089の写真を撮影した場所は、写真のように、盛り土になっています。線路が途切れたかと思いきや、整えられることはなく、そのままの土手になっています(笑)。
さて、宮之城線の歴史を、089に続けて振り返ってみたいと思います。
1910(明治43)年に、八代~出水~川内~鹿児島の海沿いルートが、新線の予定線とされ、双方から工事が始まりました。ただし、この頃はまだ鹿児島本線ではなく、川内線と呼ばれていました。
1913(大正2)年、鹿児島~串木野間が開通し、翌年の川内町駅までの開通ならびに開業がはっきりとしたこの年、川宮鉄道株式会社が設立され、会社名の通り、川内と宮之城を結ぶ私鉄構想が企画されます。
折しも1914(大正3)年からヨーロッパで第一次世界大戦が勃発し、日本はそれまでの貿易赤字を一挙に返済する貿易黒字になり、空前の好景気を迎えました。お金を燃やして灯代わりにした富豪が「どうでこれで明るくなったろう」と言っているあの絵の時代です。
川宮鉄道は1917(大正6)年5月に川内町駅~樋脇駅間の工事に着手しました。ところが、翌年、ドイツは敗北、終戦となった途端、それまでの輸出超過は一気に冷え込んでしまいました。しかも、輸出のために物価は高騰していました。今度は空前の不景気の到来です。
建設資材の調達がうまくいかなくなり、遂に川宮鉄道は1920(大正9)年11月に解散してしまい、鉄道工事は中止に追い込まれました。
しかし、予定されていた沿線住民の熱は冷めていませんでした。むしろ熱くなっているとも言えました。というのも、1922(大正11)年には川内線が川内町から西方駅へ、そして阿久根駅まで開通していたからでした。
沿線住民はきっと八代~人吉~鹿児島に代わる新しいメインルートとしての宮之城線をイメージしていたにちがいありません。
その証拠に、1921年に栗野駅~山野間が開通していました。しかも1922年には山野~水俣間の計画も打ち出されていました。となれば、阿久根経由のルートを主とするのか、宮之城経由のルートを主とするのかの競争意識が働いていたとみるのが当然でしょう。
その熱意が報われます。1923(大正12)年2月に、国(鉄道省)が川宮鉄道の事業を引き継ぎ、11月には薩摩大口駅までの全線の工事に着手することになりました。
そして、1923年10月・川内線が米ノ津まで開通。1924年10月・宮之城線が樋脇まで開通。
1925年・肥薩線が佐敷まで開通。
1926年5月・宮之城線が宮之城まで開通。7月・川内本線が水俣まで開通。9月・肥薩線が湯浦まで開通。これで勝負ありでした。残された工事区間の長さを考えたら宮之城線の敗北でした。しかも、第一次世界大戦以降、何度もの恐慌で回復の余裕を持たなかった日本経済は1929年の世界恐慌によって、国策の優先順位は次第に軍関係にシフトしていった時代でした。
地理的に見て、高低差が少なく物資の輸送力があるのは宮之城ルートではなく、出水・水俣ルートでした。当然、こちらが重視され、予算配分も大きくなったのではないでしょうか。
1927(昭和2)年10月、八代~出水~川内~鹿児島ルートが全線開通しました。
そして、宮之城線全線開通の熱意はここで急速におとろえてしまったかのようでした。宮之城~薩摩鶴田間は約8㎞。しかも田んぼの中を走っていく部分がほとんどであるにもかかわらず、この区間が開通したのは1934年(昭和9)年7月でした。
さて、宮之城線の歴史を、089に続けて振り返ってみたいと思います。
1910(明治43)年に、八代~出水~川内~鹿児島の海沿いルートが、新線の予定線とされ、双方から工事が始まりました。ただし、この頃はまだ鹿児島本線ではなく、川内線と呼ばれていました。
1913(大正2)年、鹿児島~串木野間が開通し、翌年の川内町駅までの開通ならびに開業がはっきりとしたこの年、川宮鉄道株式会社が設立され、会社名の通り、川内と宮之城を結ぶ私鉄構想が企画されます。
折しも1914(大正3)年からヨーロッパで第一次世界大戦が勃発し、日本はそれまでの貿易赤字を一挙に返済する貿易黒字になり、空前の好景気を迎えました。お金を燃やして灯代わりにした富豪が「どうでこれで明るくなったろう」と言っているあの絵の時代です。
川宮鉄道は1917(大正6)年5月に川内町駅~樋脇駅間の工事に着手しました。ところが、翌年、ドイツは敗北、終戦となった途端、それまでの輸出超過は一気に冷え込んでしまいました。しかも、輸出のために物価は高騰していました。今度は空前の不景気の到来です。
建設資材の調達がうまくいかなくなり、遂に川宮鉄道は1920(大正9)年11月に解散してしまい、鉄道工事は中止に追い込まれました。
しかし、予定されていた沿線住民の熱は冷めていませんでした。むしろ熱くなっているとも言えました。というのも、1922(大正11)年には川内線が川内町から西方駅へ、そして阿久根駅まで開通していたからでした。
沿線住民はきっと八代~人吉~鹿児島に代わる新しいメインルートとしての宮之城線をイメージしていたにちがいありません。
その証拠に、1921年に栗野駅~山野間が開通していました。しかも1922年には山野~水俣間の計画も打ち出されていました。となれば、阿久根経由のルートを主とするのか、宮之城経由のルートを主とするのかの競争意識が働いていたとみるのが当然でしょう。
その熱意が報われます。1923(大正12)年2月に、国(鉄道省)が川宮鉄道の事業を引き継ぎ、11月には薩摩大口駅までの全線の工事に着手することになりました。
そして、1923年10月・川内線が米ノ津まで開通。1924年10月・宮之城線が樋脇まで開通。
1925年・肥薩線が佐敷まで開通。
1926年5月・宮之城線が宮之城まで開通。7月・川内本線が水俣まで開通。9月・肥薩線が湯浦まで開通。これで勝負ありでした。残された工事区間の長さを考えたら宮之城線の敗北でした。しかも、第一次世界大戦以降、何度もの恐慌で回復の余裕を持たなかった日本経済は1929年の世界恐慌によって、国策の優先順位は次第に軍関係にシフトしていった時代でした。
地理的に見て、高低差が少なく物資の輸送力があるのは宮之城ルートではなく、出水・水俣ルートでした。当然、こちらが重視され、予算配分も大きくなったのではないでしょうか。
1927(昭和2)年10月、八代~出水~川内~鹿児島ルートが全線開通しました。
そして、宮之城線全線開通の熱意はここで急速におとろえてしまったかのようでした。宮之城~薩摩鶴田間は約8㎞。しかも田んぼの中を走っていく部分がほとんどであるにもかかわらず、この区間が開通したのは1934年(昭和9)年7月でした。