たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

学校設立と支援 『渋沢栄一のメッセージ』を読みながら

2017-03-19 | 教育 学校 社会

170319 学校設立と支援 『渋沢栄一のメッセージ』を読みながら

 

今朝もちょうどよい気候で気分よく作業にでかけました。とはいえ昨夜は昨日の疲れで足に少し痙攣が起こり、今朝はちゃんと起きれるだろうかと不安になっていましたが、明るい日差しともに、痛みもわずかで元気が蘇っていました。

 

今日こそ軽く作業をやって帰ろうとしたら、隣家(といっても自宅は相当離れていて、農地が隣接している意味合いです)から精が出ますねと言って話しかけてきたのはいいのですが、自分とこの畑と接している斜面地の篠やツタも切ってもらえませんかと言われてしまいました。これまでもなんどか言われることもあり、毎年草刈ならぬ笹苅をしてきました。ただ、一言言っておいた方がいいかと思い、その斜面地はこちらの所有名義ではなく別の方ですよと話しました。地方、とくに昔から続いている地主層の間では、登記簿を見て話す人はほとんどいません。昔からの利用状況や父親からの話で所有者や境界を理解しているのがほとんどです。

 

とりわけわが家の場合長く利用して来なかったのと、利用も、自ら作業するより、山林は林業家に、田んぼは農家にそれぞれやってもらっていたので、あまり実態を理解していないというので、余計わかりにくくなっています。私は、長く放置していたので、所有地かどうか関係なく、できるだけ周囲もきれいにしようとやってきましたが、そろそろ私の力量にも限界があり、所有地でないところは少し理解してもらおうかと思ったこともあり、話したわけです。

 

といいながら、いま整理をしている竹林は、これまた少し離れたところに自宅のある所有者で、まったく訪れるのを見たことがなく、手入れをしていないので、放置できず、やっていますが。

 

ま、ともかく、今のところは、今日声かけをされた隣接地を、簡単に大鎌で刈払いして、終わることにしました。そのためやはり昨日ほどではないですが、かなり疲れてしまいました。

 

そしてなんとかNHK囲碁トーナメント決勝戦に間に合い、井山棋聖と一力七段の待望の一戦を観戦できました。両者の読みの深さは、これまでの実力者を倒してきた棋譜でも遺憾なく発揮されていました。むろん私のような岡目八目では解説者の話しについて行くことも出来ないので、ただすごいと思うのです。彼らの読みの深さは解説者のそれを超えているので、解説者も解説しきれないことも少なくないように思います。今日は小林名誉棋聖で、久しぶりの登場です。彼の若い頃の鋭い棋譜も見ていましたが、この両者はその上を行くのかもしれません。一力さんの深い読みで一時は逆転したのかと思いましたが、最後の勝負所で、井山さんのしっかりした手筋(私にはただただこんな打ち方があるのかと感嘆するだけですが)で、コミが出ない圧勝となり、一力さんといえども投了でした。

 

さて本日のテーマですが、もう夕方になっており、今日もあまり浮かぶネタがなく、報道もとくに興味を抱くものがなかったので、いま読みつつある『原典でよむ 渋沢栄一のメッセージ』で受けた新たな渋沢像から現代の事象を少し考えてみようかと思います。

 

いま話題の一つは森友学園の小学校設立認可とそれに伴う学校用地としての国有地売却、およびその土壌汚染処理、ならびに校舎建設と補助金等の受給問題があります。関連していえば、その経営する幼稚園での教育内容というか、指導の仕方でしょうか。

 

教育を受ける権利は憲法上保障されていて、極めて重要な権利であることは異論がないでしょう。そのために、社会の多様化に対応するために、教育の多様化も必要でしょう。とくに私学においてはその教育方針の独自性は尊重されるべきだと思います。それが教育勅語を唱和することを強制するものだとしても、ある年齢、たとえば高校とかなら、あるいは合成から補助を受けない私塾なら、それも許容される場合があっていいと思うのです。

 

教育を受ける権利は、まず子にあるのですから、子がどのような学校を選択するかを判断することが望ましいと思うのです。親が自分の考えでどの学校に通わすかを決めるのは、子がその判断をできない小学校入学以前では、親の責任が重いと思うのです。選択の幅も限られるべきではないかと思うのです。親の思想信条で、子の教育のあり方を決めるのはできるだけ避けるべきではないかと思うのです。つまり小学校や幼稚園、保育園を選択する場合、子の思想信条を極端な方向に向かわせるおそれのある選択は避けるべきではないかと思うのです。これは憲法論ではないかもしれませんが、思いつきで考えたので、あり得る解釈かなと思っています。

 

さて前置きが相変わらず長くなりましたが、渋沢栄一といえば、「第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東京急行電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。」と、明治時代の富国強兵の一旦、産業の近代化をリードした、真の意味で大実業家といってよいでしょう。

 

とはいえ、城山三郎の『雄気堂々』を何十年前か読んで、渋沢に魅力を感じつつも、忘れていたのですが、なんとなくその講演を掲載していた見出しの書籍に興味を持って読み出したのです。

 

残念ながら、講演自体には特別、感銘を受けるほど、感性がよくなくて、その解説や、渋沢のとった行動に改めて魅力を感じたのです。銀行制度や会社制度の設立に邁進したすがたは想像できても、多くの大学への支援、教育への支援の内容や宗教への思い入れなど、知らないことばかりでした。

 

一橋大学の前身、東京高等商業学校(後に東京商科大学)の設立や継続に大変な努力を傾注されていたのです。渋沢は自ら個別の銀行、会社の経営に当たりながら、法制度を整備しつつ、個々の経営者が近代的なビジネス知識を得る必要を訴え、森有礼が創設したこの学校を支援し続けています。それは当時の実業者は維新前からの経営者で実務経験はあるものの、合理的な経営・会計・経済といった知識をもってなく、当時は商業者には高度な知識は不要との風潮がはびこる中で、懸命にこの学校の維持に働いたのです。

 

渋沢は、江戸時代の中心思想、儒学を大切にしつつ、仏教や神道、そして西欧の宗教も尊重していました。また天皇制を支持していた渋沢であっても、明治のリーダーの頂点にいた一人として、教育勅語の暗誦といった発想はなかったと思うのです。

 

子どもの教育は違うという人もいるかもしれません。私は基本的には同じだと思っています。ただ、判断能力が十分についてない時代には、特別の配慮が必要で、一方的な思想・身上を押しつけるような教育は避けるべきだと思っています。

 

また一橋大学の話しにもどりますが、東京高等商業学校の国立大学への要請を渋沢らは長年続けていたところ、国は国立大学は東京帝国大学だけでよいということで、ここに編入して商学部とする決定をしたのです。商業人としての独自教育を目指した渋沢らの期待を裏切るものでしたが、渋沢だけでなく、学生も教員もすべてが反対して、決定を覆させ、単科大学として設立が認められたのです。ここに商業人としての独立・創意を感じます。

 

そして関東大震災で大学の校舎が全壊した後、新たに選んだのが国立市です。この決定に渋沢が関与したかは分かりませんが、一橋大学の特徴が現れているようにも思うのです。現代で言えば、ハーバード・ビジネススクールや、トマ・ピケティのパリ経済学校のような位置づけでもいいのかと思うのですが、一ツ橋に校舎があったことから学生が命名した大学名という、自主独立の思想が現れているようにも思えます。そして何もない、東京の郊外、谷保村に移転し、国分寺と立川の真ん中に新たな都市をつくったので、国立という名前までつくったわけです。そして当時、西欧で普及しつつあった田園都市構想と大学とを融合させる、文教・田園都市を見事な街づくりで仕上げたのですから、一橋大学のユニークさは、渋沢の意気を十分に実現していたように思うのです。

 

一橋大学の話しばかりしていると、渋沢が商業人だから、ビジネススクールの教育に邁進していたと思われても困るので、もう一つ、彼の懐の深さを感じさせる大学への支援に触れたいと思います。

 

維新前、さらに明治に入っても、家制度の中で、女性は劣位に置かれていました。女性に教育など必要がないという風潮が一般だったと思います。その中で、渋沢は、自らそういった意識があることも自認しつつ、これからの社会で女性が高い教育を受けて、男性と伍する必要性が高いとして、日本女子大学校をはじめ多くの女子大学への物心両面の支援を行っています。その支援の金額は膨大な額です。彼の支援なくしてはいまの日本女子大学があったかどうかと思われるほどです。女子教育に対する渋沢の熱の入れ具合は半端ではないのです。渋沢は、明治の家制度、天皇制国家を前提としつつ、女性の自立、発展を支援し続けています。

 

このように渋沢の教育への支援の一端を取り上げたのは、森友学園で現れた、関係者の言動や、設立認可といった基本的な手続き、校舎用地の取引、校舎建設のそれぞれにおいて、あまりも不可解なことが起こっており、それが森友学園の教育の方針というものとも大きく乖離があるように思えることから、渋沢の高い思想と支援の行動を紹介した次第です。