たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

企業統合と公正取引 <統合見通せず、公取委が難色 地銀再編かすむ針路>を読んで

2017-02-23 | 企業活動 コンプライアンス 公正取引

170223 企業統合と公正取引 <統合見通せず、公取委が難色 地銀再編かすむ針路>を読んで

 

今朝は少し生暖かく感じるような雨脚が間断に続きました。和泉山系を横切る薄雲も浮浪雲も素早い動きです。動と静、そこに何やら調和を感じてしまうのはただの個人的な感傷かもしれません。

 

ようやく午前中からの仕事も一段落して、さてブログのテーマはと考えたのですが、なかなか気乗りしないのです。マスコミが追っかけしているいろいろの話題も尽きませんが、今日は少し遠慮しておこうかと思い、普段あまり関心を抱かないテーマを取り上げてみようかと、見出しの記事などを踏まえながら、どうなるかまったく見当つきませんが、書き出してみました。

 

私自身、独禁法といったものについて、40年以上前には結構関心を持っていました。実際、法律事務所を探す時も、公取委の審判事件などを扱っている事務所を訪問して、ほぼ決まっていたのですが、最終的な段階になり、当時とすればあまりに特異な分野なので、それでいいか迷い、結局、断念して、普通の事務所に就職してしまい、その後独禁法が問題となるような事件は数件程度扱ったくらいで、まったくの素人状態です。

 

ブログを書くようになり、新聞をよく読むようになったせいか、あらゆる記事が目に飛び込んできます。そして最近、結構、企業統合の話題が多いなと思っていたら、たまたま今朝は<核燃料 今春統合を断念…日立・東芝・三菱重工>が取り上げられ、そういえばと思い、最近のを少しフォローすると、昨日は<ふくおかFG・十八銀 統合見通せず 高シェア、公取委が難色 地銀再編かすむ針路>、一昨日は<関西3地銀 低金利で収益悪化 統合検討、系列超え再編へ>と連続して取り上げられていました。

 

で、これをどう考えるかですが、企業統合の動きの背景と統合のメリット、デメリットについて、自由な取引競争、取引の公正の視点から、ほとんど資料に当たらずに、私なり一応の事実認識と適当な理解で、書いてみようかと思っています。こういったことは専門家や学者はやりませんが、自由なブログですので、許されるかなと勝手に思っています。

 

とりあえずは、上記にとりあげた核燃料事業の統合と銀行の統合ですが、前者は簡単に触れて、主に後者について考えてみたいと思います。

 

核燃料事業の統合自体は、福島第一原発事故の影響で原発事業が世界中で稼働が停止したり、新規事業が進まなかったりで、当然、核燃料への需要が減少する一方ではないかとおもいます。需要が少ない時に価格競争することも、多くの事業所を配置しておくことも、コスト的に成り立たないでしょうから、統合して、狭い日本の市場内で競争するのを避け、海外市場を視野に入れる一方、事業所・人員などを削減してコストカットするという考え方は経済的には理解しやすいのではと思うのです。

 

しかし、興味深いのは、核燃料事業を担っているのは日立、東芝、三菱重工の3社がそれぞれ海外の原子力事業会社との合弁子会社であり、その本体自体、いずれも少なくとも原発事業そのもので多額の損失を出している状況で、なんとも見通しが暗い印象をぬぐえません。公取委が統合審査に慎重になっている理由はわかりませんが、三社が統合すれば市場支配力は100%になることは必至でしょうから、その実質的な取引制限をいかに問題解消措置で解消ないし改善できるかでしょう(たとえば新日鉄住金のケース)。それを提示できるか、経済的にも、当事者3社自体の足並みも経済的苦境のなかで簡単にはいかないのでしょう。

 

日本の原発事業を担ってきた、この3社がいま抱えている問題を開示して、根本的な改善策を示さないと、核燃料事業の統合といった小手先では対応できない状況にあるのではと懸念しています。といっても私は脱原発派ですので、最終処分までのきちんとした工程を明らかにしたうえで、事業改善をするのでなければ、すべての原発事業について撤退する方向転換が必要となると考えています。

 

次の地方銀行の統合の話です。これはある意味、地方ではたいてい取引先が地銀ですので(近くに都市銀行がない!)、今後どうなるかはより身近に感じるかもしれません。

 

関連記事を見ると、すでに関東や、九州、四国などで、すごい勢いで統合化が進んでいるのですね。記事で指摘されているように、リーマンショックによる国際的な金融取引規制が大きな引き金かもしれません。また日銀のゼロ金利政策で、多くの地銀が金利収益が減少する一方とも言われています。そして企業はというと、一部大手上場企業は事業業績を伸ばしているようですが、地銀が相手にするような中小零細企業の多くは青色吐息の状態ではないでしょうか。低利であっても借りて事業拡大するだけの先見性?とか、見通しがたたないのかもしれません。

 

しかし、それは従来の生産性の低い、事業採算性を悪い状態で、昔ながらの取引慣行で社会的に継続が容認されてきた企業が多いかもしれません。どのくらいの企業が、みずから管理会計をしっかりたてて、事業採算性を図っているのか、それを貸し付け審査でしっかりチェックできている地銀がどのくらいあるのか、そこが問題ではないかと思っています。金融庁も従来の、保証人や担保に依存する貸付審査の在り方から、企業の将来的な事業採算性を見通す能力を地銀に求めていますが、実態はさほど変わらない状況にあることが懸念されているように思います。

 

というのは、地銀の過当競争というのは、単に低利競争に走っているということですから、そこには本来金融機関に求められる貸付先企業の事業能力を把握して貸し付けるという姿からは大きく隔離しているからです。

 

それが企業統合によって、店舗や人員を合理化するだけでは、健全な融資の拡大、将来性のある企業への支援といった金融機関としての期待される役割を果たさないことになりかねません。

 

他方で、地銀の企業統合が進む中で、公取委が審査を延期して慎重な姿勢を示しているのは、金融庁の懸念とは別の競争制限や公正な取引の確保の視点だと思われますが、ふくおかFGと十八銀といっても、初めて聞く名前ですし、九州地区の市場状態もまったくわかりませんので、コメントは避けます。ただ、市場の範囲をどのように設定するのかしりませんが、メガバンクもあるでしょうし、市場支配力が問題になるような状況があるのか不思議な気がしますが、それは素人の考えで、公取委の目から見ると、地銀特有の市場分野があって、その支配力が問題なんでしょうね。

 

さてここまで一時間くらいで書いてきて、なにを問題にしようとしたのか、まだクリアになってきませんが、競争制限や不公正な取引は、いわゆる寡占企業がその市場支配力を通じて有利な立場で行うものですが、その結果、取引の相手方、最終的には消費者に不利益な結果をもたらすことに問題があるのだと思います。で、わが国の地銀を見ると、金融規制の縛りも要因かもしれませんが、自由な競争状態とはいえないように見えてくるのです。より取引先、消費者に、便利で安価で安全なサービスを提供するにあたり、よりサービスの質・量の向上というか、抜本的な改革が求められているように思うのです。

 

それは企業統合して、貸付額や預金量が増大するといった単なる量の拡大では、この分野ではあまり規模の利益を発揮しないと思うのです。サービスとは何か、私も考えたいですが、なにか本質的なものが足りないと感じているのですが、そういう競争をしっかりとやる体質改善を期待したいと思っています。

 

やはり内容のない話になってしまいました。渋沢栄一が銀行、企業など資本主義の基本を作ったとき、その理想とした考えは現在の銀行実務に生かされているのか少々疑念を抱きます。

 

ウィキペディア(渋沢栄一)によると、その道徳経済合一説は、私などの理解の及ぶものではないですが、民法的に言えば、信義誠実を第一とするに近いものかと勝手に思っています。

 

<富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。>とか、

 

<事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。>とか、

 

いずれも、「道理」を基本とするわけですが、私流に解釈すれば、信義をもって誠実に事に当たることが最も肝要と言われているのでは考えます。そして地銀のサービス、あり方に戻れば、統合して大きくなることは無論あくまで手段であって、そこにより信義・誠実なサービスの高度化がなされなければ、無益な拡張論にすぎないと思う次第です。

 

 


土地利用の来歴と処分の公正さ <大阪・豊中の国有地売却8億円減額、根拠示さず>を読んで

2017-02-22 | 土壌汚染

170222 土地利用の来歴と処分の公正さ <大阪・豊中の国有地売却 8億円減額、根拠示さず>を読んで

 

今朝もかなりの寒さ、痺れる感じで、温度はマイナス5度でした。温度計自体はそれほど信頼していませんが、体は十分冷え込みを感じます。空は晴れ渡り、旭日の朱色の輝きが紀伊山脈の峰々の隙間から強く差し込んできます。

 

さて今日は午後から法律相談で、それまでに仕事を仕上げるには少し時間が足りず、ブログを書き始めようかと思っています。いろいろなニュースや毎日記事を見ながら、あれこれ考えつつ、先日も取り上げた見出しのテーマ、ちょっと重要な点を見落としていたことが気になっていましたので、これをとりあげることにしました。

 

毎日記事では、<小学校建設のため、学校法人「森友学園」(大阪市淀川区)に売却された大阪府豊中市の国有地を巡る問題で、民進党議員の調査チームが21日、売却に関わった近畿財務局と大阪航空局への聞き取り調査をした。議員は、売買価格の大幅な減額要因となった地下ごみの撤去費用約8億円の根拠を追及。国側は「適正な算定で売却した」としたものの、あいまいな説明に終始した。>としています。

 

その調査でも、ごみの撤去費約8億円を算定した具体的な根拠については、<みが出た場所や深さなどの詳しい確認方法は明言しなかった。>と疑問が解明されないままとなっています。

 

他方で、国は売却前に地価調査を行っており、その結果を踏まえて、<この土地には売却前の国の調査(2009~12年)で、ヒ素や鉛による土壌汚染と地下ごみがあった。学園側は土地を取得する前の借地契約の段階で、いったん撤去費約1億3200万円を負担。後に国が支払ったことが分かった。>という経過を一旦とったということです。

 

で、私が気になっていたのは、国が元々、どのような条件で当該土地を購入したか、そのときの土地利用はどうだったのか、地下調査が行われたのか、適正な価格で買い受けたのかといった問題です。

 

民衆党福島伸享議員の<豊中市野田町の国有地(8,770 ㎡)売却をめぐる経緯>(以下「豊中資料」と略称します)というファイルが偶然、ウェブ上で見つかりましたが、これによると、昭和49年(1974年)3年以降に、騒音対策区域の指定を受けて、住民の求めに応じて土地の買い入れを行う中で、当該土地も購入したとのこと。

 

当時は、むろん土壌汚染対策法といった規制は想定されていない頃ですが、すでに土壌汚染問題は首都圏をはじめ主要都市では発生していました。78年にアメリカに激震が起こったラブキャナル事件ではスーパーファンド法など一連の強力な土壌汚染対策を含む廃棄物法制が成立しましたが、わが国ではその後も長い間、せいぜい共同命令といった政令でお茶を濁す土壌汚染対策で、放置されてきた大きな負の遺産が残っています。

 

たとえば、国が土地購入を開始した前年の昭和48年に東京都が日本化学工業(株)から買収した江東区大島9丁目の都営地下鉄用地及び市街地再開発用地で大量のクロム鉱さい埋め立てが判明したことを発端として、長年にわたり六価クロムによる土壌汚染問題が続きました。また、前に指摘した川崎市鷺宮のマンション敷地での土壌汚染事件も、元々の発端は東京オリンピックの建設ラッシュやその後の再開発の際に発生した廃棄物が大量に周辺に不法投棄された氷山の一角です。

 

つまり、本来、土地購入に当たり、国は適切な地下調査を行い、汚染処理の必要性などを吟味して、価格を算定し、購入すべきであったのに、そうした形跡は見当たらないようです。そして上記の豊中資料によれば、平成21年から24年の間に調査を行ったところ、鉛、ヒ素、廃材、コンクリート殻などの地下埋設物が発覚したと言うことで、それは購入時に調査しておけば売主の責任として対応できた可能性があったのです。換言すれば、国としては、そういった財産管理上の問題をクローズアップしたくないという意識がなかったといえるか疑問を感じたのです。

 

そしてもう一つは、上記の鉛・ヒ素は土壌汚染物質ともいえる一方、自然由来のものかもしれません。その検出濃度などデータが明らかでなく、他の廃材などとの関係性も不明です。少なくとも、土壌汚染防止法上、一定の有害物質濃度であれば必要とされる周辺井戸などの調査が行われたといった情報は出されていないようですので、問題にするほどの有害性はなかった可能性が高いと思われます。

 

そもそも元の土地利用が明らかにされていないので、発生源も分かりません。少なくとも平成21年以降に調査したのですから、土壌汚染対策法上の調査義務によるかは別として、国の財産管理として、どのような調査を行ったか、またその調査データは開示されるべきでしょう。その内容次第で、どの程度の汚染対策が必要か、また土地利用としてはどのようなものが適切かが判断されてしかるべきだと思います。

 

その場合、小学校用地として適切かも、十分検討した上で、売買ないし貸付の対象として妥当か、どのように判断したかが問われるべきです。上記程度の廃棄物や土壌汚染物質であれば、公共用のビル建設などであれば、その廃棄処理といっても撤去処分までする必要がなかった可能性があるでしょう。他方で、学校用地であれば校庭など土壌汚染対策が基準内はもちろん不安を払拭できる配慮も必要でしょうから、豊洲問題まで厳正でなくても、相当な汚染処理が必要となるでしょう。そのような配慮が売却に当たって検討されたのか疑念が残ります。

 

これらの問題とは別に、国有地の売却の原則は<国有地の管理処分手続きの原則>原則として一般競争入札によることとされています(会計法第29条の3第1項)。例外は地方公共団体への売却のような場合です。今回の売却は、当初は定期借地権設定で、すぐに売却に変更となっていますが、一般競争入札ではなかったようです。なぜ民間の学校法人に、しかもこのような異例の措置を講じたかも疑問が提示されています。

 

もう一つ、この学校法人の代表者は、それまで幼稚園を経営していて、そこでは教育勅語を全員に唱和させているということや、憲法改正運動を推し進める組織の役員をしているとかで有名だそうです。

 

<教育勅語>それ自体は、以下の通り明治天皇のお言葉として、それなりに格調もあり、内容も異論は理解できるものの、それなりの価値を有するものと、むろん批判の対象としても学習する意味があると、私自身は思っています。それを個々が学習することはもちろん問題ないですし、学校の精神・意図として、適切な段階で適切な方法で行うことも、教育の自由の一要素ではないかと思います。以下<教育勅語とその精神>から引用します。

 

教育ニ関スル勅語

 

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ

我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス

爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風を顕彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス

朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 

明治二十三年十月三十日

御名 御璽

 

現代訳も上記のウェブサイトにありますので、関心ある方はのぞいてください。

 

で、幼稚園児にこの教育勅語を唱和させることが妥当かとなると、私自身は疑問を感じますが、それもそういう教育を受けることを求める両親がいれば、それも教育を受けさせる自由、権利の一つかと思います。ただ、たまたまTV放送で見た学校代表者の発言、その挙動、姿勢は、とても教育勅語が理想とするような人物とは思えませんでした(これは偏見かもしれませんが、瞬間的な感想です)。

 

そのTV放映ですが、たしか韓国人の子息が入園していて、その子に対して先生も他の園児も差別的態度をとり、その子が園を止めざるを得なくなったという事実について取材を受けて、代表者の籠池氏は当然のことだという顔で、韓国人らへの蔑視の姿勢をあからさまにする態度を露骨に示していましたが、これが教育者かと思い、驚きを禁じ得ません。と同時に、このような軽い姿勢をとる人が問題の法人をほんとうに運営しているのだろうか、影に誰かがいるんではないかと感じてしまいました。毎日の<理の眼 差別者に教育の資格なし>でもの差別態度などについて、より鋭く問題を指摘していました。

 

明治天皇に対する私の狭い歴史感では、韓国併合を含め他国への侵略的な行為について、批判的であったと理解しています。少なくとも韓国人を蔑視したりするような、差別的な思想は持っていなかったのではないかと考えています。この理解が誤りであれば、その点はいずれ検討したいと思います。

 

ちょっとこの学校法人の代表者の話を土地売買の適正さの問題に付け加えたのは、このような他国民との平和的共存を図るべき憲法秩序の元で、とりわけ日韓の共存を図ることが喫緊の課題であるのに、このような代表者が経営指導する学校に、疑惑のある土地売却をすること自体、公正さに疑念を抱かざるを得ないだけでなく、あるべき国有地の財産処理といえるかはなはだ疑問を感じてしまいます。

 

そしてこの学校法人の名誉校長に安倍首相の昭恵夫人がなっていることも、ファーストレディーとして、憂慮される事態ではないかと懸念します。神道を教えることもそれ自体は結構なことだと思います。しかし、代表者の上記言動を見てしまうと、教育者としてふさわしいか、また、その代表者について、<籠池先生の教育に対する熱き想いに感銘を受け>、名誉校長を引き受けたというのですから、余計、驚きです。昭恵夫人は、代表者の差別的言動を知った上、これを是認して、就任し、現在もその地位にあるのだとすると、安倍夫妻、それぞれの対応に疑問を感じざるを得ません。

 

安倍首相は、国会の質疑で、この土地売買について、関与があれば辞任するといっていますが、妻の名誉校長就任自体が、果たして今回の土地売却に影響がなかったといえるか疑問を感じます。これもまた李下に冠を正さず、必要があるように思うのです。

 

安倍首相は、世界のリーダーの中で、唯一か、数少ない、破天荒なトランプ氏と肌が合うようです。トランプ氏の差別的言動にとどまらない、それを実践する各種の大統領令への署名は、世界中に差別的取扱を是認するかのような風潮を醸し出しているともいえます。そのようなトランプ氏と同じような態度を、この学校法人への土地売買をめぐって、無意識にとってきたようにさえ思えるのです。

 

安倍首相は、土地売買の適正さ(買主の選択、貸付・売買の選択・価格の設定・汚染処理費用の算定など)といった問題に限って、国会答弁していますが、仮にこの学校代表者の差別的言動を承知しつつ、それを黙認するような姿勢であるなら、トランプ氏の入国禁止令への対応以上に、彼の差別感が顕在化したと糾弾されてもやむを得ないかもしれません。

 

私は、一国のリーダーとしての誇り、自負を持つ人物として、安倍首相にはそのような差別感や差別意識がないと信じたいですが、その期待を裏切らない態度を明確に示してもらいたいものです。


株式会社と機関投資家 <議決権行使、機関投資家に開示圧力 「なれ合い断つ」金融庁議論>を読んで

2017-02-21 | 企業運営のあり方

170221 株式会社と機関投資家 <議決権行使、機関投資家に開示圧力 「なれ合い断つ」金融庁議論>を読んで

 

今日は北風が冷たく、また冬に舞い戻った感でした。和泉山脈は冠雪でしょうか白っぽい姿、風がどっちから吹いてくるか、ただ寒い印象と、和泉山脈の冠雪のような様子に、北風だったと、今思っています。

 

それはともかく終日いくつかの事件の書類書きに追われて、来客との対応もあり、業務時間終了の時間になってようやく書く余裕ができました。久しぶりに残業?して、この千日回峰行ならぬ千日ブログを休まず続けようかと、少し躊躇しつつ、書き始めています。

 

テーマはとしばらく新聞記事やウェブ情報を見たのですが、どうも書く気分にならない事件・情報ばかりで、つい見出しの記事に、以前から気になっていたことと関係して、少し書いてみようかと思い、ざっと適当にウェブ情報を集めて、さてどう書いていこうか、また歩きながらというか、書きながら、適当な思いを綴るしかないな、とため息まじりにタイピングしています。

 

株主総会の形骸化論は、昔ほど言われなくなりましたが、それでもぱっと関連記事を見ると、昨年の総会開催日ころの話題は、その集中割合が激減しているというニュースであって、その総会での議題や議事が充実しているかといった話題はないに等しい状態で、悲しい限りです。たとえば毎日記事では<進む分散化 29日ピーク、集中率32%で最低>といったことです。

 

という私自身、株主総会に関心を抱かなくなって20年以上経つので、なぜわざわざブログの話題にするのか、自分でも不思議です。

 

どうも気になることがいくつかあり、素人ながら、全体像が怪しい雲行きを感じるのです。たとえば、たしかに現在、株価は上昇気流にあります。アベノミックスの成果という見方が大勢かもしれません。さらにトランプ効果といったことも好影響かもしれません。

 

そして、株主総会や会社自体の健全性がよくなったかと言われると、少しはよくなったと思うし、コンプライアンスやガバナンス、社外役員制などさまざまな制度化、法整備も相当進んだことは確かでしょう。

 

しかし、会計不正は大胆に行われ、一体、この間、どのくらいの企業が問題になったか、そのたびに第三者委員会を設置して調査・勧告等が行われてきましたが、一向に改善されない実態はあちこちに見られ、表ざたになったのは氷山の一角に過ぎないと思わざるを得ないのです。

 

会計不正だけでなく、事業上の不正もあります。そういった問題を監督したり、是正する仕組みが出来上がっているはずなのに、機能していないのです。

 

こういった前置きを前提に、今回は毎日記事にある機関投資家の問題と取り上げたいと思っています。そこでは主に、<生命保険会社や信託銀行など、顧客のお金を預かって運用する機関投資家に対し、株主総会での議決権行使の内容を開示するよう求める圧力が強まっている。>として、従来からの機関投資家が対象となって、金融庁も経産省も議論しているように思うのです。むろんこれら従来からのいわゆる専門的な機関投資家こそ、しっかりステークホルダーとして、株主総会の在り方、ひいては経営陣の経営姿勢を問うことを求めること自体は、方向性として妥当だと思います。

 

しかし、そこで問題にしている議決権行使について、議案への対応の開示を求めるといった程度ですら、その専門的な機関投資家は拒否反応を示していること自体、経営を適正に監督する役割を果たすといった期待をもてないと思わざるを得ません。

 

総会自体が活発なときが人事案について紛糾しているような場合で、むろんそこには経営上の問題がクローズアップされることと関係することは確かですが、経営上の問題はそれ以外にも多様な議案の中に現れるわけですので、さまざまな議案について、適切に議論され、採否にどう対応したかは、機関投資家としての重要な役割だと考えますが、そういう実態は現在あまり見られないと思います。

 

で、問題は、そういった専門的な機関投資家については、それなりに金融庁や経産省が研究して、適切にコントロールしようと努力している側面はあるのですが、機関投資家と言っても様々です。

 

ウィキペディアによると、機関投資家とは、<顧客から拠出された資金を、有価証券(株式・債券)などで運用・管理する法人投資家。運用資産額が大きく、動かす金額も大きいため、金融市場に占める存在感は大きい。一般に大規模で長期運用の投資をする法人投資家を機関投資家といい、ヘッジファンドなど短期運用の法人投資家は機関投資家といわないことが多い。>とされています。

 

具体的な例としては、生命保険会社、損害保険会社、信託銀行、投資顧問会社、証券会社、投資銀行、銀行などとすぐにイメージできる企業のほかに、年金基金や共済組合なども含まれています。

 

この年金基金や共済組合は、アベノミックスで株式投資を拡大しています。しかも何十兆円という巨額の株式投資が行われています。株価の上昇は、こういった本来、株式投資されなかった、年金基金をはじめ少なくない他の法人も株式投資に参加していることが影響しているのではないかと思います。

 

それだけではありません。日銀が株式を買い支えているとも言われています。いや、実体経済がプラスに動いているとか、生産性があがっているとか、株価上昇の理由を挙げるのが大勢ですが、ほんとにそうでしょうか。

 

日本有数の有力企業と言われた東芝でしたが、相次ぐ不正会計の発覚、そしてついには米原子力企業のウエスチングハウス(WH)の買収から、そののれん代の過大評価2000億円余、ついにはその事業業績自体が粉飾に類するような7000億円余の減損を出し、企業消滅の危機に瀕しています。

 

株主総会が機能していたらとか、機関投資家が適正に議決権行使したり、経営側と対話をしっかりしていたらとか、といったいま、経産省や金融庁が求めているような機関投資家のなすべき役割を的確に行使したとしても、東芝のこの虚妄のような事業実態はつかむことができなかったでしょうし、改善も困難だったと思われます。

 

それでも機関投資家がしっかり経営側と対話して、経営実態について資料開示を求めて適正な事業運営に協力する状況が生まれれば、少しは違ったと思います。また、多くの企業もまた、経営者の自律的なコンプライアンスやガバナンスだけに頼るより、外部からの監視が必要でしょう。

 

そういう視点に立てば、年金基金や日銀といった組織が株式投資に関与している現状は、かれらが適正なステークホルダーとして機能するのであれば別ですが、私は少なくとも年金基金やそれに類するファンドの場合、それぞれが妥当とする価値を満足しているかどうかといった視点や、適正な企業運営が行われているかといった視点で、より厳しい関与が必要な時代だと思うのです。

 

とってつけたようなテーマと思い付きの議論になってしまいました。いつかこれも整理してもう少しまともな議論になるよう努力したいと思います。延長時間も過ぎてしまいました。今日はこれでおしまいです。しりきれトンボですが。


不安とのお付き合い <老後不安なシングル女性>を読んで

2017-02-20 | 医療・医薬・医師のあり方

170220 不安とのお付き合い <老後不安なシングル女性>を読んで

 

今日も仕事がなかなか進まず、やり残しがあるものの、ブログを書く余裕がなくなりそうなので、一休みして?今日はなにを書こうかと少しネットサーフィンをしましたが、簡単にはみつかりそうもありません。それでいくつかの記事を参考に、上記のテーマを考えてみたいと思います。

 

今朝は玄関の戸を開けるとなんと少しムッとするような生暖かい風が吹き抜けます。車の中は結構冷えているのに、早朝の急激な気象変動?が起こったのでしょう。だいたい風はどのようにして起こるのでしょうか。フェーン現象とか「やませ」とかは有名で、一定の開設がされているようですが、そもそも論になると、どうもわかりません。江戸時代は風を論じることが重要で、庶民の中でも多様な名称が使われていたようですが、維新後は西欧化の中で忘れ去られたようですね。風の文化も大切にしたいと思う、終日その揺れや音に驚く突風につい日頃の思いが漏れてしまいました。

 

さて、本論に入ろうかと思いますが、不安はいろいろありますね。ある意味、数えきれないものかもしれません。そして強弱はあってもいつまでも続くものは少ないかもしれません。肉体的な痛みも、精神的な痛みも。人間の脳は記憶する一方で、忘れるとか、どこかに貯蔵しておいてなるべく思い出さない機能もあるようです。とはいえ不安の内容によっては、容易に対処できないというか、ますます深まる場合もあるでしょうし、のっぴきならなくなったり、ついには現世で生き続けることができない、死を選択するような状況に追いつめられる人もいるでしょう。

 

不安をあおるような情報も少なくないかもしれません。気にしないようにしているのに、あなたの状況や身体の状態はこうです、とてもこのままではいけませんといった、さまざま媒体、人を通じて、悪意ある意図もあれば、善意の気持ちからもあれば、ただ表面的に新しさをうたって適当に作り出されるものもあれば、現代は情報にあふれているようにも思います。むろん、現在の状況や状態を改善する必要があると思い、科学的調査などで実態を解明して、適切なアドバイスとして、情報提供が行われることも少なくないと思います。

 

上記の毎日記事の情報は、後者に該当するものではないかと思います。記事では、<中高年シングル女性の暮らしを民間団体「わくわくシニアシングルズ」が調べ中間報告をまとめた。低賃金の非正規雇用で働き続け、老後に不安を抱える様子が浮かぶ。>として、その後に具体的な収入額が提示され、他方で出費が増え続け、とても老後を一人で自立してやっていけないような経済状態を示してくれています。

 

ただ、収入の面では大多数が低額に抑えられているものの、<資産(預金や有価証券)は1000万円以上の人が34・2%いる一方で、200万円未満も34・1%に上り、二極化している。>ということですから、3分の1のシングル女性は若い時から節約と蓄財をしている、ほんとにまじめで倹約な日本人の一面をみせてくれているようです。

 

解決策も提供され、<年に1度、収入・支出、資産・借金を表に書き出す。保険の契約内容やクレジットカードの利用状況も確認。年金が少なそうな場合は今から日々の支出を見直す。節約は自分の価値観に合わせ「通信費だけ」などと対象を絞ると実行しやすい。>と、まさに自分自身を家計簿で可視化するということでしょうか。当たり前のことのようで、なかなかできない対応策ですが、一度に全部やると大変ですけど、少しずつ、今年は収支だけとか、それも大ざっぱなものから、少し慣れれば、細かな分類や新たな項目を増やすとか、できる範囲でのんびりやれば、それなりに自分の家計簿ができあがるのではとおもいます。

 

月尾嘉男著「地球千年紀行」にでてくる先住民の多くは、資本主義的貨幣経済の洗礼をうけてなく、日々の生活はなければないで足り、あればみんなで分け合うことで、充足しており、むろん貨幣を必要としないのですから、将来の不安もないですし、家計簿といった自分の収支や資産を可視化する必要性もありません。どちらが幸せかは、その人その人の感覚であったり、そのときの感じ方で違うかもしれません。ただ、維新後にまい進した西欧化や資本主義経済への傾斜が必ずしも、人間の発展や成長になっているとか、進化の当然の道とか、とまでいえるかは、いつも心の中で躊躇している自分を感じています。

 

話が完全に別のところに行きますが、毎日記事に<千葉大生集団強姦 千葉大の研修医、起訴内容認める>というのがありました。やっぱりという思いと、残念な思いが交錯します。研修医といえば、将来を嘱望された希望にあふれた人たちであり、収入も地位も名誉も最も高い職業の一つにもう一歩のところにある人ではないかと思われるのです。ここで取り上げた「不安」といったものとはまるで関係がないように外からは見えるのです。

 

しかし、もちろん不安は誰にでもあり、より高い地位にあっても、収入がいくらあっても、不安はなくなるわけではないでしょう。ではこの研修医の不安はどんなものだったでしょうか。それは集団強姦という極めて悪質で残忍な行為の動機と関係するのでしょうか。刑事手続きでは、動機は一応法曹三者間で追及され、論じられますが、必ずしも明らかになるわけではありません。もしかしたら、本人自身が分からないというか、心の底を解明できないこともあるでしょう。

 

ここでは直截的にこの研修医の不安がどこにあるか、あるいは動機はどこにあるかは、記録もありませんし、新聞報道程度では解明すること自体、土台無理ですので、私自身の体験からの推測を少し語ってみたいと思います。

 

ま、この記事自体、「集団強姦」と見出しで書いていますが、公判では「準強制わいせつ罪」として起訴され、研修医も認めています。ただ、別の研修医は準強姦罪で公判中ということで、全体の事件概要としては大筋、間違いとは言えないのかもしれません。ともかくいずれも「準」がつく性犯罪です。そこに事件の本質的なものと底流で一致するものを感じるのは私の特異な発想かもしれません。

 

ここからがその推測の概要です。研修医の多くは、まじめに勉強して異性関係もあまりもたず、医療現場という大変に厳しい判断と緊張が伴う中で、日々試練を受けていたと思うのです。指導教官や指導看護師はだいたいにおいて鬼のように厳しく、とても心が休まる余裕がなかったのではないかと思うのです。他方で、異性と自由に付き合う機会はあまりないでしょう。そして医療現場では、男性・女性の裸の体と接することが頻繁になるでしょうが、とりわけ女性の体への関心は場合によっては尋常でないほどになる一方、医師の倫理性という高い緊張した意識の中で、業務の中では強い気持ちで抑制しているのでしょう。

 

そういう研修医が、合コンなどで女性と飲食を共にしたとき、女性側は研修医ということで、安心感から信頼感、さらには尊敬のまなざしを持つかもしれません。油断の気持ちも入るかもしれません。そのような女性たちが信頼感をもつ研修医から酒を勧められ、家に連れていかれても、不安感を抱かなかったかもしれません。研修医も、勤務中の緊張から酒の影響と同僚の扇動で、全体として、抑制の取れない状態になったのではないかと推測します。

 

むろん以上は、事実関係が分からない状態での推測ですから、ほんとにあてになりませんが、一つの仮説としてはあり得ると思っています。性犯罪を犯す人の中に、職業として女性の裸や裸の写真・動画に触れる機会の多い人が一定の割合でいるように思います。おそらく業務中は、欲望をコントロールしているのでしょうが、他方で、欲望に悩まされ、いつ欲望に凌駕されるかわからないといった不安を覚える人もいるのではと思っています。

 

この問題は、一つの考えですが、社会的な慣行というか、習俗というか、そういうものの基礎にある社会的規範といったものと、性風俗といったものの情報が無用に、無秩序的に流通していることとの間で、とりわけ職業的倫理性が求められる医師、とくに精神的に未成熟な段階の研修医にとっては、大きな不安の中にあると思っています。

 

ちょっと時代を遡ると、維新頃にわが国を訪れた異邦人は、たくさんの驚きを日本人の生活の中に発見します。その中で、面白いのは、男性も女性も裸で人前にでること自体を恥ずかしいと思っていないということです。異邦人は日本人が西欧人以上に高い礼節を身に着けていることを十分に感じていましたから、その未開人的な態度に驚くのです。しかし、日本人の裸で平気というのは、あくまで銭湯に入るときや庭で行水をするときなど、生活上必要なときに裸になることで、それが庭の外から見られても平気なのです。じろじろと見ること自体が無礼ということでしょう。といっても、外国人という物珍しいものには誰もが好奇心旺盛で、彼らがやってくると情報が流れると、銭湯から裸のまま道路に出て見物するのですから、これは一見、やりすぎと思われるものの、自然な所作なのでしょう、だれもわいせつな感情を持たないのです。

 

たしかに江戸時代に性風俗の漫画本が流行して、一見、性風俗が乱れていたのではないかといった印象もありますが、そういった行為は、吉原など岡場所に限られていて、日常的な裸の所作とは縁のないことだったと思います。そしておそらく性風俗の乱れもほとんどなかったのではないかと思うのです。

 

おそらくは戦後初期まではそうだったのではないか(進駐軍に対する赤線地帯などは別として)と思うのです。ところが、その後性風俗についての確立した社会規範が、西欧文化、とくにアメリカ文化の爆発的導入によって、逆にそれ以上に氾濫したように思うのです。ウェブ情報をはじめ情報媒体、その内容がきわめて多様化し、とどまることを知らない状態で、それは本来心の底に隠れていた性的欲求を掻き立て、性犯罪を悪質化させたり、多様化させているように思うのです(このあたりの文脈は飛躍しているのは認めます)。

 

ここまでの話は次の<医師はユーモア必要>という毎日記事に賛意を表したいことから、ここにつなぐためのものでしたが、まだ架橋の話が浮かんできません。とりあえずの話をしてみます。

 

NHK番組で、研修医がベテラン専門医師の指導を受けながら、ある症状の患者の異変に至る経緯をストーリーにして、その病名を診断し、的確な治療方法を答えさせるといった、とても面白い番組となっています。その中での研修医の発言や対応は、とても素晴らしいもので、将来も期待できる人たちです。そしてこのような真摯に医療に取り組む医師が大半であることも感じています。

 

しかし、まじめに真剣に質疑する、発言する、そういう医師だけが本来求められているのかというと、若干、疑問を感じています。上記のユーモアのある医師の中の記事は、「金玉医者」という落語の話もとりあげていましたが、私自身は、医師は人間として患者という人間に対峙するのでなければ、その病を見つけたり、直したりすることができない場合が少なくないと思っています。笑いが最高の良薬とも言われます。芸能もそうでしょう。音楽や新鮮な花の香も、患者の心に響くでしょう。そういう患者が受け入れる状態でないと、医師の処方も、治療も、有効でないというか、効き目が十分でないことも多いのではないかと思うのです。

 

翻って、研修医の教育において、心の教育がどこまでなされているのか、心配です。彼らもさまざまな不安をもっているでしょう。心の豊かさをもつことの大切さは、治療技術や体の細部の知識を養うのに匹敵するくらい重要ではないかとおもうのです。

 

見出しから脱線してしまったようですが、うまく収拾がとれないところで、今日は時間となりました。


喜びは創り出すもの <NHKBS「ターシャ・テューダー四季の庭」>を見て

2017-02-19 | 心のやすらぎ・豊かさ

170219 喜びは創り出すもの <NHKBSターシャ・テューダー四季の庭」>を見て

 

今日は小春日和というか、まるで春の訪れを感じます。久しぶりに竹木の枯れ木を伐倒しよと、気分よく出かけていきました。少しは冷えを感じますが、ちょっと動けば暖まるので、ちょうどよい感じです。

 

そんなわけで竹木などの伐倒と枝打ちで4時間以上楽しみ、筋肉痛があちこちでてきました。そしてNHK囲碁番組で、一力氏の山下敬吾氏をねじ伏せる豪腕ぶり?というか、大変な一番を途中から見て、何が何だか分からないけど、もう勝負あったという解説にそうなんだと思いながら、若手のホープはまた伸びしろを見せてくれたような気がします。

 

今日は昨夜見た録画の番組を取り上げたいと思っていますが、その前に、ターシャさんの庭づくりが一人でやってきたということに驚きつつも、私自身も比較にならないけど狭い空間で興じている状況を少し紹介しておきます。

 

まずは倒れ掛けの竹木を根っこから取り除いたり、途中からアメリカのレインジャーも使っている?という広告で買ったノコギリで、次々と切り倒していきます。さすがに切れ味がよく、これでヒノキの木も切り倒します。

 

これは一本伐倒するのに、かなり体力を消耗して、年齢を感じてしまいます。ヒノキを伐倒するときは、基本マニュアルに従って、受け口を用意して、追い口を切り、そして狙った方向に倒すのです。ところが、前に立つヒノキの枝にひっかかってしまいました。ほんとはこういう方向に倒すのはダメなんですが、木自体が斜めになっていて、無理して方向を変える方が危ないと思ったので、引っかかることはやむなしと思っていました。胸高径が10㎝程度の細い木ですので、あまり緊張もなく、少しずらしながら、枝から滑るようにして倒しました。

 

その後、ある程度伐倒木がたまったので、というかはじめから、以前の焼け残った木と枯れ木を焼いて暖をとりながら、切り倒していて、消えそうになったところに、大量に焼くわけです。頭上高く炎が舞い上がるのはいつ見ても気分がいいものです。

 

今日は、気分がいいので、久しぶりに、ぶり縄(ヒノキの枝とロープを使って足場を木につくりながら登っていく杣の昔ながらの手法の一つ)で、枝打ちをやりました。ヒノキの木、高さ10mくらいでしょうか、胸高径が25㎝くらい、大量の枝が張っていて、見苦しいので、今度は竹用のノコギリで、枝を切っていきます。実はナタを持ってきていたのですが、これはプロでないと細い枝は別として、径が数㎝以上5㎝くらいになると、うまくできません。プロだと、簡単に枝打ちしますが、私のような素人だとナタでかっこよく落とすと言ったことはあきらめています。

 

ともかくそれでわずか一本のヒノキの木、たぶん8m近くまで登って枝打ちしましたが(ほんとはそんなに高いところまでは必要ないでしょうが、私のは道楽ですので)、その枝の数は数十本で上から下を見下ろすと数十本が山のようになっています。なんともすごい量の幼子のような手の指を広げた感じの緑葉が一杯あります。

 

火にくべると、パチパチというか、音の感性がいいと、うまく表現できるとおもうのですが、この火との相性がいい印象を感じるのです。

 

そうやってへとへとになって家路の道を歩いていると、柿畑のところでは、緑の絨毯の中に、青白い小花が一杯咲き誇っています。オオイヌノフグリがいつの間にか群生しているのです。そのすぐそばでは、ホトケノザもピンク色で仏さんでもいるのかなと思ってしまう可憐さで一体に広がって佇んでいます。

 

さて本論のターシャさんの庭の世界にはいって行きたいと思います。これは2005年に放送した番組で、アーカイブで録画していたのを昨夜、月尾嘉男著「地球千年紀行」(BS番組を書籍化)を読みながら、美しい音楽と語りを聞きながら、ついつい画面に、内容に引き込まれてしまったのです。

 

月尾氏の先住民の叡智を語る内容も、都市問題の先達として、同じカヌーイスト(といっても当方は20年以上パドリングしていないので精神面では少し理解する程度)として、いつか紹介したいと思いますが、今日はターシャさんの世界にどっぷりつかりたいと思います。

 

ターシャさんは絵本作家として生涯現役を通したようです。そして結婚生活は恵まれなかったものの、シングルマザーとして、自分で開墾して農産物をつくり、料理も自ら工夫してつくり、子育てをしてきたのです。これだけでも素晴らしい生き方だと思うのです。そのターシャさん、休む暇などない中、小さい頃から好きだった絵を描く趣味を生かして、絵本作家としてデビューして、大変な評判になったようです(残念ながら私は絵本に関心がないわけでないのですし、嫌いではないのですが、読む時間がとれていないため彼女の作品を知りませんでした)。

 

そのターシャさんが庭造りを始めたのは、1972年、57歳のときからというのですから、驚きです。この年齢、いままで関心を抱いた人の、何人かはこの年代で新たな人生を切り開いています。私の場合、そんな気持ちもなかったわけではないのですが、いつの間にか通り過ぎてしまっています。とはいえ、模索しているので、ターシャさんの生き方は非常に参考になります。

 

そのターシャさん、一人で庭造りを始めてて、いまでは30万坪になったというのです。約100haですか、すごいですね。私は1haも満足に管理できていませんが、その100倍もの広大な面積を、自らの考えに沿って、庭を造っていくのですから、素晴らしいの一言です。

 

さまざまな花、むろんローズのような豪華な花もあれば、路傍に咲く花も、みな一緒に、それぞれの生命を大事にして、それぞれが色とりどりに自らを満足させているように、生かそうとしているように思えるのです。

 

私は、カナダBC州の州都ビクトリア市で毎年行われているガーデンツアーに参加したことがあります。多くは豪華な屋敷にバラなど豪華絢爛な花が見事に手入れされていて、そのツアー自体は満足できるものでした。また、テレビ番組で、イギリスで行われているイングリッシュガーデンの審査といったものを見ましたが、多くの人がその評価を得よと大変な工夫と苦労を重ねている様子が紹介されていて、ほんとにイギリス人は庭造りが好きなんだなと感心しました。わが国では、古くからの農家も庭造りを大事にしていますが、多くは庭師に委ねていて、彼らの流儀でいわゆる小規模の日本庭園的なものが家庭につくられています。

 

いずれもそれぞれの趣を感じますが、私が好む方向とは大きく異なっていることを感じていました。あるとき北海道の40代くらいの人でしたか、野草をかなり広大な敷地の中で、その土壌条件や特性にあったものを選んでつくっているのがテレビで紹介されていましたが、それは私の感覚と少し似通った感じを受けました。しかし、ターシャさんの場合はその生き方自体が、とても刺激されるものでした。

 

といってもターシャさんの日常は、いたってスローライフそのもの、一時も何かをしようとすると同時に、静かに佇み、紅茶を楽しむ時間も大切にしています。でも、農作物も、食べ物も、もちろん花たちも、すべて自分でつくっていくのです。だから一日はあっという間に終わってしまうわけです。他方で、おそらくTVITも外部からの連絡もほとんどないようにも思えます。

 

そのターシャさんの魅力の一つは、生き物との深い絆とユーモアではないかと思うのです。ひょいと衣服の前を開けて、見せてくれたのは鳩の幼鳥でした。驚きました。最初は鶏の雛をおなかに入れて育てたそうです。それを話すターシャさんの、おもわずしてやったりという表情であふれていました。

 

そしていつもスケッチをしています。さっと鉛筆が走ります。自然な動作です。

 

私も高校生くらいまで、絵を描くのが好きで、面白くない授業の時はいつも絵を描いていました。いつのまにか絵を描くことを忘れてしまった自分をつい思い出してしまいます。絵を描くことの楽しさはまた違う自分になりえるとおもったりするのです。そういえば、四半世紀前ころ、東京弁護士会の広報委員をやっているとき、マンガで弁護士の活動を紹介する企画を立てて、久しぶりに絵のコンテ的なものを書いて企画として提案し、そしてむろんプロの漫画家による、弁護士会初のマンガ出版をしたことを思い出しました。あのマンガはどうなったのかしらと思いますが、私の企画では自転車に乗って(東京でエコロジカルな生活を表現)活動するといったコンセプトでしたが、それは採用されなかったように思います。

 

いつもの脱線が続きますが、このブログも書くことに一段落したら、絵の世界に入るのもいいかななんて思ったりしています。この年で無理と言われても、北斎流にいえば、これからが絵描きの本領発揮かもしれないと、比較にならない人の話をだしても意味がありませんが、夢は夢としてもっておいても損はないかも。

 

で、ターシャさんの一つ一つの所作がとてもいいのです。暖かくなると、裸足で草原に踏み入れます。いや、これは素敵です。私も農村にやってきているのに、裸足になって田畑や山林に入ったことは、自然農をやっていた2年だけ。それもほんのわずかな期間です。裸足で歩くことこそ、自然を五感で感じる有効な方法だと思うのです。

 

昔、ボルネオや、ブラジルなどの先住民の案内で、ジャングルの中に入っていきましたが、彼らは裸足です。足の甲は分厚く、その裏は固さがすぐ分かります。それで土の変化も分かるのだと思います。私も裸足の生活をいずれはやってみたいと思っています。木登りなんかは、子どもの頃、むろん裸足でした。自分でつくった土であり、庭であれば、裸足こそ、一番だと思うのです。

 

ターシャさんは、自然の音のみに包まれているように思えます。野鳥が果樹や花の蜜をあさりに次々とやってきて、その鳴き声がこだまして、後に聞こえてくるのは風の声くらいでしょうか。農村でも、なかなか人工的な音が絶え間ないのが普通です。わが家はまださまざまな野鳥がやってくるので、野鳥の鳴き声が騒がしいくらいですが、それでも線路のそばなので、時折通る電車の音が煩わしいですが、100haの地上の楽園では、そのような心配は不要ですね。

 

ターシャさんの考え方がとてもいいです。見出しで取り上げましたが、「喜びは創り出すもの」というのです。シングルマザーとして自立して、90歳を超えても、子どもにも、行政にも頼らず、それまで自分で成し遂げてきた、自分の考えでやってきた生き方を続けているのです。そのターシャさん、喜びは誰かが与えてくれたりするものでなく、自らの手で創り出すものというのですから、彼女の人生観そのものなんでしょう。

 

ターシャさんは、先祖から受け継いだ料理道具を大切に使っていて、開拓期の入植者の精神や生活を大事にしています。故郷を追われてアメリカにやってきたかもしれないけれど、自由と平等で、自立して生きていけば人生が開けると、高い理想を掲げ、個人の尊厳を大事にしてきた先祖の思いをしっかり受け継いでいるように思えるのです。いまアメリカは世界の富を一部が独占しようとしていますが、開拓期の自由と平等、個人の尊厳を大事にする精神を失いつつあるようにも思える中、ターシャさんの言葉は至言だと思うのです。

 

ちょっとここでもう一人、私自身、とても気になる女性がいます。ビアトリクス・ポターです。ピーターラビットの生みの親で、絵本作家として、ターシャさんの先輩に当たります。彼女は、絵本作家として活躍したのは割と短い期間ですが、もう一つ、彼女を有名にしたのは、湖水地域の保全活動に寄与し、4000エーカー(1600ha)をできたばかりのナショナルトラストに寄付したことでしょうか。私自身は、映画「ミス・ポター」で、ポター役を演じたレニー・ゼルウィガーがとてもかわいらしく、それでいてユーモアたっぷりに自立した女性像を見事に演じていたと印象が残っています。それに絵本の魅力(絵本の世界がアニメ的に動き出す)と湖水地方のうつくしさが見事にマッチしていました。

 

ターシャさんとポターさん、生き方は相当異なると思います。アメリカ・バージニア育ちの女性と、イギリス・ロンドン育ちの女性、時代もビクトリア朝全盛期に育ったポターさん、その後に世界を席巻するアメリカで育ったターシャさん、時代も背景も異なるから当然ですが、いずれも女性の自立を鼓舞することなく、自然の流れのように、それでいて自分自身の立つ位置は一歩も譲らない、確固とした生き方をした女性として、尊敬に値すると思っています。

 

ターシャさんは、自分の庭が、現代科学の力を取り入れない方法で、いわゆる手作りで作り上げたものですが、90歳をすぎ、さまざまな衰えを自覚し、そろそろ自分のつくった庭を、自然に戻すことを考えていました。そのこと自体、すばらしい考えではないかと思うのです。自分のやり方で、持続的な庭づくりができないのであれば、別の方法で維持されるより(それは自然破壊につながるおそれや、本来の自然と調和する庭ではないとのかんがえではないかと思うのです)、元の自然に戻すことが、変えてしまった人の責任だといった考えに基づくのではないかと思いました。これがアメリカ建国の精神ではないかとも思うのです。

 

幸い、孫がその年、結婚して夫婦で、彼女の庭を訪れ、彼女の庭造りやロウソクづくり、アップルジェリーや、アップルジュースづくりなど、さまざまな伝統的な作業を手伝う中で、いつの間にか、彼女を師匠のように慕い、その庭造りを彼女の指示で今後も行う意思を固めたようでした。ターシャさんのそのときの笑顔は、とても安堵の気持ちが表れていたようでした。喜びは、人に感動を与え、人がその感動を自らのものにすると、今度は人に喜びを与えるものかもしれません。喜びの連鎖というか、繋がりは、あちこちで広がるといいですね。


最後に、わが国の農地法制について一言。ターシャさんは農家でないのに、農地?を取得しているようですが、わが国ではこのような取得はできません。もう一つ、欧米の土地規制の中でとても重要と考えている一つは、土地分割の禁止制度です。わが国では当たり前というか、相続でもあれば自由に分割しますし、それは農地、宅地問いません。この自由は、欧米の財産権制度の中では異例です。それがわが国ではさまざまな問題を起こしている要因の一つと考えています。余分な話ですが、今後検討すべき重要な問題の一つと考えています。また脱線しました。