なんくるないさぁ~だんな と わたし と SLE と

  12歳SLE発症。ループス腎炎Ⅳ型。
早発閉経で妊活強制終了。子なし人生の幸せ模索中。

就職編⑤

1980年01月19日 | 膠原病とともに
★2006年12月 働きたい★

小さな薬局の薬剤師さんは、
他薬局への就職をココロから喜んでくれました。
「これで私も安心して辞められるよ~(^^)」と。

新しく働く薬局は私の家から徒歩3分という近場。
お昼も家に帰れるし、朝もゆっくりでいい。
正社員採用で待遇は沖縄での中小企業並み。

そして、その薬局の経営者は身内に障害者がいて
さらに若い頃から福祉関係に携わっていて、
「今後、障害者やアナタのように病気でも頑張ってる人を
 積極的に雇っていきたいと考えてるから。
 福祉を学んできたアナタに、
 是非、うちで頑張ってもらいたい。お願いします」

と言ってくれました。

やっと。やっと。頑張ってきたコトを
認めてくれる人に出会えたと思いました。
きっとココなら頑張れば認めてくれる。
今までの努力がやっと報われたんだ。。。。と。

嬉しくて嬉しくて。ホントに涙が溢れていました。
嬉し涙の暖かさが久しぶりに頬をつたいました。

でも、それはすぐに悔し涙へと変わってしまいます。

感染症なのか。SLEのせいなのか。
高熱がまたぶり返し救急から緊急入院。
出勤してわずか3日後のことです。

前回の感染症の入院時からプレドニン
5mgから 40mgに増えていて、
免疫抑制剤も飲んでいました。
そして免疫抑制剤のよくない副作用が出始めていました。

「最低でも1週間は入院が必要」と医師に言われます。

薬局へその獅d話すると、
「それでは困る。今回は縁がなかったということで」

「病気でも頑張っている人を採用したい」
あの言葉を聞いて流した涙はなんだったんだろう。
救急センターで泣きながら電話を切りました。
もう悔しくて悔しくて。悲しくて。病気が憎くて。

でも・・・・たった3日だったんですよね。

経営者側からすればたかが3日で
体調を崩すような社員なんていらないでしょう?

結局、熱はすぐに下がって2日で退院できたのですが、
「あぁ~単に縁がなかったんだよね。
 熱さえなけりゃ働けたもの」

何度も何度も自分に言い聞かせて。
きっと「まだ無理するな」
神様が言っているのだと言い聞かせて。

また笑えない日々が来ないように
自分の感情をコントロールするのに必死でした。

社会復帰への第1歩を歩んだつもりが
私の焦りはSLEを悪化させただけになってしまいました。

ほんの1ヶ月半の社会復帰。楽しかったです。

「やっぱり働きたい。」   

その思いがいっそう強くなったのも確かです。

就職編④

1980年01月18日 | 膠原病とともに
★2006年10月★

医療事務員の就職先を自力で探すのは難しいとわかり、
以前通った医療事務の学校に再び入学し、
再度勉強しなおして修了しました。

そしてパートで薬局の医療事務員を紹介されました。
もちろんSLEのことは履歴書にも書きました。
面接をしてくれた方は経営者であり薬剤師。
病の知識も豊富です。

その薬局の薬剤師さんはSLEのワタシではなく、
「私」という人格を見てくれました。

とても小さな眼科の門前薬局。従業員はワタシを含めて4人。
薬剤師2人、事務員2人。ホントに小さな職場でした。

午前中だけの短い時間の仕事量。
私にはこのくらいの仕事量がいいのかも・・・
今でも考えさせるきっかけとなっています。

働いて早々風邪で高熱を出してしまい
1週間程入院してしまったのですが
それでも私は怠けているわけじゃないと
薬剤師さんは私の誠意を認めてくれて
退院して戻ってくるのを待っていてくれました。

しかし残念なことに市の区画整理
薬局がかかってしまうので近く閉局するとのことでした。
それで薬剤師さんは私の将来のコトを考えてくれて、
相談に乗ったり次の仕事を探すのも応援してくれました。

そして、働きながら他薬局へ面接を受けた結果、
「1年経験者募集」の薬局へ採用してもらいました。
小さな薬局でのほんの1ヶ月半の経験を認めてもらえたのです。


就職編③

1980年01月17日 | 膠原病とともに
★2006年4月 社会復帰を目指して★

退院してからも鬱状態は続いていました。

人に会うのが嫌でしかありませんでした。
まるで自分が自分でないようで。

「これではいけない」と無理に友達と会ったりしました。
でもそのときは楽しくても、友達と別れたあと、
どうしようもない不安に襲われるので、
また会うのが嫌になる。それの繰り返しでした。

今まで出来ていた些細な事が
できなかったのも辛かったです。
例えばいつも行っているスーパーなら、
だいたいドコに何があるってわかりますよね。
それがわからないんです。

お金の計算もできなくなっていました。
今日は何曜日だから明後日は何曜日。
そんなこともあやふやでした。
忘れないようにメモをしたことを忘れたり、
自分で片付けたモノの場所がわからなくなったり。

そして昔はそんなことは簡単に出来たって
そいういうコトはわかるんです。
だからこそ辛くて辛くて仕方ありませんでした。
「私は何も出来なくなってしまったんだ」と、
自信を全く失っていました。

眠って起きたときに、また入院していたらどうしよう。
また歩けなくなっていたらどうしよう。
今度は、もう目が覚めなかったら。。。。
そんな不安が頭の中にこびり付いて離れませんでした。


でも、幸か不幸か。医療や福祉を学んでいた私は
「ううん。大丈夫。大丈夫」と自己流リハビリを始めました。

まずは、必ず終わることをやり始めました。
単純なことです。食器を洗ったり。洗濯物をたたんだり。
今日は牛乳だけ買ってこよう。
今日は友達に1時間だけ会ってみよう。

そんな些細なコトを繰り返しながら
自分に自信を取り戻していきました。

そして、2006年3月。
社会福祉士国家試験合格通知がきました。
国家試験の合格は私に最大の自信を取り戻してくれました。

CNSで唐黷トから2年。
社会復帰を目指して就職活動を始めることにします。

もう一度自分の通う病院で働きたいと思い、
退職した会社へ迷惑をかけたことのお詫びを兼ねて
連絡をとりましたが、すでに遅し。。。
ソコに私の居場所はありませんでした。

それはただ患者として通うことになっただけ。
ただ働く前に戻っただけ・・・のはずだったのですが。

職員の見る顔、見る顔はすべて知っている顔。
声をかけてくれる人は私の記憶には無い
入院中のワタシを知っていたり。
私の居た仕事場には他の人が居て。

診察に行くたびに
「なんでワタシは働いてないのだろう」と。
胸の締め付ける思いが湧き上がりました。

戻れないとわかったなら、
次の一歩を踏み出すしかありませんでした。
そしてやはり目にとめたのが社会福祉士としての職。

家の近くで開設したばかりのデイサービスセンターで
生活相談員の募集を見つけました。

早速、久しぶりに履歴書を書き、
久しぶりに面接を受けました。

結果は採用。

しかし、社会福祉士試験に合格はしたものの、
厚生労働省から社会福祉士としての登録証
届いていなかったので、この時点で働き始めると
契約終了までは「社会福祉主事」としてしか働けないとのことでした。

デイサービスの会社は社会福祉士としての地位を認めており、
「社会福祉主事」「社会福祉士」との待遇は全然違いました。

実はワタシ福祉が苦手になっていました(^^;
どうしても自分のことを重ね合わせてしまうからです。

社会福祉士としての資格を活かせるわけでもなく、
新しい仕事に就くストレスを抱えるというリスク。
「そこまでしてやりたい仕事だったっけ?」
両親や主治医とも相談し、自問自答の末、辞退しました。

その後、苦手だとはいいながら、福祉分野への興味は断ち切れないので
視覚障害者ガイドヘルパー全身障害者ガイドヘルパー
精神障害者ホームヘルパーなど福祉関係の資格を取り、
医療事務員の仕事を探していくつか面接を受けました。

しかし、結果は不採用

面接で決まって聞かれたことは、
「なんで前職は辞めたの??」でした。

CNS発症④

1980年01月16日 | 膠原病とともに
★私を救ってくれたもの★★

病状が落ち着きだした頃から
何度も病室は転々と移動させられました。
急性期特定病院なので長期入院は珍しく、
病院からも厄介者のような感じになっている気がしたそうです。
(ソレは無いと思いますけどね)

でも医師からの「退院していいよ」というOKがでないので
家族はどうすることもできなかったそうです。

いつのことでしょうか。回診に来ていた医師に、
まだコミュニケーションは難しかった私の口から
「もう帰りたい。」という言葉がでました。

 その後、入院計画を半分以上残したまま
「退院にむけての外泊」
という形で家に帰ることが許可されました。
 
それ以後、病院に戻ることはありません。
 
週1回、リハビリのために病院へ通いました。
1ヶ月くらいすると杖も要らなくなりました。

家に帰ってからも不眠は続き、
睡眠薬を飲まなくては眠れない日が多々ありましたが、
しばらくすると薬を飲まなくても眠れるようにはなりました。

仮退院から約2ヶ月後、正式に「退院」が許可されました。

退院後もふくらはぎの筋力がなく、
小走りもできなかったのでリハビリには通いました。
正式な退院後、初診察の血液検査の結果は異常なし。
走ることはできないにしても
日常生活における動作はできるようになっていました。

 主治医は
 「いったいなんだったんだろうね」と首をかしげます。

 私をあの状態から救ったのは
 
 「口から食事をとる」ということ。
 「歩く」ということ。
 「自分の家で暮らす」ということでした。
 
 あのまま病院にいたら私はどうなっていたのでしょうか。

 医療や薬をすべて否定するわけではないけれど、
 病院は「命」は助けても
 「人」を助ける場所ではないような気がします。


CNS発症③

1980年01月15日 | 膠原病とともに
CNSでの入院中、私の精神状態は常に不安定でした。
日中は叫んだかと思うと夜中は正気に戻ったりしました。

あまりにもそのギャップが激しく、
普段の回診ではその正気の姿を見せられないので
当直の研修医の先生に、デジカメのビデオ録画機能で
主治医にメッセージを送ったことがあります。

「U先生~~夜中はこんなに元気なんですよ~~(^^)」と。
正気だったから覚えています。。。

昼間は眠く、夜は目が覚めてしまうので
睡眠薬を投与されていたのですが、効き目はありませんでした。
そのため「昼の時間に睡眠薬を飲んだら正気に戻るんじゃない?」
なんてことを主治医に提案したこともあります。
もちろん「それはできないよ」言われましたが。
・・・・・・・・・今では笑い話ですw

そして時々、日中でも正気に戻ることがあったので
病棟のナースや先生を捕まえては一緒に写真を撮りました。

でもそれも気まぐれで、笑って撮ったものもあれば
不機嫌な顔で母にカメラを向けられて撮られたものもあります。

基本的に入院中に写真を撮るのは嫌いなんですけどね。。。