たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

首相の品格 <首相「私の姿勢、深く反省」 閉会後も説明>を読んで

2017-06-20 | 政治 経済

170620 首相の品格 <首相「私の姿勢、深く反省」 閉会後も説明>を読んで

 

最後に関係ないですが、<岡山・加計学園獣医学部新設問題 首相「私の姿勢、深く反省」 閉会後も説明>の記事を少し取り上げます。

 

安倍首相の会見、総理として、自民党総裁として、その品格のなさといっちゃ失礼かもしれませんが(ご本人は品格を大事にされていると思いますので)、残念な思いです。最初に謝罪するのはいいとしても、なにか表面的にしか見えないのは偏見でしょうか。問題を起こったら、心から誠実に謝罪しないと、かえって反発を受けるのは、これまで事故や不祥事が発生したときの企業リーダーの発言・態度によってであることはリスク管理の問題として繰り返されたことですね。

 

「印象操作」といった言い方をあえて取り上げて、その反論に問題があったといった説明の仕方では、謝罪の意思はうわべだけとしか思われないのではないでしょうか。たしかに野党の追及の仕方にも問題がなかったとはいえないかもしれません。しかし、過半数、あるいは32以上の与党を要する総理総裁として、本来、余裕を持って対応できるはずですし、野党の質問の揚げ足をとってみたり、あるいは自ら印象操作といった発言までして、国会の議事進行を愚弄したのは誰でしょう。ただ、官僚が用意した資料を読むだけでは困ります。問題となっている国家戦略特区の施策自体の内容をただ読み上げるのでは国会で議論する意味がありません。野党の質問に対して真摯に答える度量と誠実さを持つべきは、日本国の首相としての識見ではないでしょうか。首相の品格の問題でもあると思うのです。

 

ま、大勢の人がそう思っていると思いますので、私がわざわざ言うこともないのですが、安部首相が官房副長官か長官にデビューした頃は、なかなか歯切れがよくて、説明も割合的確で、期待していたのですが、政権運営に至っては、第二次政権でも簡単な第一と第二の矢は放たれたのですが、第三の矢がもたついている状態で、それはがんがん一方的にやっても効果が上がるとは思いません。

 

安部首相の記者会見や、国会での答弁を見ていると、自分の意見に疑問を差し挟むような人に対しては徹底抗戦をするように見受けられ、そうなると、閣議や内閣官房では、もしかして唯我独尊状態になっていないか、不安になります。

 

この話はこの程度にして、いつの間にか2時間以上経過してしまい、7時になりそうなので、今日はこの辺で終わりとします。

 


米艦衝突(3) <米イージス艦衝突 コンテナ船水面下の部位がぶつかる?>を読んで

2017-06-20 | 安全保障

170620 米艦衝突(3) <米イージス艦衝突コンテナ船水面下の部位がぶつかる?>を読んで

 

一昨日に仮定した推論を、昨日訂正しましたが、今日また訂正しようと思い、別枠で書いています。

 

上記の記事によれば、<コンテナ船の球状船首(バルバスバウ)と呼ばれる水面下の部位がイージス艦右舷にぶつかり、イージス艦の船体に穴を開けた可能性があることが海上保安庁などへの取材で分かった。>

 

そして<イージス艦は右舷が大きく壊れたが、米海軍第7艦隊司令官のジョセフ・アーコイン中将は18日の記者会見で「衝突で(イージス艦の)右舷の水面より下の部分に大きな穴が開き、一気に水が流れ込んできた」と説明。水面下の破損が大きかったとの認識を示した。>

 

当初よりイージス艦のキール部が損傷し、沈没する恐れがあったと言われていましたので、コンテナ船が上部から乗っかる形では生じないなとはおもっていましたが、バルバスバウがキールに衝突したことまで想定していませんでした。コンテナ船の構造を知っていればすぐわかることだったのでしょうけど。

 

さて、これで少し衝突の様子が少しわかってきたように思うのです。コンテナ船の上部と下部の先端部分がイージス艦の右舷に衝突したこと、ただ、おそらくコンテナ船は衝突直前にはエンジンを切るなり、バックするようにしていたと思うので、コンテナ船の上部でも水面よりかなり高い位置以上でしか損傷が起こらなかったのだと思うのです。

 

そして、衝突後は、その衝撃で反動的な動きとなり、コンテナ船は舵のコントロールもきかず、航跡のようにふらふらとした動きになったのではないかと思うのです。

 

では衝突原因はなにかですが、いまだに追い越しか、横切りか、判別困難ではないかと思います。少なくともコンテナ船は衝突するおそれを事前に察知し、エンジン停止(その可能性はその後の蛇行から推認できるかも)などの措置をとったと思われるのです。他方で、イージス艦はどのような対処をしていたのでしょうか。右方向に航行していたと思われるコンテナ船の存在は早くからキャッチできていたと思うのです。双方の速度や進路を誤って判断して、横切ろうとしたようにも思えるのですが、ちょっとありえない推定かなと思いつつ、情報不足ですので、勝手な推論となりました。

 


技の美 <津本陽著『風流武辺』>を読みながら

2017-06-20 | 人間力

170620 技の美 <津本陽著『風流武辺』>を読みながら

 

以前は目覚めが早くても草刈りを楽しんだいましたが、最近は床の上で読書三昧です。といっても一時間程度ですが。いま読んでいるのが見出しの津本陽著『風流武辺』です。大畑才蔵研究の先達で、いろいろ会話を交わしていて、私が津本陽が『南海の竜』とか吉宗を書いた歴史小説の中で、才蔵を見事に描いていることなどを話したり、いろいろ話題が展開している中で、この書のことを紹介され、興味を示したら、いただいたのです。

 

いろいろな話題を議論したので、何に興味をもったかうっかり忘れていたのですが、折角いただいたのに読まないわけにもいかないと、最近拾い読みをしています。最初、主人公の上田宗固といっても、まったく知らない名前で、最初にぱらぱらと読んだときは、戦国時代の武士でお茶をたしなむ、織田遊楽債のような感じかなと、あまりぴんとこなかったのです。

 

しかし、読み進めていくと、これが面白いのです。身長は5尺(150cm)程度の小柄ですが、荒木村重の有岡城攻めに始まり、本能寺の変後に光秀に味方した津田信澄が支配する大阪城攻めに、また、関ヶ原では西軍として、大阪冬の陣・夏の陣では徳川方として、常に先人を切ってその生死をいとわず戦い続けて、数々の戦功を立てて、戦死しなかった希な人物ではないかと思うのです。

 

でも私の関心はそこにありませんし、いただいた方もそこに眼目があったわけではありません。彼は小兵ながら柔術的な技(小具足刈りなど)にたけていて、どんなに大きな相手に対してもひるむことなく、ねじ伏せてしまうのです。私が習った合気道もその流れの一つを受け継いでいるかもしれないことが一つの興味でした。たとえば手首の少し上の上腕の一カ所を強く指で押さえると、身動きができなくなるほど痛いのです。また、背後を完全に羽交い締めなどされても、たとえば相手の臑(すね)の下の一カ所を押さえると激痛が走り何もできなくなるのです。

 

合気道の基本では、そういた武術的なことは教えてもらえませんが、時折、流派の道場主のような人が参加するとき、そういうことを教えてくれたことがあります。創始者植芝盛平氏もまた小兵でした(写真でしか知りませんが)。二代目もそうでした。そういえば嘉納治五郎氏も小柄ですね。その小柄で腕力があまりなさそうな人が技を磨くと、美しく、人間の体の骨や筋肉、神経伝達系などについてきわめて通暁していて、あまり力をかけずに相手を術中に納めるのですね。

 

その技の見事さは、嘉納治五郎の柔道は見たことがありませんが、植芝盛平翁の場合ビデオで見たか、写真だけなのか、記憶がおぼろげですが、とても美しいのです。それも二代目もそうでした。この方には直接技をかけていただきましたので、その感触が柔らかくまたその技に美が漂っているのです。そういう美を上田宗固が身につけていたのだと思うのです。

 

で、宗固が習ったのはなんと、女性なのです。これは創作なのかはわかりませんが、これにはびっくりです。最近、女性の武将とか、武者がいたという記録があるとかないとか話題になりますし、NHKの大河ドラマは女性の武将でしたね(見ていないのでなんとも評せませんが)。合気道を本部道場で習っていたとき、残念ながらたまたまだったのかもしれませんが、私が相手する女性はそれほど技にきれがなく、高段者でも防衛目的にはあまり有効でないかもと思ってしまいました。ま、これはかなり一面的な見方でしょうね。

 

レスリングや柔道の女性選手を見ていると、まったく歯が立たないと思うのです。戦国時代であっても、そういう女性はいたと思うのです。鎌倉時代の巴御前なんかもそうではないでしょうか。

 

少し脱線しました。技に男女の差がないというのが本当だと思っています。そして技は磨けば磨くほど、美しい人の動きになると思うのです。

 

で、これで終われば、ここで上田宗固を語るまでの価値がないと思うわけです。彼は、武術に秀で、果敢に戦陣を切り開くといった、有能な武士であり、また部下を統率する能力も優れていただけではありません。

 

そのロジステックの能力が長けていたことから、城普請が見事で、秀吉以下、数々の大名が彼に依頼しているのです。まだきちんと読み切れていないので、城の名前はおいておきます。そしてその築城の名手が、今度は庭園造りの名手となったのです。

 

彼が造園したのは、関ヶ原で負けた蜂須賀の居城となった徳島城に池泉庭園を造ったのが最初でしょうか。その後、浅野幸長につかえて紀州藩に移ったとき、和歌山城(当時は若山城だったと思います)の西の丸に、上記と同様の庭園を造っています。そして御三家筆頭の徳川義直から依頼を受けて名古屋城に庭園を作っています。終焉の地となった、広島では、浅野家の国替えに同行し、御泉邸(みせんてい)という敷地約13200坪の大庭園を造っています。それが現在も広島市民の憩いの場である縮景園(しゅくけいえん)として残っています。

 

これが見事な美しさですね。広島へは仕事を含め何度も行っているのですが、素通りでした。ウェブ情報を見ると、とても素晴らしい庭園です。美の技であり、技の美でもあるのでしょう。

 

で、上田宗固は、荒っぽい血走った戦士にとどまらなかったことはこれでわかるかとおもいます。しかし、その神髄は茶人としての宗固でしょう。その見事なお手前は実際に体験できませんが、その子孫が営々と流派を受け継ぎ、見事な庭園とともに、現代に息づいているのです。

 

あまり遠出する気力がない最近ですが、こんど広島に行くチャンスがあったら、是非立ち寄ってみたいと思っています。

 

そして最後に、上田宗固は、死に際の美を堪能させてくれます。宗固は、厳島の景観美を愛し、「儂が死んだときは、この場で蛇尾にいたすがよい」と厳島の見える大野串山の小高い頂で、告げたとのこと。そして、断食をはじめてのち、棺と鉄槌をつくらせ、遺言したのです。「儂を荼毘にいたせしのち、この槌にて骨を粉といたし、早瀬の海に沈むべし」と。

 

遺族は、遺言に従い、その場所で火葬にして、骨をこなごなに砕いて、早瀬の早い流れの中で、宗固の骨を海中に撒いたのです。

 

数少ない江戸時代の散骨例かもしれません。しかし、断食20日目に息を引き取り、海中に散骨するという最後まで技の美を示しているように思うのです。享年88歳という、信じられないほど長寿の命を美しく幕を引いたように思うのです。

 

そしてその精神は、上田流和風堂として上田宗固流茶道を現代、さらに未来に向かって活かし続けるのでしょう。

 

今日は私の好きな作家の一人、津本陽氏の作品紹介(拾い読みなので失礼ではありますが)でした。この辺で終わりにします。