ぶつぶつ地蔵

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清盛と平家物語

2012-06-11 18:23:22 | 思考の森
京阪グループ主催の文化フォーラムに参加してきました。
テーマは「平清盛と平家物語」でございます。

企画立案の高島幸次教授によれば、NHKに便乗企画とのことですが、ここ数年、清盛に興味のあったオイラといたしましては、とっても嬉しい企画でした。

オイラの気になった部分の覚書です。
興味のない方は、スルーでお願いします。
メモを書いたレジュメを元に、記憶を掘り起し書いてます。間違ってたらご指摘くださいませ^^;



第一部 清盛の人物像
関西学院大学非常勤講師 岩田 慎平

平清盛とはどんな人であるか。
文献に残された当時の社会の在り方と、清盛を表す記述から清盛とはどんな人物であったかを検証する・・・というもの。
清盛の実像に関しては知っている内容が多かったのですが、清盛の生きた時代の背景に関しては知らないことばかりで、とっても面白かったです。

知っていた清盛像・・・
●面白くない話にも笑ってあげること。
●身分の低いものでも、その家族の前などではきちんと一人前の人として扱うこと。
●寒い日には幼い従者には裾(布団の端)を貸してあげて、朝目覚めた時に従者が寝てたら起こさずにゆっくり休ませてあげなさい。
などと言い聞かせていたらしい。。。(笑)
坊主頭の恐ろしいタコ入道(え?そんな風に思ってないって?)ではなく、とっても思いやりある優しい清盛が浮かび上がる内容です。
これは十訓抄に載っている清盛に関する記述です。(オイラ、十訓抄は読んでないので^^;清盛関連の資料として抜粋で知ってたにすぎません。っつか、十訓抄持ってないし。)


新たに知った、当時の貴族社会の常識及び武士の仕事
●位と職種はイコールではない。一位~五位までが貴族と呼ばれる位。五位以上の位を持つ武士であれば貴族に属し、この場合、軍事貴族と呼ばれた。貴族は昇殿を許されるなど、特権を与えられている。
備考 一位~三位:公卿・公達 四位・五位:諸大夫(中級下級の貴族) 六位:侍 以下無官:凡下
●当時の高官は学問が優秀であるだけでなく、立ち居振る舞いも美しく、見目の麗しさも大きく登用に関係していた。(容顔美麗・・・要は、賢いだけじゃ採用されないってこと。)
●当時の武士は、今日思われがちな幕末までの一括りの武士ではなく、戦闘能力だけでなくそれに加え国司としての文筆能力や和歌や舞をたしなむことが出世の糸口となった。
中央貴族(天皇の側近など)との継続的な縁故関係が重要。
●当時の大臣就任条件
大納言(大臣と共に政務を行う、また大臣のいないと時には代行も行う)の中で近衛大将(軍官の最高位)を兼任し春宮職(東宮の内政に携わった者)を経験している者、一世源氏(天皇の子息で源姓を拝領し臣籍降下した者)、二世孫王(天皇の孫で臣籍降下していない者)、摂関や大臣の子息及び天皇の外戚
内大臣は代々内大臣を輩出している家柄か摂関家もしくは王家の血縁者でなければならない決まりであった。



結論
当時の社会では、もともと生まれ持った氏素性に加え、見目麗しくないと重宝されない。
そういう意味で、清盛もこの時代の通例に従った知識・容姿を持ち合わせていたと考えられる。
そして清盛の1166年の内大臣への昇進の意味するところは、今の世の中と違いいくら財力や権力や知性を持とうとも、家柄がなければ政治の中核を担う内大臣になることは出来ない当時の政治の世界。伊勢平氏の家柄は過去を遡っても内大臣になれる家柄ではないため清盛が内大臣に任ぜられるということは、すなわち家柄以外の条件を備えていたことを意味する。それは王家の血筋であること以外に考えにくく、清盛と天皇との近親関係で唯一考えられるものは「落胤」以外には考えられない。
いやいや、財力と武力で大臣の座を奪ったのでは・・・という考えもできるが、そうであれば、当時慣習に則っていない登用に対し貴族の日記などに「あんな人が大臣になるなんて」という陰口がかかれるはずだが、それが見当たらない。
それを鑑みると、当時、すでに清盛がその地位を取得するに足る人間であることが政治的に周知であったことがうかがわえる。
(「あんな人がなるなんて」はその権利のない人がその地位に着いたことを指す。「あの人には任せられない」は権利はあるがその能力がない場合を指す。清盛の場合、そのどちらの非難も残っていない。)
そう考えると、平家物語の描く清盛と実像には大きな違いがあるといえる。


清盛の取った平家発展のための策
軍事能力に長けた平家に足りないものは文筆、芸能の素養だと清盛はわかっており、文官平氏(代々朝廷へ文官を輩出していた平氏)の娘である時子との婚姻を進めたのではないか。
先生曰く「もしそうであれば、武力に頼らない正当な政権者を思い描いていた」のではないか。

時子との間に生まれた子供
宗盛:太政官政務にて実務能力を示す
知盛:蔵人頭(天皇の秘書的官職)の候補に挙がる。人望があり、武力編成も巧みであった。
重衡:吾妻鏡に「云言語、云芸能、尤以優美也」と書かれている。南都焼討の総大将。


岩田先生のお話とスライドは、レジュメから外れることなく進み、脱線することがありませんでした。
もっと脱線話も聞きたかったなぁ。。。




第二部 万華鏡・平家物語
神戸大学大学院准教授 樋口 大祐

平家物語の編纂された時代背景や平家物語が持つ政治的意味などを踏まえ、万華鏡と銘打ち、朗読を交えながら物語をいろいろな方角からひも解く。

●平家物語とは水滸伝と同じように、多くの語りで広まっていた逸話を編纂したもの。数多くまとめられたものの中でも、現在一般的に読まれている平家物語は、琵琶法師の語りのために編纂された明石覚一による「覚一本」と言われるもので、平家が滅んでから200年ほど後にまとめられたものである。
●平家物語の内容は、権門体制の政治文化が、1156年から1221年の動乱の時代を経て、鎌倉幕府が朝廷を支える形で再編される過程を描いている。
●平家が世を治めている時までは、あくまで天皇を中心とした政権であった。平家滅亡とともに鎌倉幕府が樹立する。これより後、公武二重政権体制は江戸末期まで約700年間、幕府が滅亡するまで存続する。
●平家物語の存在は、幕府が樹立するに当たりその正当性を物語るアイテムとしての側面と、政権から排除された人々や平家の公達の鎮魂・悲話との二面性を持つ。
●清盛の政治的悪は4つ。
 1.権門体制を組み替えようとした。
 2.クーデターで政権を奪取。
 3.福原遷都
 4.南都焼討
●今日の日本人と清盛の関係は、700年間幕府が続いたという事実の上に作られており、また一番多く伝承されたものが平家物語であったため、清盛=政治的に悪を行った人という擦り込みがある。これが清盛に対し「なんとなく合わない」という気質を生んでいるとも言える。言い換えると、清盛にスポットを当てることで700年間続いた公武二重政権を考え直さねばいけなく、その正当性をも揺るがす可能性を清盛は持っているといえる。

読物としての平家物語(朗読)
●巻一「祇園精舎」
当時の最高知識人は僧侶であった。仏教の涅槃経に基づく無常観を物語る。この無常を説きつつ、内容は宮廷の中核に迫り歴史的理念へと変化する。ドラマチックな構成。
●巻三「足摺」
ここで描かれる「鬼界が島」のイメージは、都から見たイメージであり、島の実像ではない。(これは崇徳上皇の流された讃岐も同じである。)
ここでの清盛の悪は、安徳帝の誕生により恩赦されたのが三人ではなく二人であったことである。
●巻五「月見」
福原遷都後の京。遷都を拒んだ二代の后・多子の元に兄徳大二実定(反平氏政権の人)が訪ねてくる。うらぶれた京のもの悲しさと今様を盛り込み、源氏物語のエピソードを引用してた、王朝絵巻の雅を思わせる段。
●巻五「物怪之沙汰」
平氏から頼朝へと政権が映ることを暗示する段。
●巻五「早馬」
頼朝の挙兵。清盛は命を助けたことに対する忘恩を憤る。
●巻六「入道死去」
二位の尼の無間地獄の夢から清盛の死。死の間際、二位の尼に対し「死したのち、極楽への作法・法要は要らず。自分が死した後は、すぐさま頼朝を討ちその首を供えよ」と遺言する。
●巻九「敦盛最期」
一の谷で散った敦盛の悲話。平家の公達には笛上手が多かった。
当時の貴族の認識として、武力をふるうだけのものに対しては同情を覚えないが、和歌や舞、笛などをたしなむ公達には今の自分たちの姿を投影することができ、憐憫の情をもつことができた。
これはすべての人に対してではなく、限られた文化を共有している者に対してだけの鎮魂を意味する。
●巻十一「先帝身投」
壇ノ浦の入水。源氏にとらわれることを潔しとしなかった二位の尼に抱かれて、安徳帝は波の下の都へと旅立つ。



第三部 講談
清盛の末期 ~源平盛衰記から~  講談師 旭堂南陵

講談、初めて聞きました。南陵師の見解なんかもいっぱい入って話してくださるので、解りやすくて面白かったです!




セミナーの感想
実は清盛に興味を持ちつつも平家物語を読んではいなかったので、今回のセミナーで知らなかったことをたくさん知った。
涅槃経や法華経、源氏物語などたくさんの知識の下敷きの上に作られた物語であるとともに、そのドラマチックな展開以外に幕府政権を肯定する面もあると。
ただの物語ではなく、いろんな意図が絡み合った複雑な物語だったんだなぁと思いました。
だからと言って、読み始めてはないんですが^^;
でもでも、深い。面白い!って思いましたね。
平家物語の骨格は、古事記や日本書紀と同じ「正当性」を示すもの。そして当時の宮廷の在り方を理解し、そして清盛の実像も加味し、そうして源氏物語を読むと本当に面白いんだろうと思います。
ちなみに朗読の敦盛では、不覚にも泣いてしまいました^^;だって、直実の気持ちとか敦盛こととか考えたら泣けちゃったんだもん。
安徳帝入水ではやはり、内海清美さんの人形が浮かんだしねぇ。。。(って、清盛の死のシーンもだけど。)

もう少し、清盛勉強しなくっちゃ&したい!と思ったセミナーでした。

個人的には樋口先生のお話が面白かったな。
あと、高島先生のおっしゃった某知事への言葉。
太宰治の「右大臣実朝」の一節、「平家は明るい。明るさは滅びの姿であろうか。人も家もまだ暗いうちは滅亡せぬ」
太宰は明るいときこそ滅亡の兆しがあると言っているのである。
高島先生曰く、某ドラマの初めは暗くて当然なのだと。これから栄華を極める平家のはじまりは暗くて当然。きっとこれから明るくなりますよ、と。(笑)

オイラはその某ドラマをすっごく楽しんで見ているのですが、世間ではやはり受け入れが悪いそうですね。
でも、それでいいのだそうです。清盛はそーゆー、日本人の心に引っ掛かる存在なのだから。清盛を題材にするということは世の中に何か不安を掻き立てる賽を投げ込んでいるようなものだからと樋口先生がおっしゃってました。基本、日本人はアンチ清盛って。(え?先生の話を脚色しすぎ?いや、こんな感じの内容でした!たぶん^^;)
オイラは今回勉強したことを踏まえながら、今まで以上にドラマを楽しむのであります♪







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