ミッションやビジョンや目標を共有することは、まずは「同じ方向、同じゴール」を見つめることがひと苦労だと思う。
思いや価値観が違う人が集う組織で、見ている先がばらばらで求心力を高めていくことは難しく、エネルギーロスがあること、
過去を振り返ってみると自分があんまり上手くいってない組織にいた時は、やっぱり、そんな感じだったと思う。
個人の思いや価値観を基準にして人を評価し、相手をディスカウントしてしまったり、ビジョンに近づくため、あるいは目標の達成に必要な努力から自分勝手な言い訳をして逃避したりと、
そんなことが繰り返されるなんだかむなしい環境だった・・・
そんな風に振り返ります。
しかし、ビジョンや目標は、長短問わず期首に発表があったりするけど、
「回覧したけどね」
「読めばわかるでしょう」
「わかってると思うよ」
「言ってあるけど、わかんないやつは何を言ってもわからないからさ」、
ぐらいのレベルでは到底、共有できるものではないんだというこということを、発信側はどれくらい認識しているんだろう・・・
先日、仲間内で、上司の語るビジョンで心が動いた経験をシェアし、発表された内容を吟味した時に
「ビジョンって本当は優しいものなんだね」って話にまとまりました。
私はとある上司のことを思い出して話していました。
私は30代の半ばまで、コンタクトセンターのアウトソーサー(BPO:Business process outsourcingの会社)で仕事をしてきました。
平易な言葉で言えば、ある仕事を何らかのノウハウのある会社に委託しようというその委託先の企業です。
その時に、私の上司が語った
『我々はクライアントと一心同体なんだから、クライアントの痛みに寄り添うことなく我々の仕事(問題解決)はないんだよ』
という言葉を思い出していました。
今、思えばこれは仕事のビジョンです。
誰の何のための仕事なのかが、「一心同体」という極めて短い表現とともにビジュアルとして伝わりやすく
ものすごく心に染みたし、
さらに、退職した今も、社外からお客様のビジネスを支援する立場としては、根底にあるくらい同感して止まないものになっています。
私以外の人にはどう伝わったかは定かではありませんが、なんとなくしんみりとした場の雰囲気を思い出すに、神妙に受け止められたという記憶があります。
ビジョンは、自分が合意できる誰かの何かのために、自分をワクワクさせるように駆り立てるものである、そんな風に考えがちだったけど、
もう少し丁寧に考えると、グラッサー博士の5つの欲求の中でも、一人では満たしきれない「愛・所属の欲求」や「力の欲求」を人とかかわりながら満たして成長できる
そんな期待感があるからこそ、そのビジョンという名の船に乗っかれるんじゃないだろうかって。
あの時、私たちのチームは朝令暮改のクライアントのビジネスに翻弄され、疲労感やうんざりしたムードもあったし、先陣に立つ上司も頭を抱えていた。
だけど、立派だなあと思ったのは、
そんな時にこそ、自分たちの仕事の大義に立ち返り、邪念を振り払うかのように、仕事に集中しようとしていた上司の姿です。
雄弁でもない、熱っぽく、しつこいくらい語って聴かされたビジョンでもない。
ただ、そのビジョンの中に、間違いなく存在していた上司の姿を見て、共感から同感に変わっていった時に、
今思えば、あれが「ベクトルが一致する」という感覚だったんだろうと思う。
本当のビジョンは実はとっても優しいもので、それを体現しているリーダ-の元でこそ、静かに共有されていくものなんだって
今はそう思えます。
そういう上司の元で仕事ができた時期があったことを幸せに思います。
心から感謝しています。
そして、心から尊敬しています。
思いや価値観が違う人が集う組織で、見ている先がばらばらで求心力を高めていくことは難しく、エネルギーロスがあること、
過去を振り返ってみると自分があんまり上手くいってない組織にいた時は、やっぱり、そんな感じだったと思う。
個人の思いや価値観を基準にして人を評価し、相手をディスカウントしてしまったり、ビジョンに近づくため、あるいは目標の達成に必要な努力から自分勝手な言い訳をして逃避したりと、
そんなことが繰り返されるなんだかむなしい環境だった・・・
そんな風に振り返ります。
しかし、ビジョンや目標は、長短問わず期首に発表があったりするけど、
「回覧したけどね」
「読めばわかるでしょう」
「わかってると思うよ」
「言ってあるけど、わかんないやつは何を言ってもわからないからさ」、
ぐらいのレベルでは到底、共有できるものではないんだというこということを、発信側はどれくらい認識しているんだろう・・・
先日、仲間内で、上司の語るビジョンで心が動いた経験をシェアし、発表された内容を吟味した時に
「ビジョンって本当は優しいものなんだね」って話にまとまりました。
私はとある上司のことを思い出して話していました。
私は30代の半ばまで、コンタクトセンターのアウトソーサー(BPO:Business process outsourcingの会社)で仕事をしてきました。
平易な言葉で言えば、ある仕事を何らかのノウハウのある会社に委託しようというその委託先の企業です。
その時に、私の上司が語った
『我々はクライアントと一心同体なんだから、クライアントの痛みに寄り添うことなく我々の仕事(問題解決)はないんだよ』
という言葉を思い出していました。
今、思えばこれは仕事のビジョンです。
誰の何のための仕事なのかが、「一心同体」という極めて短い表現とともにビジュアルとして伝わりやすく
ものすごく心に染みたし、
さらに、退職した今も、社外からお客様のビジネスを支援する立場としては、根底にあるくらい同感して止まないものになっています。
私以外の人にはどう伝わったかは定かではありませんが、なんとなくしんみりとした場の雰囲気を思い出すに、神妙に受け止められたという記憶があります。
ビジョンは、自分が合意できる誰かの何かのために、自分をワクワクさせるように駆り立てるものである、そんな風に考えがちだったけど、
もう少し丁寧に考えると、グラッサー博士の5つの欲求の中でも、一人では満たしきれない「愛・所属の欲求」や「力の欲求」を人とかかわりながら満たして成長できる
そんな期待感があるからこそ、そのビジョンという名の船に乗っかれるんじゃないだろうかって。
あの時、私たちのチームは朝令暮改のクライアントのビジネスに翻弄され、疲労感やうんざりしたムードもあったし、先陣に立つ上司も頭を抱えていた。
だけど、立派だなあと思ったのは、
そんな時にこそ、自分たちの仕事の大義に立ち返り、邪念を振り払うかのように、仕事に集中しようとしていた上司の姿です。
雄弁でもない、熱っぽく、しつこいくらい語って聴かされたビジョンでもない。
ただ、そのビジョンの中に、間違いなく存在していた上司の姿を見て、共感から同感に変わっていった時に、
今思えば、あれが「ベクトルが一致する」という感覚だったんだろうと思う。
本当のビジョンは実はとっても優しいもので、それを体現しているリーダ-の元でこそ、静かに共有されていくものなんだって
今はそう思えます。
そういう上司の元で仕事ができた時期があったことを幸せに思います。
心から感謝しています。
そして、心から尊敬しています。
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