今日、Webで知った映画『
100,000年後の安全』を観てまいりました。
吉祥寺バウスシアターで、限定1週間の公開の初日。
考えさせられました・・・。
ノンフィクションのドキュメンタリー映画です。
世界で初めて、使用済み核燃料を再処理しないで、地下に埋蔵することを決めたフィンランドのプロジェクトの専門家の様々な角度からの問いに対して、繰り広げられるディスカッションが中心となります。
原発がいかに恐ろしいものなのかという、「恐怖のスタンプ集め」をしたかった人にはちょっと拍子抜けするのではないかと思います。
さて、
今、世界各国にある使用済み核燃料が生態系に対して無害となるのには100,000年かかるそうです。
それを踏まえ、
100,000年後まで、地下に使用済み核燃料が埋蔵されていて、決して掘り起こされることがないよう後世に伝えていくことが可能か?
この問いに対してのディスカッションや更なる問題提起が映像の中心になっていました。
ネアンデルタール人・クロマニョン人の時代が生きていた時代から現代人へと人類が進化してきた年月は100,000~200,000年に相当します。
100,000年後、言葉が違う可能性、高度科学技術への関心が失せた文明社会になっている可能性、使用済み核燃料が「お宝」になっている可能性・それが掘り起こされる危険性など、
正直、今のままでは100,000年後、地球あると思っていなかった私にとっては、目が点。
私が描く未来というのは、何世代ぐらいをイメージしていたのか?
人によって違えど、私が現実問題として思いが至るのは、残念ながら「3世代」ぐらいまででした。
この映画の中で紹介されたフィンランドは「30万世代」後まで、安全を保障できるかにフォーカスしているのです。
それを大真面目に検討している専門家たちの描かれようと言ったら、もはや映像表現ともどもSFの世界を観ているよう・・・
自分が考えてきた3世代先ぐらいの未来というのは、宇宙・地球誕生からの歴史からすれば、ほんの一瞬。
そして、水道水の安全性とか、野菜の安全性について右往左往しているこの一カ月は、さらにそのまた一瞬です。
そんな一瞬を共に生きていくことで精いっぱいの私に、100,000年スパンで原子力を考えることは新鮮極まりない体験・・・
さて、
キュリー夫人が、放射性物質を発見し、このお宝により電気というパワフルなツールで文明を発達させてきていながら、使用済みの核燃料の廃棄方法は各国が今なおも手探りであります。
フランスやイギリスに使用済み核燃料の処理を断られた日本だって、六ヶ所村の再処理工場はいまだ安定稼働に至っていません。
そして、福島の原発は、未だ制御不能です。
我々の暮らしが、このような「コントロール不可能なエネルギー」によって支えられている危うさ。
この映画の訴求ポイントは、原発を即時停止することとは「別に」、使用済みの核燃料の処理についてです。
私は、原発についてこれまで記事にしたことはありませんでした。
原発を推進していいのか?、即時停止するか?のような論議が活発化していますが、私は、このような論議には熱くなれませんでした。
決して無関心なのではなく、推進やむなしと諦めている訳ではありません。
代替エネルギーとして再生可能な太陽光・太陽熱・風力エネルギー・水力エネルギー他のエネルギー効率や安定性、CO2排出量を考えれば原発の即時停止を声高に叫ぶのはあまりにも乱暴ではないか?
また、原発を止めて、休眠している火力発電所を稼働させれば電力は補えると言った記事を読んだことがありますが、化石燃料だって有限ではないですか?
身近なところで原発の恐怖に怯える方のことを思えば、「今すぐ停止しろーーー」ってデモに参加したくなる気持ちはわかりますが
再生可能エネルギーのパフォーマンスを上げる技術開発・実用化を急いで実現しながら、段階的に原子力依存度を下げて行きながらなんじゃないの?
ただ、今回、この映画を見て、私自身が原発に反対する理由が明確になりました。
地震から決して逃れられない我が国で、福島第一の危機的状態、他の原発の抱えるリスクだけでなく、
乱暴な言い方をすれば、
「未だ効果的な処理方法が確立していないこの得体の知れないエネルギーや枯渇が予測されるエネルギーによって、刹那的な悦に入り浸り切りながらも、それでも成長できるんじゃないかと思っているのはどうかと思う」
そして、例え、日本に原発が無くなったとしても、六ヶ所村の問題はまだまだ残るということ。
そして、地層の安定しない日本は埋蔵には決して適さないということ。
チェルノブイリの後に高まった反原発活動もいつしか忘れ去られ原発は推進されました。
一時の感情の高ぶりで賛成・反対するだけでは、すまない問題のように思います。
私も、本格的に目が覚めました
当たり前のようにジャバジャバ電気を使っていた時代を基準にして、エネルギー構成を操作するのではなく、大量生産・大量消費の経済社会や、大量の電力消費によって「悦に入る暮らし」は、「持続可能」なシフトチェンジが必要だと思うのです。
ウーーン、ジハンキニパチンコ・・・
この夏は、本当に個人も法人も皆が知恵を絞り、自己を統制し、本当に必要な人が電気を利用できるように力を合わせる必要がありましょう。
無関心ではいられない電気の問題でございます。
映画上映後、観客の半数がその場に残り、意見交換会を行いました。
その中で、この映画を知った人のほとんどがWebで情報収集したとのことでした。
配給会社の社長が、Webの使用頻度の低い人へもいかに告知していくかが今後の課題とおっしゃっていました。
震災後、我々の行動や発言には多少は、ITを使いこなせているか否かの格差「デジタルデバイド」が現れていると感じます。
情報の有無が別ける大きな格差は、「物質面・経済面でのリッチさ」ではなく、
無駄に情報を鵜呑みにしたり、振り回されて疲弊したり、他者のリーダーシップに任せ切るのではなく、「自分の意思や自分の信じる価値で生きること(自分勝手に生きることではない)」や、「社会に参画し関わりの中で主体的に生きている満足感」といった「精神的なリッチさ」みたいなそんな感じがしています。
その一方で、ライフライン化しているインターネットへの「つながり」が絶たれても、地域社会で人と人との「つながり」でこの苦難を乗り越えようとしている被災地の現状もあります。
わずか90分の映画ですが、大きく視点が変わった時間でした。
この映画の情報にアクセスできない方が近くにいたら、どうかお話下さい。
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