←「FAN CLUB会報」第1号の『No.000』
堂々と「B’zファン」を名乗るわたし。
「デビュー当時からファンなのよ!」
って大きな口をたたいてはいるけど、
正確に言うとそうじゃない(^^;)
B’zがデビューしたのは1988年。
当時、私は小学生。音楽といえば、
TVのベストテンを時々見ていたくらい。
どこで見たのか覚えてはいないけど
(まぁ~沖縄では某有名書店なんだけどw)
「B’z」という文字を見た。
その時はなんて読むのかわからなかった。
「B」と「Z」はわかっても
「‘」はなんだ?なんて読むの?って感じで(笑)
もちろん歌なんて聞いたこともない。
学校で友達に紙に書いて、
「なんて読むか知ってる?」と聞いても「??」。
小学4年生の頃、友達にTHE ALFEEの大ファンという子がいた。
コンサートにも行くらしい。
ALFEE?コンサートってどんな感じなんだろう??
ちゃくちゃくと音楽への興味が強まり始めた。
地方局のラジオ番組でALFEEの曲を聞いた。
すごく「大人」な感じがした(笑)
そして、ラジオのリクエスト番組で初めて
「だからその手を離して」を聞いた。
ラジオから「ビーズの・・・」と紹介された時にピンッときた。
「わかった!あの『B’z』って「ビーズ」って読むんだ!」と。
「だからその手を離して」は、
そのとき特に「いい曲だ~」なんて思わなかったけど^^;
学校でALFEEのファンの子に
「ビーズって知ってる~~~?」って聞くと、
またもや「は?ビーズ??」の「?」だらけの返事。
あれ?間違ってる???と思って恥ずかしくなって、
それからしばらく私の中でB’zは姿を消すこととなる・・・・。
兄が中学生になって、学校のテストで
「負けないこと~♪投げ出さないこと~♪
逃げ出さないとこ~♪信じぬくこと~♪は誰が歌ってますか?」
という問題がでたそう。
当時大ヒット中だった
大事MANブラザースの「それが大事」。
もちろん誰もが知っていると思って
先生はサービス問題として出したのだろうけど・・・
兄はそれまでサッカーに夢中で全く音楽への興味なし。
我が家で公認(?)されている歌手といえば、
光ゲンジとチェッカーズ、そして母の好きな美空ひばり。
問題の答えがわからなかったのは兄だけだったらしい。
(音楽嫌いな子とかテレビ見ない子もいるかもしれないのに・・・
先生、そういうとこ配慮しなきゃダメだよねぇ)
それが恥ずかしかったのか、
兄はカセットのウォークマン(懐かしい:笑)を買ってもらい、
いろいろな歌手の曲を聞き始めた。
我が家に遊びのルーツを持ち込むのは兄の役目。
ファミコンもマンガもそうだし(^^)
それから我が家にはいろいろなジャンルの曲が流れ始めた。
兄が特に目をつけたのがB’zだった。
「ビーズ」ってあの『B’z』?
読み方、間違ってなかったんじゃん!」って。
あの時はただならぬ運命を感じた(笑)
家族で車で出かけるときには
必ずウォークマンを持ち歩き音楽を聴いていた。
父の車にはオーディオもついていなかったものだから、
ウォークマンのイヤホンを兄と片方ずつ。
「太陽のKomachi Angel」は特に覚えている。
「あの娘は太陽のKomachi~♪えんじぇ~る♪」の
「エンジェ~ル♪」のフレーズが面白くて。
ただこの時点でまだ松本さんと稲葉さんの顔は知らない(^^;)
そして同じ頃に大ヒットした
「LADY NAVIGATION」がTVのCMで流れ始めた。
雑誌でやっと「B’z」の2人を見た。
ませた幼心にも素直にカッコいいと思った。
たぶん初めて「B'z」という文字を見たときにも、
姿を目にしているはずだけど、
誰が誰だかわかってなかったと思う(^^;
やっとB'zの2人に出会った。
それからよくB’zの曲を聴くようになった。
「音楽」自体に興味を持ったので器楽部にも入部した。
そして SLE が発症した。
病気への不安、検査の浮ウ、入院中の寂しさから逃げるように、
病室で1人でいる時も寝る時もウォークマンでB’zばかり聴いていた。
いつもB’zの曲が側にあった。
「この勉強が終わったら思いっきりCDを聞こう~」
「あと1ヶ月頑張ったら・・・あと1週間頑張ったら・・・
LIVEに行けるんだから頑張ろう!」
・・・と自分へのご褒美となった。
そしてどんなに辛いことがあっても
「B’z聞けば元気なるじゃん!」と
自分に暗示をかけることでココロの平静を保ってきた。
病気になって辛い日々、悲しい日々、
ただ耐えるだけの日々も頑張ってくることができた。
他人からすれば、大げさで
馬鹿らしいコトかもしれないけど。
どんな時もB’zの曲が私の側にあった。
私を支えてくれた。
そして今もずっと私を支え続けている。
堂々と「B’zファン」を名乗るわたし。
「デビュー当時からファンなのよ!」
って大きな口をたたいてはいるけど、
正確に言うとそうじゃない(^^;)
B’zがデビューしたのは1988年。
当時、私は小学生。音楽といえば、
TVのベストテンを時々見ていたくらい。
どこで見たのか覚えてはいないけど
(まぁ~沖縄では某有名書店なんだけどw)
「B’z」という文字を見た。
その時はなんて読むのかわからなかった。
「B」と「Z」はわかっても
「‘」はなんだ?なんて読むの?って感じで(笑)
もちろん歌なんて聞いたこともない。
学校で友達に紙に書いて、
「なんて読むか知ってる?」と聞いても「??」。
小学4年生の頃、友達にTHE ALFEEの大ファンという子がいた。
コンサートにも行くらしい。
ALFEE?コンサートってどんな感じなんだろう??
ちゃくちゃくと音楽への興味が強まり始めた。
地方局のラジオ番組でALFEEの曲を聞いた。
すごく「大人」な感じがした(笑)
そして、ラジオのリクエスト番組で初めて
「だからその手を離して」を聞いた。
ラジオから「ビーズの・・・」と紹介された時にピンッときた。
「わかった!あの『B’z』って「ビーズ」って読むんだ!」と。
「だからその手を離して」は、
そのとき特に「いい曲だ~」なんて思わなかったけど^^;
学校でALFEEのファンの子に
「ビーズって知ってる~~~?」って聞くと、
またもや「は?ビーズ??」の「?」だらけの返事。
あれ?間違ってる???と思って恥ずかしくなって、
それからしばらく私の中でB’zは姿を消すこととなる・・・・。
兄が中学生になって、学校のテストで
「負けないこと~♪投げ出さないこと~♪
逃げ出さないとこ~♪信じぬくこと~♪は誰が歌ってますか?」
という問題がでたそう。
当時大ヒット中だった
大事MANブラザースの「それが大事」。
もちろん誰もが知っていると思って
先生はサービス問題として出したのだろうけど・・・
兄はそれまでサッカーに夢中で全く音楽への興味なし。
我が家で公認(?)されている歌手といえば、
光ゲンジとチェッカーズ、そして母の好きな美空ひばり。
問題の答えがわからなかったのは兄だけだったらしい。
(音楽嫌いな子とかテレビ見ない子もいるかもしれないのに・・・
先生、そういうとこ配慮しなきゃダメだよねぇ)
それが恥ずかしかったのか、
兄はカセットのウォークマン(懐かしい:笑)を買ってもらい、
いろいろな歌手の曲を聞き始めた。
我が家に遊びのルーツを持ち込むのは兄の役目。
ファミコンもマンガもそうだし(^^)
それから我が家にはいろいろなジャンルの曲が流れ始めた。
兄が特に目をつけたのがB’zだった。
「ビーズ」ってあの『B’z』?
読み方、間違ってなかったんじゃん!」って。
あの時はただならぬ運命を感じた(笑)
家族で車で出かけるときには
必ずウォークマンを持ち歩き音楽を聴いていた。
父の車にはオーディオもついていなかったものだから、
ウォークマンのイヤホンを兄と片方ずつ。
「太陽のKomachi Angel」は特に覚えている。
「あの娘は太陽のKomachi~♪えんじぇ~る♪」の
「エンジェ~ル♪」のフレーズが面白くて。
ただこの時点でまだ松本さんと稲葉さんの顔は知らない(^^;)
そして同じ頃に大ヒットした
「LADY NAVIGATION」がTVのCMで流れ始めた。
雑誌でやっと「B’z」の2人を見た。
ませた幼心にも素直にカッコいいと思った。
たぶん初めて「B'z」という文字を見たときにも、
姿を目にしているはずだけど、
誰が誰だかわかってなかったと思う(^^;
やっとB'zの2人に出会った。
それからよくB’zの曲を聴くようになった。
「音楽」自体に興味を持ったので器楽部にも入部した。
そして SLE が発症した。
病気への不安、検査の浮ウ、入院中の寂しさから逃げるように、
病室で1人でいる時も寝る時もウォークマンでB’zばかり聴いていた。
いつもB’zの曲が側にあった。
「この勉強が終わったら思いっきりCDを聞こう~」
「あと1ヶ月頑張ったら・・・あと1週間頑張ったら・・・
LIVEに行けるんだから頑張ろう!」
・・・と自分へのご褒美となった。
そしてどんなに辛いことがあっても
「B’z聞けば元気なるじゃん!」と
自分に暗示をかけることでココロの平静を保ってきた。
病気になって辛い日々、悲しい日々、
ただ耐えるだけの日々も頑張ってくることができた。
他人からすれば、大げさで
馬鹿らしいコトかもしれないけど。
どんな時もB’zの曲が私の側にあった。
私を支えてくれた。
そして今もずっと私を支え続けている。
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