先にイメージセンサのテーマで松尾氏が指摘した、生物が眼をえたことによりカンブリア大爆発の生物種の飛躍的増大が可能になったという説のように、人間にとって視力は最も重要な機能の一つであることは確かです。まして現在のように社会の中に複雑で多様化したハード・ソフトが乱立している状況では、視力障害者はなんらかの支援なしには自由で快適な生活を送ることが困難だと思います。

 

毎日朝刊の一面で<視覚障害者自立訓練の実施1割 指定福祉事業所>が取り上げられていました。視覚障害者への支援がほとんど行われていないのに等しい状況であることが分かります。

 

記事によれば<各地の社会福祉法人などが運営し、身体障害者の自立や就労訓練を行う「指定障害福祉サービス事業所」(2015年1月現在、全国185カ所)のうち、視覚障害者の自立訓練(機能訓練)を実施しているのは1割未満の16カ所にとどまる>ということで、視覚障害者に対する自立訓練がほとんど実施されていない実態が放置されていると言わざるを得ないと思います。

 

この視覚障害者に対する自立訓練実施施設の数もさりながら、視覚障害者数32万人(12年)のうち、どのくらいの人が訓練を受けられているのか、それも把握する必要があるのではないかと思います。むろん視覚障害者の多くは他の障害のある方とともに、特別支援学校で、点字の指導、白杖歩行の訓練、弱視者への拡大読書器などの障害補償機器の指導、卒業後の生活自立へ向けての生活訓練を受けられるので、上記の施設数の割合だけで問題視することは適切でないと思います。

 

ただ、白杖で歩いている方をそれほど街中で見かける機会がないことを感じている私としては、毎日記事の指摘からさらなる実態解明を求める必要を感じています。

 

毎日記事では、<身体障害者対象の自立支援制度は、障害者自立支援法(現・障害者総合支援法)に基づき、厚労省が06年に告示した「障害者福祉サービス運用算定基準」に沿って実施されている。算定基準は視覚障害と他の障害を区別しておらず、指定障害福祉サービス事業所で自立訓練を担当する専門の生活支援員の定数基準を「障害者6人に付き最低1人」などと定める。>としつつ、<日本盲人会連合(日盲連、会員約5万人)によると、視覚障害者の自立訓練は「生活支援員1対障害者1」が望ましい。>と指摘して、具体理由を取り上げて問題視しています。たしかに視覚障害者6人を一人で訓練するということは現実的でないと思います。一人で2人の視覚障害者を訓練することも容易でないでしょう。その逆が正しいかもしれません。日盲連のマンツーマンは最低の基準ではないかと思います。

 

また、毎日の別の記事<地元歩く技量磨きたい 訓練環境改善望む>で指摘されているように、訓練するといってもやはり一定の技量が必要でしょう。視覚障害者については、「歩行訓練士」の資格があるそうですが、<約2年の講習後に厚生労働省の認証を受け、全国に約530人がいる。>ということですから、極めて少ないですね。介護士などの収入が少ないと問題にされていますが、歩行訓練士の場合ある自治体の例では、なんと150万円くらい。これではこの仕事だけではやっていけないし、訓練の実績もノウハウも育ちにくいのではないかと思います。福祉事業全体が施設数、専門職の数が少ない、収入が低いと問題になっていますが、視覚障害者の場合、その状況は最悪に近いのではないかと懸念します。

 

白杖をもって町を自由に歩けるような風景は、一部の例外を除き、当分期待できないのはなぜか、私たち、行政がしっかり考え、検討していかないといけない問題だと思います。

 

また、盲導犬の普及も少ないように思ってウェブ情報を見ると、<NHK 視点・論点 「盲導犬の効率的育成と普及向上」>で取り上げていました。これによると<我が国では、全国の盲導犬事業所、盲導犬訓練センターから、毎年、約150頭の盲導犬が視覚障害者の社会に供給されていますが、これまで盲導犬を使用した経験がない視覚障害者に新規に貸与される盲導犬は、毎年、50頭余りであり、待機者が数千人という需要を満足するに至っていません。>ということで、盲導犬の絶対数が少ない上、その寿命から、新規に利用できる人が50人くらいというわけで、これでは普及するはずがないですね。

 

この報道では、盲導犬を増やす手法として、生殖工学技術や遺伝子解析技術が紹介されていますが、前者はまだまだの段階で、後者も見込みがあるものの当分実現する見込みがない状況でしょうか。盲導犬に導かれる視覚障害者がレストランやデパートなどいろいろなところで見かけることができる風景を期待したいですが、それは映画の一場面に過ぎないのがわが国の現状でしょうか。他方で、盲導犬に導かれた視覚障害者の転落事故報道もあり、盲導犬の訓練というか、視覚障害者との相性など総合的な利用のあり方にも改善が必要なのでしょう。

 

そういう暗い話しばかりではないようです。ウェブ情報ではさまざまな取り組みが紹介されていますので、各地でこれらを参考にしてより積極的な対応を期待したいと思うのです。

 

たとえば<視覚障害者転落盲学校生、鉄道研修施設へ 駅の構造学ぶ>では、一部の支援学校で鉄道研修施設を使って、駅の構造を学ぶ研修を実施しています。視覚障害者自体が、危険な駅の構造や電車の出入り、乗客の動き、わが国の過度で騒音に近い構内放送などを体験しておくことが大事ではないかと思います。構内の防護柵といったハードによる対応は有効ですが、すべての駅での実現は現実味がありません。その意味で、このようなカリキュラムはできるだけ多くの支援学校で採用してもらいたいと思います。といってもなかなか鉄道研修施設の利用が可能なところは多くないでしょう。国交省がJRや民鉄の協力を得て、一時的に研修利用できるよう、モデル事業を打ち出すことを検討してもいいように思うのです。

 

国交省は昨年12月、<視覚障害者の誘導、駅員から声かけを>要請し、指針をつくるということで、それ自体は容易であり、即戦力なり、実効性が高いと思います。それ以上に、上記のモデル事業を大勢の乗客が見守る中、視覚障害者が駅構内を体験訓練することは、乗客という一般の人にとっても、また、視覚障害者にとっても、両者の理解が深まるいいきっかけになるように思うのですが、現実の壁はかなり高いでしょうね。

 

<全国初>視覚障害者も難聴者も楽しめる映画館 東京・北区に>という記事によると<映画は字幕付き。各席にイヤホンジャックが設置され、難聴者は音声をより鮮明に聞くことが可能で、視覚障害者は会話や音楽、場面説明などもある「音声ガイド」を聞くことができる。>とのこと。このようなユニバーサルシアターが社会にできること自体、私たちの中に、視覚障害者や難聴者に対する意識が高まるでしょうし、それらの障害のある人にとって、新たな楽しみの場を社会の中に見いだせ、白杖をもって町に出るきっかけにもなるように思うのです。

 

紙芝居タイトルは「障害者あるある~」 困りごとを紹介>という記事では、幼児から高齢者まで、障害者の実像の概要を知る機会となり、障害の中身を知らないと触れあうことも容易でないのですから、紙芝居という媒体はさらに普及してもらいたいと思います。

 

再び冒頭の見えないことの意味について、少し考えてみたいと思います。見ないことによって、見えてくるものがあると考えてもいいように思っています。いや、見えないからこそ、見えるものがあると思うのです。それは人間が持つ他の感覚が、視力によって後退していたのが目覚めて、本来の機能をより発揮して、目で見る以上にものを見る、その本質を見ることがあるのではないかと思うのです。

 

むろん、音感や芸能的な才能は、平安時代の琵琶法師から地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家、現代ではピアノなどさまざまな楽器の演奏など多様な才能を発揮している人が証明しています。それは誰もが理解できる現象としてわかりやすいですが、それ以上に表に出ない才能が開花されるものがあるように思うのです。

 

琵琶法師の例で分かるように、その暗記・暗誦力は類い希なものではないでしょうか。視力によって次々と意識が拡散されてしまう私のようなものにとっては、視力に障害があることによりそのような雑多な情報に阻害されない集中力も養われるのではないかと思ったりします。そして集中した頭脳により高度な分析力なども養われる可能性があるようにも思うのです。私たちは、まだ十分に視力障害の方の能力、その可能性に気づいていないように思うのです。そういった研究が進展することを期待したい思いです。