ぶつぶつ地蔵

地蔵 呟く ひーの言葉を。ぶつぶつと…。

コメント大歓迎!BUT訳の解らない書き込みはザクザク消しますッス!

孤独の螺旋

2010-04-30 15:15:31 | 思考の森
「自分」と言うものの存在を唯一証明できるモノが、自分は自分であるという意識・・・「識」だとするならば、存在する「今」を証明するのも「識」と言う事になる。
「識」のある場所が、「自分」であり「今」と言う事。

さてそーすると、「識」とゆーのは沢山あるのか、否か。

沢山の「識」が存在する世界であるなら、「自分以外のもの」がいるという事。
自分の「識」の隣に誰かの「識」が存在し、「同じ今を共有する」事となる。


しかし「識」は一つしか存在せず、現在過去未来を縦横無尽に行き交っているモノならばどうだろう?


時間とは、実は一方方向に流れて行く川の様なものではなく、漠然と大きな流れのない池(もしくは沼)のようなものだとしたら?
ぽつんと針で指し示すように、意識が表面だったり深い部分だったりいろんな所でポッと点るとしたら・・・

「識」の居場所は、過去でもあり現在でもあり未来にもなりうる。
今感じている意識がAの階層の3の地点でも、別の瞬間ではBの階層の5の地点かも知れない。Aの階層の2の地点だって在りうる。
「識」のある地点を結んで「自分」を構成しているのかも知れない。

自分以外の誰か。
自分以外の何か。
全てのものが自分の意識の残像で、残像と残像をつなぎ合わせて別の何かを感じているとしたら。

私は私であり、あなたにもなりうる。
私は過去の人物であり未来の人物なのかもしれない。


私が話しているアナタは、違う瞬間の私の「識」かもしれない。
私があこがれるあの人は、別の瞬間の私なのかもしれない。
理解の外側にいる人だって、お猿だってトラだって、三日月藻だって。ひとつの「識」しかないのなら、私なのかも知れない。

今、小石を蹴とばした足を持つ私と、蹴飛ばされた小石の私。
そう。無機質と言われているものだって、私の可能性がある。


ぐるぐる廻る進化の螺旋の全ての位置に、存在できるのかもしれない。
ぐるぐる廻る自然の螺旋の全ての位置に、私は存在しているのかもしれない。

私だけが存在しているのかもしれない。



そう考えると、この世・・・過去から未来永劫、私という「識」しか存在しないのかも知れないなんて、思うのでありました。

千年の孤独。
万年の孤独。
過去から未来から触れられるものすべて、孤独。




人気ブログランキングへ
↑考えが飽和状態。プシューっとなりつつポチっとな♪
*・゜¨゜゜・*:ランキング参加中です:*・゜¨゜゜・*


携帯からはこちら→

最新の画像もっと見る

コメントを投稿