170629 障害者の立場に立っているか <記者の目 東京五輪・パラリンピックに向け>などを読んで
今日の午後は、ある事業者の総会に出席、事務局を支援する立場でいろいろ解説したため、多少疲れてしまいました。決算の説明の仕方、事業説明など、事務局としては一生懸命準備して財務諸表の内容に従って説明しようとしているのでしょうけど、参加している人はどれだけ理解できるか、悩むところです。
渋沢氏が西欧流の民主的組織を導入したとき、大変苦労したと思うのです。わが国のムラにも一定の民主的な決定システムがすでに一定程度確立していたと思います。ただ、西欧流の会計制度を含め意思決定のあり方などは、西欧的民主主義の手続きを知らない多くは、形だけ手続きを踏んでも理解不能だったと思います。
渋沢氏は、一橋大学や日本女子大学など多くの大学の創設にも関わっていますが、男女を問わず理解して物事を合理的に、実酒的に決定することを学ぶ場を用意したのだと思います。
さて、会社制度を含め多くの民主的決定による組織ができましたが、はたして今日に至っても渋沢氏が理想とした状態にはほど遠い印象を感じています。その一助にでもと今日は少し出しゃばりましたが、道は遠いですね。渋沢氏が家康の遺訓を孔子の論語から援用したとみていますが、ほんとそう思ってしまいます。
さて、東芝とWDのことを書き終えたら、もう6時。今日はこれでおしまいと思いつつ、なんとなく気になっている記事をつい取り上げてみたくなりました。
毎日朝刊<記者の目東京五輪・パラリンピックに向け=飯山太郎(東京運動部)>は、するどく現在の東京五輪・パラリンピックが抱えている問題の重要な一つを指摘していると思います。障がい者はいろいろな障がいをもっています。クルマ椅子での移動が可能な方もいるでしょうが、目や耳に障がいがあったり、知的障がいの方もいます。すべてに対応が求められています。
ただ、クルマ椅子席は対応としてはわかりやすいですね。私も東京弁護士会のチャリティーコンサート委員を長くやっていた頃、日比谷公会堂を使って2000人近くの参加者がある事業を毎年従事していました。そのとき思ったのですが、クルマ椅子席がありますが、たしか数席分くらいでしたか。多くの場合空席だった記憶です。もう四半世紀近く前でしたので、割合早い取り組みでしたが、はたしてその広報の仕方、席数など、障がい者のだれもが気軽に入れる体制だったかというと、振り返ると疑問を感じています。
さてそれから四半世紀を超えた、しかも国家的事業と言ってよい東京五輪・パラリンピックはというと、記事によれば<五輪会場になる座席が常設された既存施設の8割、パラ会場は全てが大会組織委のバリアフリー化の指針を満たしていない実態だった。>
ではその指針はというと、<五輪会場の場合は総座席数の0・75%、パラ会場は1~1・2%の車いす席を設けるよう求めている。>と決して高い基準ではないと思います。
しかも関係者のリアルボイスでは<障害者スポーツの先進地で、スポーツの普及を担う振興財団が「建前」ではなく、あえて波紋を呼びかねない「本音」を回答した。その背景には、人口の多い首都圏でさえも車いす席が十分に利用されていない現実がある。首都圏にある五輪会場の関係者は「相当数の仮設の車いす席もあるが、仮設が必要になるほど車いす利用者が来場したことはない」と話す。>というのです。
さらに<宮城は東日本大震災からの復興という課題も抱えている。仮設の車いす席の整備費は決して安くない。財団の担当者は「震災復興もある中、利用されないかもしれない車いす席に公金を使う必要があるのか。一石を投じたかった」と真意を明かした。>とまさにこの事業の意義自体が問われているように思うのです。
飯山記者の熱い思い、<06年に施行されたバリアフリー法は、障害者らの社会的弱者が自立した日常生活や社会生活ができるよう、道路や建物の段差などの解消をうたっている。同法にも、車いす席の割合が定められていないなどの課題はある。それでも私は、法の精神にのっとって、五輪・パラリンピックを契機に、スポーツ施設だけでなく、社会全体のバリアフリー化を進めるべきだと考える。
多様な人々の活躍に不可欠
その理想の姿が、64年東京パラリンピックの車いすバスケやアーチェリーに出場した近藤秀夫さん(82)が提唱する「クルマ社会」だ。モータリゼーションの「車社会」のことではない。車いすはもちろん、荷物を運ぶ台車やスーツケースの下につくキャスターなど小さい「クルマ」でも、街や職場などを自由に行き来できる「社会基盤」が整えられた社会だ。>はこれからでも間に合う対応ではないでしょうか。
私自身、ある障がい者の事件を担当したことがあります。彼は、交通事故により頸髄損傷を受け、手足の機能不全で身体障害等級 1 級の重篤な症状を負ったため、クルマ椅子での移動しかできません。でも彼はリハビリで、自分で特殊改造した自動車を運転することもできます(ただしハンドル操作が自由にできないため狭いカーブ道などは通れないなど当然制約はあります)。手も不自由ですが、なんとかしてPCも操作でき、頑張っています。
私が引き受けた仕事は、彼のために新築された家が彼の障がいに対して適切な配慮を欠いていたという事から、建築瑕疵訴訟を提起したのです。床面なども普通だと気づかないのですが、ちょっとした斜面があると、とてもクルマ椅子では安定しないのですが、それが法律上の瑕疵にあたるかというと、従来の障がい者に対する指針でも難しい状況でした。あるいはドアも少し不安定な据え付けですが、普通の人なら、それに対応できるのですが、手が不自由な彼はそのドアの開閉ができないのです。
障がい者への対応というのは、それぞれの障がいの程度・内容に応じて異なります。クルマ椅子を使う人でも決して同じでありません。そういう繊細な対応が求められるのです。クルマ椅子席を余裕を持って用意することはもちろん大事です。ただ、それだけでなく、そこへのアプローチについて、数々の配慮が必要だと思います。そういうことに目を向けることがほんとに障がい者とともに生きる社会であり、心優しさを、それぞれが身につけることになるのではないでしょうか。
優しさとは、相手の立場に立ち、その微細な問題に通暁して、初めて心づくしができるのではないでしょうか、それが優しさというものではないでしょうか。
私が担当した事件は、相手方と和解して、床のフラット化など一定の改善が達せられました。力不足で十分とはとてもいえませんが、少しでも彼の生活がよくなったことと思っています。
このような事態は、多くの人が障がい者について無自覚であったり、パターン的な見方をしていることから、生じることが多いと思います。
東京五輪・パラリンピックで大勢の多様な障がい者が会場に来られたとしたら、私たち自身がより多く学ぶことができ、優しさを深めることができると思います。飯山記者の指摘は時宜にかなったものです。
ところで、昨日の毎日夕刊記事<バニラ・エア車椅子客、自力でタラップ上る…昇降機なく>は、いくら格安航空会社とはいえ、スタッフの意識・対応は節度を逸脱しています。人間性を疑いたくなります。
<5日に奄美から関空行き航空機に搭乗する際、応対した空港職員から「車椅子を担いで降りるのは(バニラ・エアでは)違反だった」と言われた。往路同様、知人が木島さんを車椅子ごと持ち上げてタラップを上ろうとすると制止され、木島さんは車椅子を降りてタラップを1段ずつはうように、2~3分かけて上ったという。>
その姿を想像すると涙が出そうになります。そこまでルールのために鬼になれる、金のためなら障がいを無視できる、恥ずかしいばかりです。
私自身、成年後見など仕事で障がいのある方と接してきましたが、ほんとに心を尽くしてきたかと言われると、自信がありません。でもこういうことは無視できません。つい感情的になったかもしれませんが、今日触れておきたいと思ったのです。
7時になりました。今日はこの辺で終わりにします。