170327 今を見る、異なる視点 <BS朝日 「自閉症を旅する」>を見て
今日も朝からなにかと忙しく過ごし、気がついたらもう夕方5時近く。たしか早朝は小ぶりだったようでしたが、晴れ間が見え隠れしたりしながら、終日曇り空だったようです。寒気が高いところにやってきているそうですが、人の住む世界では暖かな日和でした。とはいえヨーロッパでは突然の積雪だったようで、地球環境は北極・南極の氷がどんどん減っているわけですから、今後いつ、突然の変異が襲ってきてもおかしくない状況にあるのかもしれません。
さて、昨夜、BS朝日の「いま世界は」の番組で、シリア内戦の深刻な事態と日本の立ち位置があるシリア女性による「政権支援やめて!」という訴えを紹介しつつ、その現状の一端が取り上げられました。もう一つのテーマが本日の話題です。
これはBS朝日のウェブ情報から引用すると、
<特集・朝日新聞GLOBE連動企画「自閉症を旅する」
こだわりが強く、対人関係が苦手で適切な支援がないとパニックを起こしたり生きづらさを抱えたりすることもあるという自閉症の人。しかし、その胸の内には、魅力的な言葉や考えが詰まっている…。どんな支援があれば彼らが生きやすくなるのか?海外の事例を交え、紹介する。>というものです。
この中で、私が注目した一つは、自閉症の人からの聞き取りなどで構成された動画です。それは、自閉症の人が町の中に出ていったときに、何がどう映るか、あるいはどのようなことが人間の五感にどう響くかを、動画として編集したものとして配信され、世界中で70万人以上がフォローしていると言うことだったかと思います。
その動画を見たとき、普通の人なら、なんでもなく通り過ぎてしまうさまざまな音、色彩、臭いなどが自閉症の人にとっては攻撃的に人間の五感を襲ってしまうということを疑似体験することができました。
たとえばショッピングセンターのようなところに入ると、突然、轟音ともいえる雑多な音が耳の中を占領するのです。そして化粧品のお店では香水などが試供品として振りかけられると、その化学物質の臭気がおそらく何倍も凝縮したかのように自閉症の人には感じられるのだと思うのです。ネオンサインの点滅等もまた視覚を混乱させ、平穏に対象をみることができなくなるのではないかと思われるのです。
私たちは、さまざまな科学技術の発達の成果で、日常の中に、おそらく戦後初期まで経験したことがないほどの、異質な文明社会にどっぷりつかっているのではないかと思うことがあります。街中に出ると、人の流れがまるで猛牛が走り抜けるような勢いです。さまざまな音は、騒音規制法や条例で規制していても、基準未満であったり、低騒音だったりして、規制の網から抜け落ちますし、多様な音は自己主張や事業利益の追求のため、わが国ではとりわけ放任される傾向にあるように思います。そして多くの人はいつの間にか、順応するように聴覚も脳神経も慣れるように変わっていったのかもしれません。
臭気もそうです。電車内やエレベーター内といった密室空間ではとりわけ気になるものです。ところが、臭気を感じる個人差があったり、臭いの嗜好性にも個人差があるなどから、多様な臭気が漂っていても、多くは我慢を強いられているように思うのです。ただ、化学物質については、私が化学物質過敏症の患者と長く相談に乗ってきた立場から言えば、一般の人にとっては平気な臭気基準未満であっても(あるいはほとんど臭気を感じないレベルであっても)、敏感に体が反応し、異常事態になることがあるのです。
そして視覚は最も敏感な感覚といってもよいかもしれませんが、普通の人は嫌なものは見ない、焦点をそらすなど、見事に生き抜く選択をして生活をしているように思うのです。ところが、自閉症の人ではそのような選択が容易でない人が多いのだと思うのです。そうだとすると、あらゆる対象物が視覚を占領して、選択して対象を見ることができず、混乱に陥ることが理解できます。
この番組で紹介されていたギターリストの女性は、子ども時代、学校に通うことが出来なかったといいます。それは学校に行くと(おそらく家を出た瞬間から)、膨大な情報の渦に巻き込まれ、自分というものが存立できないほど平衡を失うのかもしれません。そのため普通の授業が終わりみんなが帰った後、先生から個人指導を受けていたそうです。理解のある先生に恵まれたのでしょう。
またある自閉症の人は会話を発することが出来ないことから、母親がその子と会話したい思いで、「会話補助アプリ」を友人の支援を得て開発し、そのアプリを使ってようやく子との会話が出来るようになりました。そのアプリは、アニメ的な人物を一場面毎登場させ、たとえば「食事をしたい」という気持ちを表すとき、それを示す画面をクリックすると、音声でその内容が発せられるのです。このような基本的な画面を多数用意して、必要な場合にアプリを通じて話すことにより、母親と、また世界と繋がるきっかけになっているようです。
そしてこの番組で最も取り上げたかったのは、取材者である太田 康夫(朝日新聞 大阪地域報道部)氏、自身が自閉症の子をもっていることから、自閉症にはさまざまな症状があり、中には天才的な記憶力や計算力を発揮させる人もいるなど、多様な才能を持つ人もいることを理解してもらいたいということであったかと思います。
自閉症スペクトラム症という、その症状の多様性を理解するための診断名を理解してもらうこともこの番組の狙いであったのかもしれません。
私がこのテーマを取り上げた趣旨は、番組の意図とは別で、自閉症の人が見ているという動画の世界です。私たちは、一見、平穏で安定した日常を送っていますが、実際は微妙なバランスの中で、綱渡りをしているのではないかと思うことがあります。
人間の細胞が60兆あるということ、それぞれが自立しているかもしれないし、依存していたり、付随的な関係にあるかもしれません。しかし、やはり細胞そのものの視点に立てば、独立した存在である可能性は否定できないように思うのです。
たとえば凶悪な殺人事件が起こると、その犯人とされる人の日常の様子や小さいときの生い立ちを探ることが行われますが、それは人というのが一つの統一的存在であることを前提にしているのではないかと思います。たしかに統合失調症などの症状が確定されていない限り、多くの人は性質や特徴、考え方が一貫していると考えられる傾向があります。
しかし、ほんとうにそういっていいのか、最近少し悩んでいます。いや以前からかもしれません。人は煩悩を持つ存在であることは誰もが認めるでしょう。それをどうコントロールするか、その程度に応じて、人格の是非や評価が下されることがあります。
日常、やさしく接していた人、挨拶をしたり礼儀正しい人が、突如、凶暴になるといったことも世の中では時折現れます。
そろそろまとめに入らないといけないのですが、私自身、考えながら書いているので、どうまとめようか悩んでいます。
自閉症の人が接する状況は、カオス的状態ではないかと思うのです。そのとき人は自分の行動を自制したりコントロールすることは困難だと思うのです。それを普段の生活では、そうできるように、常に感覚機能の中で選択を繰り返し継続してようやく、自分というものを統一的な存在として成り立たせているのではないかと思うのです。
そのとき一番有効な機能の一つは、嫌なものからエスケープするということではないかと思うのです。他方で、好みのものに選択を集中するということではないかと思うのです。そのことにより、人はさまざまな自らの性行の可能性を選択することができているのではと思ったりしています。それは自分の選択する基準の中にいれば、また選択する基準を超える自体に巻き込まれなければ、人としてようやく自立というか、統一的な存在をなんとか維持できているのではないかと、おぼろげながら愚考しています。
今日の話は、どうも自分でもよく分からないものの、自我というものが成立するのかを訪ね歩くこのブログの目的の一つでもあるので、中途半端な考えを示しましたが、いつかもう少し練り直して見たいと思っています。これでほぼ1時間の思考過程です。