名古屋の研修で燃焼し、その足で夏から決めていた岐阜・高山に向かいました。
当初は、1人で行く予定だったのですが、あゆみさんとともに岐阜市内から高山までのドライビングです。
目的は、中村久子女史の足取りを訪ねること。
お訪ねしたのは、浄土真宗大谷派の真蓮寺。前にある高山別院はすでに紅葉が美しかったです。
三島多聞住職と中村久子女史の次女の中村富子様にお会いするためでした。
富子さんは、明るく優しく、そして間違いなくDNAを受け継いで、現在は女史の語りべ。(写真掲載許可済)
約2時間、女史の生き方について、それから昨今の行きづらい世の中についてのお話をお2人からうかがいました。
自分の中に激震の走る言葉がいくつもありました。何とも濃い2時間でした。
これから10年の過ごし方を変える日になったかもしれないです。
四肢の無い女史が、見世物師として興行界で気高く生きて、4度の結婚を経て、2人の娘さんを立派に育て上げたこと、本当に多くの人たちに助けられ感謝・人の情けを忘れずに困難を乗り切っていったこと、何においても決して妥協せず、筋を通して生きたこと。
正直、事前に読んだ本は、涙なしでは読めなかったです。
その涙の理由を問うても、最初は、その涙の理由はわからなかったし、この先もその都度、涙の理由は変わるかもしれない。
大前提は女史の勇敢な生き方への畏敬の念です。
しかしながら、うすうす感じているのは
「あるのに求めすぎる」自分の浅ましさへの自責の念だと思う。
求めすぎる・・・
誰かと比較して足りないものを求める、自分の思うようにならないからと言って人を操作しようとする。
決してそうするまい、と思っても多少なりとも働く思い。
もっと自分が持っているもの、自分にあるもの、自分を支えてくれているものに感謝することだと思う。
手を合わせて。
手のない女史は、「手を合わせる姿が最も美しい」と言い、娘に手を合わせて祈るよう言って聞かせたと言う。
合わせる手があるのに、私が手を合わせて祈るのは、まずはお賽銭を投げ入れ自分の幸運を願う時ぐらいです。
決して、1番に自分以外の人の幸せを願ったり、感謝するために手を合わせているかというと決してそうではなかったりして、
何だかそういう自分に嫌気がさしているのだと思うんです。
もちろん自分は大事だけど、何よりも自分が生かされていることに感謝することですよね。
「生かされている」ということについては、数年前よりも実感が持てるようになっているように感じています。
そして、感謝して生きていれば、実は苦しいことやつらいことって案外忘れられるようにも感じています。
朝(あした)に礼拝、夕(ゆうべ)に感謝
合掌
たまにクリックよろしく。
↓
当初は、1人で行く予定だったのですが、あゆみさんとともに岐阜市内から高山までのドライビングです。
目的は、中村久子女史の足取りを訪ねること。
お訪ねしたのは、浄土真宗大谷派の真蓮寺。前にある高山別院はすでに紅葉が美しかったです。
三島多聞住職と中村久子女史の次女の中村富子様にお会いするためでした。
富子さんは、明るく優しく、そして間違いなくDNAを受け継いで、現在は女史の語りべ。(写真掲載許可済)
約2時間、女史の生き方について、それから昨今の行きづらい世の中についてのお話をお2人からうかがいました。
自分の中に激震の走る言葉がいくつもありました。何とも濃い2時間でした。
これから10年の過ごし方を変える日になったかもしれないです。
四肢の無い女史が、見世物師として興行界で気高く生きて、4度の結婚を経て、2人の娘さんを立派に育て上げたこと、本当に多くの人たちに助けられ感謝・人の情けを忘れずに困難を乗り切っていったこと、何においても決して妥協せず、筋を通して生きたこと。
正直、事前に読んだ本は、涙なしでは読めなかったです。
その涙の理由を問うても、最初は、その涙の理由はわからなかったし、この先もその都度、涙の理由は変わるかもしれない。
大前提は女史の勇敢な生き方への畏敬の念です。
しかしながら、うすうす感じているのは
「あるのに求めすぎる」自分の浅ましさへの自責の念だと思う。
求めすぎる・・・
誰かと比較して足りないものを求める、自分の思うようにならないからと言って人を操作しようとする。
決してそうするまい、と思っても多少なりとも働く思い。
もっと自分が持っているもの、自分にあるもの、自分を支えてくれているものに感謝することだと思う。
手を合わせて。
手のない女史は、「手を合わせる姿が最も美しい」と言い、娘に手を合わせて祈るよう言って聞かせたと言う。
合わせる手があるのに、私が手を合わせて祈るのは、まずはお賽銭を投げ入れ自分の幸運を願う時ぐらいです。
決して、1番に自分以外の人の幸せを願ったり、感謝するために手を合わせているかというと決してそうではなかったりして、
何だかそういう自分に嫌気がさしているのだと思うんです。
もちろん自分は大事だけど、何よりも自分が生かされていることに感謝することですよね。
「生かされている」ということについては、数年前よりも実感が持てるようになっているように感じています。
そして、感謝して生きていれば、実は苦しいことやつらいことって案外忘れられるようにも感じています。
朝(あした)に礼拝、夕(ゆうべ)に感謝
合掌
たまにクリックよろしく。
↓
濃い2時間であったことが想像できます。
はるさんの気づきは、もしかすると私や私の周りの友人の最近の「気づき」と似ているのかもと勝手に想像しました。
時代が一気に収束に向っているような感覚を憶えます
私たちアラフォーにとってようやくバブルが終わった感。とでもいいましょうか・・・。
「集合的無意識」が本当にあるのだとしたら、
「あるのに求めすぎる」「感謝して生きる」ということは、もしかすると拡がってきているかも知れません。
貴重な体験をシェアして下さって、ありがとうございます。
コメントありがとうございます。
>時代が一気に収束に向っているような感覚を憶えます
迷い、さまよい、どこにも帰れなくなって、戻るのは最後は自分の心ではないかと思いました。
三島住職がおっしゃっていました。
自分自身が自分の中に自分の帰るところを見つけることだと。
そうして収束させていくのかも・・・と思いました。
そっか、私たちはそうやって自分たちを収束させているんですね。
こちらこそ気づきをありがとうございました。
ご無沙汰しています。コメントありがとうございます。
以前は、仏教の世界は自分には無縁のものと思っていました。しかし、引き寄せ、引き寄せてしまうものですね。
xc909119さんと講座が終了してからもずっとつながっているのも「縁(えにし)」ですね。
出会っているのに気づかない、用意されているのに気づかない、仕組まれているのに、自分には案外そんなこともたくさん起きているんだろうな・・・と思いますが、
今回は素通りしなくて良かったです。
xc909119さんも、関心があれば女史の人生もお調べくださいませ。
直接お会いしお話を聞かせて頂き、
色々な事柄について豊かになった気分です。
次はこの体験と感じ取った事と考えた事を
多くの人に伝えたいと思ってます。
はるさんと二人で起こした小さなスパイラルを
徐々に大きなスパイラルにして
多くの人と共有できたら素晴らしいと思います。
ホントありがとうございました。
自分でも豊かになったことには変わらないのですが、何だか自分のタンクが大きくなり、またそこにゆれる水かさが増してゆらゆらしている感じがします。
それは、誰かに分け与えられる・いや、自分から発信して、何かしら分かち合える体験をしたということかもしれません。
豊かになるとはそういうことなのかなぁと思いました。