ぶうちん村、風わたる。

風の吹くまま、気の向くままなんて、なかなかできませんが、楽しみを見つけながら過ごしたいものです。

国鉄・宮之城線の今  089

2009年12月12日 23時47分03秒 | Weblog
 プラットホームを大口側から川内側を見てみました。
 線路に入って遊んでいるのは、私の息子ですが、なぜかクレヨンしんちゃんのおしり歩行のスタイルをとっています。

 さて、そろそろ樋脇駅ともサヨナラをしなければなりません。樋脇には市比野温泉といって、島津の殿様が開いたと言われている古湯でも有名な町です。長湯しすぎましたね。そろそろ、出ないとのぼせそうです。

 というところで、宮之城線の歴史について、ひもときたいと思います。
 なぜなら、樋脇駅は宮之城線が開業した際、最初の終点だったからです。えっとお思いかもしれませんね。宮之城線は川内町駅(現・川内駅)から部分開業を繰り返しながら、大口までつながった路線です。

 宮之城線建設の発端は、鹿児島の鉄道の歴史を振り返らなければなりません。

 1894(明治27)年に、宇土(熊本県)~八代~鹿児島の着工が決定しました。 ここで問題となるのは、八代~鹿児島間のルートのとり方です。
 この間には、いわゆる三太郎峠と言われる交通の難所があります。またこの峠を避けて球磨川沿いのルートをとっても平野部は少ないのです。

 国力が増強し、国防戦略を描く力を持ちつつあった日本はこの年、日清戦争を始めました。この後、日露戦争以降まで続くこの時代に、このルートが建設されるわけですが、国(鉄道省)は艦砲射撃の標的にされる海岸沿いのルートを避け、山間部を通る球磨川のルートを選択しました。
 かくして、まず吉松~国分(現・隼人)~鹿児島ルートが日露戦争直前の1903(明治36)年に開通しました。そして、1909(明治42)年に八代~鹿児島が開通しました。現在では肥薩線と言われるルートですが、これが初代・鹿児島本線になります。
 しかし、このルートの決定的な弱点は人吉・吉松間にある山地・矢岳です。天然の要害とも言うべきこの山地を越えるために、大畑のループ・スイッチバック、真幸のスイッチバックを建設せざるをえなかったことは、輸送力の増強に限界があることを露呈していました。

 さらに言えば、矢岳の人吉側は直線距離にして約20㎞で500mもの標高差に到達しなければなりませんでした。これはトンネルの掘削技術の問題です。矢岳の最も高い所を通る矢岳第一トンネルは約2㎞の長いトンネルですが、その割には機関車に負担をかけないための深い場所は通っていません。
 このルートの厳しさは実は平成まで続きます。九州縦貫自動車道路建設の最後の難関がここだったのです。長~いトンネル工事を行う現代の技術があったからこそ九州道は開通しましたが、明治時代に同等の技術は求められませんでした。

 1910(明治43)年、日露戦争に勝利した後、不平等条約の改正を完了し、世界の一等国のなかま入りを果たした日本にとって、もうアジアに恐い国はなく、海防の不安はありませんでした。この年、海沿いの八代~出水~川内~鹿児島ルートが決定し、八代・鹿児島の両方から工事が始まりました。ただ、これが難工事となったのです。
 
 そして、これが宮之城線の開発を促すことになると同時に、宮之城線の生まれながらの不幸につながることになってしまったのです。



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国鉄・宮之城線の今  088

2009年12月12日 23時43分48秒 | Weblog
 踏切の近くには、車輪があります。
 
 わびしさはどうしてもぬぐえないものの、短い線路の上に置かれるよりも、こちらが、ずっといいですね。
 できたら転がせたらいいのですが・・・無理か。
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国鉄・宮之城線の今  087

2009年12月12日 20時19分10秒 | Weblog
 086にも少し写っていましたが、反対側のプラットホームへ渡るための?警報機です。

 ちょっと無理があるよな~。
 苦笑してしまいます。

 狭い敷地内にコンパクトに収めて、少しでも遺構を残したいという思いは分かるのですが・・・。
 
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