たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

土地所有のあり方 <全国の土地の20%が所有者不明で九州の面積上回る>などを読んで

2017-06-28 | 不動産と所有権 土地利用 建築

170628 土地所有のあり方 <全国の土地の20%が所有者不明で九州の面積上回る>などを読んで

 

夕方5時に和歌山から帰ってきて残務整理をしたら、もう6時です。帰途、少しだけ高台を走る(さらに標高の高い位置に阪和高速道が走る)国道24号線から、時折見上げるのは紀ノ川南岸に連なる峰々です。この形状がなんとも魅力的なのです。むろん北アルプスなどの山岳景観と比べることはできませんが、それなりに魅力満載です。

 

まだその魅力を文章化するだけの文才と知識がないのですが、いつか試みてみたいと思うのです。他方で、北岸の上方を走る24号線の沿道も、少し体調がいいせいか、いろいろ想像を逞しくできるものばかりです。和歌山市から岩出市くらいまでは沿道は新しい郊外型の店舗がほとんどです。ある種北米の沿道商業地に近い印象を感じますが、違うのは金属鉱物などやスクラップなどの買い取りを扱う業者が結構点在している点でしょうか。紀の川市に入った頃から、昔からの店舗や事業地がぽつぽつと残っていて、材木店や家具屋といったところがなんとか頑張っている様子が窺えます。

 

ところで、アメリカの<入国禁止令の一部容認>最高裁決定や、<子どもの貧困なお高水準>、<論点 文化財と学芸員の役割>など、取り上げたいテーマは浜の真砂のごときですが、とりあえず7時まで30分で簡潔に整理できそうな見出しの記事にしました。

 

日刊工業新聞記事は<全国の土地の20%が所有者不明で九州の面積上回る>として、<所有者不明土地問題研究会(増田寛也座長=元総務相)は26日、全国の土地の20・3%が所有者不明とする推計結果を発表した。土地面積では約410万ヘクタールに相当し、九州の面積を上回る。>と報じています。

 

410haは、農水省がずっと問題にしてきた耕作放棄地40ha10倍ですね。しかも九州の面積に相当するというのですから、その規模は真剣に受け止める必要があるでしょう。

 

ただ、その数字の根拠は明確にしておく必要があるでしょう。記事が取り上げたのは<所有者不明土地問題研究会中間整理>です。これは概要ですが、30日の詳細報告を発表するようです。

 

ともかく中間整理によれば、

<所有者不明地>の定義について、

<所有者台帳(不動産登記簿等)により、所有者が直ちに判明しない、 又は判明しても所有者に連絡がつかない土地>と規定しています。

 

で、たとえばということで、次の例を挙げています。

 

<具体例>

所有者台帳が更新されていない、台帳間の情報が異なる等の理由から、 土地の所有者の特定を直ちに行うことが難しい土地

所有者は特定できたが、所有者の所在(転出先、転居先等)が不明な土地

登記名義人が死亡しており、その相続人が多数となっている土地

所有者台帳に、全ての共有者が記載されていない共有地

 

そして上記数値を割り出したのは、一定の地域でのサンプル調査の結果を一定の方法で全国推計をだしたということです。詳細は上記中間整理がコンパクトにまとめていますので参照ください。

 

この数値をどうみるかですね。九州の面積と同じ面積が所有者不明となっているといことをです。所有権がだれに帰属するかと言うことは、近代所有権の基礎ですし、資本主義社会においては基本的な出発点の一つでしょう。でもそれがある種張り子の虎になっているおそれがあるのです。

 

そもそも制度というものを確立した絶対的なものと考えれば、このようなことは制度の根幹を揺るがすものとして大変だと言うことになります。ただ、制度というものは存外、人間が扱うものですので、そのとおりでないことが古代というか、律令制度以来、当然のように存在していましたね。公地公民といったことで戸籍に組み入れられた全国民に土地が付与され、耕作されていたという建前は、一度として確立したことがなかったのではと思うのです。

 

耕作できそうにない土地や、租庸調の負担に耐えら得ないときは、逃亡して放棄する人が少なくなかったと言われています。

 

地租改正と登記が制度化されたものの、縄のびなど、その地積が正確でないとか、境界も適当といったことは当たり前でしたが、所有権の帰属もさほど明確でない土地も相当あったのではないかと思うのです。

 

戦後、農地台帳や林地台帳、固定資産税台帳、名寄せ帳など、多くの所有権者とその土地の利用形態・面積を把握すべく、行政としては何度も繰り返し工夫を重ねてきたと思いますが、一度として正確なものとしてできあがったことがなかったのではないかと思っています。むろん多くの土地は所有権者の帰属の点ではかなり正確なものが戦前の家督相続の時代まではできあがりつつあったのかもしれません。でも戦後の共同相続制の採用も一つの要因と思いますし、林地については元々入会や共有形態など多様な所有形態が残っていたこともあり、また、農地のような所有権移転規制がなかったこともあって、混迷の中にあるように思うのです。

 

それはともかく、研究会代表の増田氏が懸念する事態<時代の風所有者不明の土地=増田寛也・元総務相>については、共感するところが多々あり、早急に対処するための制度論を検討する必要があるという点では同感です。

 

私が最近かかわっった相続では、子のいない90過ぎの方が亡くなり、諸処の事由で、兄弟もすでに他界して、甥や姪の中にも亡くなった方がいたりで、相続人にたどり着くのも大変でした。そして、子のいない高齢者が今後ますます増えていく状況では、不動産があると、現在の制度では対応に難渋することになることは明らかです。

 

30日に発表される中間整理を踏まえて早急の対応を政府は迫られていると思います。

 

もう7時を過ぎました。今日はこの辺で終わりとします。


他山の石 <グーグルに制裁金3000億円 欧州委、・・独禁法違反>を読んで

2017-06-28 | 企業活動 コンプライアンス 公正取引

170628 他山の石 <グーグルに制裁金3000億円 欧州委、・・独禁法違反>を読んで

 

いまでは誰もがインターネットの多様なサービスにアクセスが可能になり、利便性を享受しているように思います。他方で、この業界はわずかの間に急速に市場支配力が信じられないほどの勢いで増しているようです。なかなか実態がつかめないほどそのスピードに追いつかないのが規制当局の偽りのない意識ではないでしょうか。ましてや単なるエンドユーザーに過ぎない私なんかはどんな状況にあるのかは、わずかな情報の細切れでしかわかりません。

 

今日の毎日朝刊は<EU グーグルに制裁金3000億円 欧州委、過去最高額 独禁法違反>を一面で取り上げていました。

 

その内容は、<欧州連合(EU)の欧州委員会は27日、米IT大手グーグルがインターネット検索サービス市場での独占的な地位を乱用して自社の価格比較サイトに有利な操作を行ったとして、EU競争法(独占禁止法)違反で24億2000万ユーロ(約3000億円)の制裁金を科すと発表した。民間企業に対する制裁金では過去最高額となる。>

 

わが国では公正取引委員会が独禁法に基づく公正な競争政策の確保を担っていますが、過去に適用した課徴金の金額は一桁以上低いものではなかったかと思いますし、IT業界に対してはまだ発せられていないように記憶しているのですが、今日は簡単な素描ですので、いつか整理してみたいと思います。

 

グーグルの競争法違反行為の内容について、<価格比較サイトは、複数の通販サイトから情報を集めて商品価格などを比べて一括表示する。欧州委によると、同社はEU域内で2008年ごろから、検索語の関連度にかかわらず自社の「グーグル・ショッピング」を目立つ位置に示したり、競合サイトの表示を格下げしたりして自社に有利になるよう検索結果を操作した。>

 

市場において独占または寡占的支配を形成した企業としては、やりそうな手口の一つだと思いますが、消費者サイドないしグーグル検索サービスを利用している人にとっては、無意識のうち、広告媒体に洗脳されるリスクが高いでしょう。

 

グールグルの問題行動はこれにとどまりません。<欧州委はグーグルを巡り、同社の携帯端末向け基本ソフト「アンドロイド」やサイト運営者向けの広告配信サービス「グーグル・アドセンス」についても同法に違反する疑いがあるとして、それぞれ個別に調査を進めている。>とのこと。

 

EUの競争法および取り締まりの実態はよく知りませんが、たとえば少し古い情報では<EUの競争政策とは何ですか?>であるように

 

欧州委員会による制裁金額トップ5 (2009年時点)

1

インテル

米国

支配的な立場の濫用

2009年

10.6億ユーロ

2

マイクロソフト

米国

2004年3月の決定義務(本表第5位)の不履行

2009年

9億ユーロ

3

サンゴバン

フランス

自動車用ガラスカルテル

2008年

9億ユーロ

4

エーオン/GDFスエズ

独/仏

天然ガス輸入カルテル

2009年

それぞれ5.5億ユーロ

5

マイクロソフト

米国

支配的な立場の濫用

2004年

5億ユーロ

出典:『EUの規制力』第5章 日本経済評論社

と急速に市場支配力を伸ばしているIT事業者が摘発されています。

 

翻ってわが国の公取委はどうでしょう。ホームページの情報から審決例とか、過去の事例をうまく検索できていませんが(これ30分で書き上げていますので)、わが国の場合十分調査ができていないのではないかと懸念しています。ま、私の個人的な杞憂に終わればいいのですが・・・

 

そろそろ和歌山に行く時間となりました。この辺で終わりとします。


人の死に向かう心構え <激増の高齢者孤独死は「7割が男」という現実>を読んで

2017-06-28 | 人の生と死、生き方

170628 人の死に向かう心構え <激増の高齢者孤独死は「7割が男」という現実>を読んで

 

今朝はようやく梅雨らしい雨が紀ノ川沿いの当地にもやってきました。紀伊半島南端では豪雨で大変な状況が今年にはいってもあったようですが、紀伊山地の山塊は別の気象条件を作るのでしょうか。

 

ところで、梅雨に死を希望するひとはあまり聞きませんね。そんな死の時期の希望といった物騒な話はやめてと言うのかもしれませんが、西行は慕われ続けるのはさまざまな理由がありますが、その一つは桜の下での死を常々抱き続けていたからではないでしょうか。

 

桜の満開の下はいいけど、夏の盛りや凍てつく冬は嫌、まして梅雨のうっとうしい季節なんてもってのほかと内心思っている人もいるかもしれません。いや、やはり死を考えるというのは末期がんや重い心臓疾患など、重篤に至った人は別にして、普通はあまり考えないのでしょうね。

 

でも情報は次々となんらかの対応を迫っているようにも思うのです。日々さまざまの情報が発出されていますが、ときには参考にするのもどうでしょう。

 

東洋経済オンライン 激増の高齢者孤独死は「7割が男」という現実>は、<荒川 和久 :ソロ男プロジェクト・リーダー/独身研究家>という方の調査データを基にした見解です。

 

荒川氏によれば、データを示しながら<激増の高齢者孤独死は「7割が男」という現実>であり、<既婚者でも「妻が看取ってくれる」は大間違い>というのです。

 

データの解析は一応置いておいて、荒川氏の見解には頷くところがあります。むろん、相当数の人が家族に看取られることが普通かもしれませんが、とりわけ都会では(いや地方でも都会流出が一般化しているので同じ事かも)各家族、親戚関係がそれぞれ遠隔地で別の生活をしていて、家族の寄り合いも減ってくる、それが高齢化すると、と同時に、それぞれが介護家族を抱えたり、障がいのある子を抱えたり、さまざまな問題に時間の余裕がないと、家族の分断とまで行かなくても、孤独での生き方は一般化し、孤独死は自然に増えていくのかもしれません。

 

それを不幸と思うかはまた別でしょう。ただ、従来型の企業社会に生きてきた元戦士は、荒木氏の指摘のように<そんな中、妻だけに依存してきた夫が、その後、万が一妻と死別や離別してしまうと、虚無感に支配され、引きこもってしまうことも多いのです。普通の日常生活を営もうとする意欲や生活能力を喪失し、自己の健康・安全を損なうことを「セルフネグレクト」といいます。内閣府が2011年にまとめた調査では、そんな状態にある高齢者は全国で推計1万人以上いるとされています(内閣府経済社会総合研究所「セルフネグレクト状態にある高齢者に関する調査」)。>となるのもやむを得ないかもしれません。

 

それは企業家族として、家族を、地域を、あるいは社会を無視ないし軽視してきた結果でしょうから、そのままだと、セルフネグレクトは気の毒ですが自業自得かもしれません。他人や、社会、行政に文句をいう話ではないでしょう。

 

荒木氏が最後に指摘する<人は皆死にます。どういうふうに死ぬかはわかりません。重要なのは、「どう死ぬか」ではなく「どう生きるか」のほうです。未婚も既婚も関係ありません。誰もがソロになるという認識と覚悟を抱いて、若いうちから生きるうえでの自分のネットワークをつくり続けていくことが必要です。>という、とっくの昔からいいつくされてきたことは、いまより切実な問題になっているのかもしれません。

 

強いて言えば、ソロとして死を迎えないために結婚するといった考えが正鵠を得たものではないという点は、新しい切り口かもしれません。

 

既婚者でもお互いがよりよいパートナーとして最後を迎えることができるのは、たとえば、それぞれが独自に、あるいは共同して、さまざまなネットワークとつながり、現代的なさまざまな媒体を通して空間的・垂直的な共同体を形成できている人ほど、ソロの不安なんかは雲散霧消するのではないでしょうか。

 

他方で、荒木氏の言葉とは違った意味で、人は空海の言うように、「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」ではないかと思うので、そこに至る心構え、人生の処し方を、できるだけ早い段階から、生活の有り様を考えていく必要があると思うのが私の考えです。


怒りの処し方と人格 <豊田議員 ・・細田氏「暴言、原因は高速逆走」>を読んで

2017-06-28 | 人間力

170628 怒りの処し方と人格 <豊田議員 ・・細田氏「暴言、原因は高速逆走」>を読んで

 

今朝は目覚めが悪く、雨音を遠くでぼんやりと感じるようになり、目覚めました。

 

降る音や耳もすう成る梅の雨 芭蕉 「続山の井」

 

なぜ「梅の」雨なんでしょうかね。文才のない身にはただ、瓦屋根と白壁土蔵が夜話かな雨に打たれる様子に、ただ感動です。そしていろいろな花や緑がとても鮮やかで、雨の季節というか、雨に打たれる景観美を堪能できる幸せを感じます。

 

ところで、毎日記事・ウェブ情報その他を見ると、なんか釈然としない気分になり、他方で取り上げたくなる記事もあまり多すぎて、さてどれからはじめてどこまで取り上げるか、今日は午後和歌山行きなのと、いろいろ相談事項が溜まりつつあるので、その範囲で、かんけつに、優先順位もなく書けるだけ書いてみようかと思います。

 

これが一番にとりあげる問題といった優先性はないのですが、とりあえず、<豊田真由子衆院議員自民・細田氏「暴言、原因は高速逆走」>での細田氏の見解は、釈然としませんでした。

 

むろん最近の、与党議員や昨日でした稲田防衛省の発言など、次々と噴出するマグマのような言動は問題だと思いますが、すぐに発言をもんだいにして、その辞職や選任責任追及を求めるだけの議論が横行するのもどうかと思っています。

 

とはいえ、豊田議員の発言は衆議院議員の人格、品格にも疑問を呈するような問題ですので、その釈明について派閥の主である細田氏の立場もわかりますが、疑問を感じるので一言。

 

<自民党の細田博之総務会長は27日の記者会見で、政策秘書に対する暴行問題で離党届を提出した豊田真由子衆院議員が「高速道路の逆走が原因」と語っていることを明らかにした。>うえ、<細田氏によると、秘書が豊田氏を乗せて高速道路を運転中に出口を間違え、逆走しようとしたのが発端。

 「人の命をなんだと思っているんだ。高速道路を逆走したら人は死ぬじゃないか」と怒った豊田氏に秘書が「すいません」と謝ったため、「人が死んでもすいませんで済むのか」とさらに詰問したという。>

 

事件の断片的な内容で問題の責任を云々するのはどうかと思いますが、たしかに録音テープが事件の発端から最後まで継ぎ接ぎなく再生されているのかわかりません。秘書が、あるいは発表した人が適当に編集したものかもしれません。そういう点は今後検討すべきとしても、細田氏のように秘書の逆走が発端だというのも、弁解としてはあまり説得力を感じないばかりか、かえって疑問を抱きます。

 

この発言を聞いて、映画「夜霧のマンハッタン」(原題:Legal Eagles)の一場面をおもいだしました。ロバートレッドフォード主演の検事補が、デブラ・ウィンガーが演じる画家の娘で弁護士を助手席に乗せて、高級絵画窃盗事件に関係する人物を車で追尾していたときだったと思いますが、デブラがあれこれ横で車の運転にちゃちゃをいれるんですね。たまりかねたロバートが怒って自分で運転しろというのです。

 

だれでも経験があると思いますが、高層道路の降り口を間違ったり、信号で曲がるべきところを間違って進行したりといったことは時折あることですが、そのとき同乗者から言葉で言われたり、嫌な態度をされれば、気分はいいものではありません。レッドフォードとウィンガーの場合は同等の立場ですから、お互いまだ議論ができます。

 

豊田議員と政策秘書の場合は、普通は反論できない立場でしょう。あのテープに撮られた言動、立て続けに人格攻撃をする態度、旋律を覚えるものです。むろん高速道路を逆行するといった危険きわまりない運転をした秘書に問題はあります。でも普通では、高速道路の降り口を間違えたら、次の降り口で降りればいいのですから、あえて危険な選択をするとは考えにくいのです。その適切な判断すらできないほど日常的に追い込まれていた可能性を感じるのです。

 

電通の優秀な女性の長時間労働というパワハラの結果として自死に陥った例、研修医として月間200時間に近い過重労働を強いられていた人の自死など、まともな判断ができない状況に追い込んでいた疑いを抱かざるを得ないのです。それが晴れないと、細田氏の見解は上っ面だけ見て本派閥議員と秘書との関係を糊塗することに荷担しているとの疑いを払拭できないように思います。

 

上司的立場、監督的立場の人間の発言は、とりわけ注意が必要です。使われる側の政策秘書の捨て身の一撃すら、なかったかのようにする危険があります。それは内部情報通報制度など、民主制やコンプライアンスといった制度を生きた効果的なものにするには、是非ともその充実が必要なのに、安易に他方当事者の意見の代弁という形で説明するのは疑問があります。

 

この件は、まだ続くと思いますので、また取り上げたいと思います。