関係の決裂の原因が「価値観の違い」だったという話ってよくある話なのかもしれません。
わからなくもないです。
決裂して「あっそう、はい、さよなら」って言ってしまった方が、ある意味、楽だったりもしますから。
生まれながらに気質として持っている変わりにくい部分もあれど、考え方や大切にするモノの「善し悪し」や「好き嫌い」の基準って、後にどんな経験をしたかによって変化すると思うし、変わり続けて当然なんだろうと思います。
ありきたりな言葉なんですが、価値観って、ホント人それぞれですよね・・・。
私自身も、新しく積み重ねた経験から価値観は変わってきているような気もしますし、自分を苦しめる価値観ならいっそ手放した方がいいんじゃないかと、安易に自分らしさを封印した時期すらありました。
いずれにせよ、価値観は皆んな違っている中で、
『「価値観を一致させること」が大事なのではなく、「価値観を理解すること」が大事』
と、口で言うことはこんなに簡単なのに、相手への思い入れが強ければ強いほど、価値観が一致していることに安堵を求めるがあまり、実際の違いの理解がこんなにも難しくなるのかと感じることもあります。
そんな時、「違いを理解したい」という思いが一致していたら、すこしは楽になるのではないのか?
前提が異なる者同士の会話、前提をそろえないままの会話は、交わるのに時間がかかったりします。
お互いが違いを知ってほしい、理解したいからこそ
「自分の価値観について隠さずに話をしよう」
「善し悪しや好き嫌いという判断を保留し、相手の耳を傾けよう」
そういう思いが一致していること、これだけでも結構安堵できたりします。
結果的に、いい意味で価値観が一致したりもし、何らかの強い結びつきが生まれたりもするのかもしれません。
新しく強いつながりを作っていく為に、改めて価値観の違いについて再考する夜です。
わからなくもないです。
決裂して「あっそう、はい、さよなら」って言ってしまった方が、ある意味、楽だったりもしますから。
生まれながらに気質として持っている変わりにくい部分もあれど、考え方や大切にするモノの「善し悪し」や「好き嫌い」の基準って、後にどんな経験をしたかによって変化すると思うし、変わり続けて当然なんだろうと思います。
ありきたりな言葉なんですが、価値観って、ホント人それぞれですよね・・・。
私自身も、新しく積み重ねた経験から価値観は変わってきているような気もしますし、自分を苦しめる価値観ならいっそ手放した方がいいんじゃないかと、安易に自分らしさを封印した時期すらありました。
いずれにせよ、価値観は皆んな違っている中で、
『「価値観を一致させること」が大事なのではなく、「価値観を理解すること」が大事』
と、口で言うことはこんなに簡単なのに、相手への思い入れが強ければ強いほど、価値観が一致していることに安堵を求めるがあまり、実際の違いの理解がこんなにも難しくなるのかと感じることもあります。
そんな時、「違いを理解したい」という思いが一致していたら、すこしは楽になるのではないのか?
前提が異なる者同士の会話、前提をそろえないままの会話は、交わるのに時間がかかったりします。
お互いが違いを知ってほしい、理解したいからこそ
「自分の価値観について隠さずに話をしよう」
「善し悪しや好き嫌いという判断を保留し、相手の耳を傾けよう」
そういう思いが一致していること、これだけでも結構安堵できたりします。
結果的に、いい意味で価値観が一致したりもし、何らかの強い結びつきが生まれたりもするのかもしれません。
新しく強いつながりを作っていく為に、改めて価値観の違いについて再考する夜です。
>「自分の価値観について隠さずに話をしよう」
>「善し悪しや好き嫌いという判断を保留し、相手の耳を>傾けよう」
>そういう思いが一致していること、これだけでも結構安>堵できたりします。
千差万別の人の生い立ちの中で、確かに価値観の一致を求めるのは、困難とも言えますね。
しかし、互いに何が違うのか。どうして違うのかを知り、どう付き合っていけるのかを探るということなら、われわれも何とか出来そうです。
今回のはるさんのコメントは、そうご自分に言い聞かせて
いるようにも読み取れたのですが・・・
少し俯瞰してみると、グローバリズムの吹き荒れる中で、世界中いたるところで、この価値観の違いからの紛争が耐えません。民族・宗教・政治経済的利害等々々。
それぞれの持つ利点だけを主張していては、接点はみつかりません。また互いに他を排除しようという思いだけでは、到底争いもつきません。
歴史上何が違うのか。どう違うのか。今後どう折り合っていけるのかを探る。その話し合いの土壌となる価値観というか、より大きな思想があるならば、この混迷の世界に、今それが求められていると強く感じます。
個人のつながりが、社会のつながりに。社会のつながりが、国家のつながりに。国家のつながりが、世界のつながりに拡張していく。そんな視点を忘れないで学んでいきたいと思っています。
少し飛躍しすぎました。が、TA理論から、それを包み込むより大きな理念へと勉強をすすめている今日この頃であります。
暑さ厳しき折、ご自愛下さい!
コメントありがとうございます。価値観は、例えば、お互いの価値観レベルに達した話を冷静に積み重ねるうちに一致することもあるかもしれませんが、全く重なりあうなんてことはないのかなあと思います。
おっしゃる通り、この記事は自分への言い聞かせでしょうね。
価値観が違いを認めず、強情に自分を保つのも、どこかでひずみがでるんですよ、私。もちろん、時間をかけて少しずつこなされていく相手の価値観なんてのもあり、未だに咀嚼しているものもあります。
つながりの件、同じ気持ちです。だから自分の身の回りのつながり、自分のドメインの中でのつながりを地道に作っていく、あるいは回復していく、そんなことの積み重ねが大きなつながりを生んでいくのかなあと思っています。
秋が近づいていることを感じます。また来週よろしくお願いします。
ご無沙汰してます。お元気でしたか?
価値観が違いすぎたり、ベクトルが異次元に行ってしまっていると、言葉そのものが通じなかったりしてしんどいものです。私の場合は、こっちがわかるように試行錯誤しながら歩み寄るも返って上手くいかなかったりなんてしんどい時期も今となっては懐かしい先の結婚生活です。
金沢・加賀・能登 みないいところです。育ったところも価値観を育てるには重要なファクターでして、私のこの「気位(きぐらい)」の高さも私らしさであり、コミュニケーション上、障壁にもなり「こんな私って理解されるのかなぁ」って時々後ろ向きになることもあります。
つきあうとは「突き合う」こととも言いますが、つながりが切れないように、多少のコミュニケーションのトラブルに涙することも必要なのかなあと思う今日この頃です。