山岳ガイド赤沼千史のブログ

山岳ガイドのかたわら、自家栽培の完全手打ち蕎麦の通販もやっています。
薫り高い「安曇野かね春の蕎麦」を是非ご賞味下さい

「金とく」日本最後の秘境・黒部源流 ~清流の最初の一滴を求めて~放送

2015年10月14日 | ツアー日記

またまた番組宣伝で恐縮ですが、この夏、NHK富山さんとロケハン、ロケ含めて同行させて頂き相当な日数をかけて撮影した番組が放送になります。

NHK「金とく」日本最後の秘境・黒部源流 ~清流の最初の一滴を求めて~

が10月16日午後8時から放送となります。

残念ながら、放送は東海北陸7県のみとなります。

金とくホームページ

出演はご存じテレビや舞台で大活躍のこの方、金子貴俊さん

撮影は8月末から9月にかけて行われましたが、早々と出現した秋雨前線がいすわり、来る日も来る日も雨また雨、担当ディレクターはついに40度オーバーの高熱を出すという困難を極めた撮影となりました。

「我々はいったいどうなるんだろう?」

その答えは誰にも解らなかったと思います。

そんな中でも、金子さんいやな顔ひとつせずに、そんな不条理を楽しんでいるかに見えました。

今思い出しても、色んな思い出が蘇ります。

寒い、冷たい、なんにも見えない、道はぐちゃぐちゃ。

「それ、カメラ壊れないですか?」

「壊れるかも知れないすね」

降りしきる雨の間隙を縫って、または30分も冷たい黒部の水に浸かって果敢にカメラを回すカメラマンや音声さん達、

困難な状況下では自分の面倒見るのが精一杯なのに、雨に弱い機材の面倒まで見ることの大変さ、ほんとに頭がさがります。

さて、苦悩の撮影隊は一体どうなったのでしょう?

果たして天使は微笑んでくれたのか?

ご覧になれない地域の方々は親戚縁者、友人知人、何でも頼って録画してもらって下さいね。

請うご期待!

 

 


毎日ツアー裏劔岳

2014年10月14日 | ツアー日記

 台風18号がやって来ようという10月5日、ツアーは決行された。新宿を夜半前に出た毎日ツアーのバスに、未だ明けやらぬ朝5時、僕は道の駅「親不知ピアパークで」合流した。夜行バスで山には入るツアー会社が次第に減っている中で、この会社なかなかのものである。しかも、台風18号は関東を直撃しようかというコースで北上していた。こんな時キャンセルするお客さんも多いのだが、それも殆ど無く、皆さんそれぞれの自宅を捨てて?の裏劔ツアーへの参加である。

 「問題は初日だけ・・・・・・・ならばその日さえ何とかやり過ごせば、台風一過の素晴らしい山行が楽しめる。」

こんな時、僕はいつもそう考えるのだ。天気予報は当たるも八卦、あたらぬも八卦。台風などはその八割方山行には関係無くて、多少荒れたとしても行動は十分可能である。台風が通過すれば、その後には殆どの場合好天がやってくる。千切れる雲、抜けるような青空。嵐から回復する空は実にドラマチックだ。そんな様を自分の体で感じることが出来る訳だから、行かぬ手はないと僕は思うのだ。天気の良いところばかりを歩こうなんて、虫が良すぎる話でもある。

 到着した室堂はやはり雨が降り始めていた。台風一過の立山劔周辺は、寒気が流入し雪になる予報。携帯やラジオで情報を集め、早めの出発が吉と判断する。風は未だ穏やかで、台風が近くに居るとはあまり感じない。雷鳥沢から別山乗越を越えるまではとても暖かく合羽の中は汗ばむ程だった。

 しかし、天候は激変した。劔御前小屋で少し休ませてもらっているわずかな間に急に風向きが北向きに変わると、猛烈な吹き下ろしの冷たい風が吹き始めた。ミゾレではないが、雨は冷たい氷雨である。本日の宿泊地「劔沢小屋」への40分程の間に我々の体はすっかり冷え切り、体はカタカタと震えた。小屋に入ろうにも殆ど全員の両手は痺れ靴紐を緩めることが出来なかった。

 こんな時に何かあったらと思うと、ぞっとする。低体温症になり易いのは、まさしくこんな季節なのだ。例えば誰かが転んで怪我をしたとして全員がそれを待たなければならないとしたら・・・・・・・五分、十分待つだけで、あっという間にかなりの人は低体温症になりかけるだろう。行動時間が短く、先が見えている状態だから劔沢まで来られたが、これ以上の行動が必要ならば、御前小屋に宿泊すべき状態だったろうと思う。十月は天候さえ良ければ、夏山とさほど変わらない。だが、台風や寒冷前線が通過すればその殆どの場合、背後には寒気が降りてくる。気をつけなければならないと思う。

 外では、断続的ではあるが荒れ狂う風と叩きつける雨が一晩中続いていた。しかし劔沢小屋はとても暖かく快適だった。

 夜明け前、妙に静かになった外に出てみると、ようやく白み始めた劔沢周辺の景色は一変していた。小屋前で5センチの積雪。お客さんの歓喜の声。劔岳が星空に白く浮かび上がっている。次第に明け行く空に興奮したり、寒いからまた引っ込んだり、忙しいお客さん。後立山連峰から顔を出した太陽に照らされて輝く劔岳。初冠雪である。視線を谷底に向ければ、色づく紅葉は未だ影の中にようやく見て取れる程度だ。積雪の下りには少し不安があるがいい日になる予感に溢れていた。

 劔沢小屋の新平君に劔沢雪渓の状況を聞いて出発した。幸いにも雪は滑りにくく、アイゼンなしで問題なく下ることが出来た。雪渓に降り立ちアイゼンを履いた。例年に無く積雪は多めで、新平君から聞いたポイントを注意して下って行く。平蔵谷、長治郎谷・・・・・上部には雪を頂く劔岳、未だ陽の入らない谷越しに臨むそれはまるで幻のように見えた。

 既に営業を終えた真砂沢ロッジを通過して二股の橋を渡ると、八峰の裏側に三ノ窓雪渓が姿を現す。ここでまるで回り舞台を回すかのように新たな世界が展開する。いよいよ僕らは、裏劔の領域に踏み込んだのだ。この美しい三ノ窓雪渓は、数年前氷河であることが確認された。新雪を頂く八峰上部とチンネ、素晴らしい紅葉の谷を流れ下る日本の氷河「三ノ窓雪渓」。誰もが感嘆の声を上げる。他はどこだと言われても困るが、もし日本の絶景五指を選ぶとしたら、ここは絶対に外せないと僕は思うのだ。しかもここへやってくる事はそう簡単な事では無い。頑張った人にだけ与えられる、特別なご褒美・・・・・そんな感じ。

 劔沢から離れて、仙人新道を登り、池ノ平周辺を散策した。その日の後半、まだ残る寒気のためか、次第に辺りはガスに包まれてはしまったが、最高の裏劔を我々は堪能した。そしてそのハイライトは仙人池に尽きるのだ。

左が三ノ窓雪渓、右は小窓雪渓。いずれも氷河である。

池ノ平をグルリ

池ノ平はかつてモリブデン鉱山だった、そこ此処に鉱山道があり、その先には坑道跡が存在する

仙人池ヒュッテ脇に姿を現したオコジョ 超キュート!

月夜に劔を映す仙人池

未明  月に劔岳

 仙人池ヒュッテに入り夕焼けの裏劔を期待したがそれは叶わなかった。茜空に浮かび上がる、漆黒の劔岳八峰のシルエットは、あり得ない美しさだ。一回の訪問でそこまで見せるのは神様もサービスのし過ぎってものだ。この小屋に毎年通い、長期滞在をするカメラマン達が大勢いる。みんな、最高の仙人池を撮りたくて、おかしくなってしまった人達ばかりだ。人をそこまで虜にさせる仙人池、それは特別な場所なのだ。北アルプスの宝石である。

消灯間近に雲は切れ無風の仙人池には月夜に照らされた劔岳がはっきりと見て取れた。皆が眠る小屋を静かに抜け出してカメラに納めた。

朝日に焼ける仙人池

 三泊目の阿曽原(アゾハラ)温泉までは、スリリングな仙人谷沿いの下降と、雲切新道の下りとなる。侮れないこのルート。不安定なザレ気味の草付き斜面を横切りながら下るこのルートは、失敗したら数十メートル滑落してしまう場所もそこ此処に点在する。ぼくに出来る事は、注意喚起をするだけで、あとはそれぞれに任せるしかないのが実際の所だが、下りと言うこともあって、他とは違うなんかいやな感じがする所なのだ。初日の氷雨の別山乗越越えもそうだった。少し大袈裟かも知れないが、何気なく歩けるこんな場所にも実は生と死の境界線が存在しているのだと強く感じる、此処はそう言うルートだ。祈るように先頭を歩いた。

折尾の大滝

 三泊目、阿曽原温泉で野趣溢れる温泉を堪能する。屋根もなければ脱衣所もない。「見るなら見ろい!」というこの露天風呂。僕が入った男の子の時間は、皆大人しくしみじみした感じで入浴していた訳だが、我がパーティーの女性客に聞けば、なんと女の子の時間にはナイスバディーの若い女性三人が、全裸でダンスをしていたというではないか!この露天風呂の開放感は半端ではないと言うことだが、そんな女性の光景を見たいような見たくないような・・・・・・微妙な僕である。

この日谷間ながら皆既月食も見ることが出来た。なんとドラマチックな山旅であろう?

大太鼓付近

 最終日、旧日電歩道を欅平へと歩く。この道は黒部川の電源開発の為に作られた道だが、谷底までの高度差は高いところで300メートル程もある。概ね80センチ程の道幅があるから、廊下をまっすぐ歩ける人なら大丈夫と思うが、垂直の壁に掘り切られた道や、丸太で作られた桟橋を谷底を見ながら通過するのは、ガイド的にはあまり気持ちが良いものではない。間違って足を滑らしたら、一巻の終わりである。欅平の広場に降り立つまで僕の祈りは続いた。

 黒部峡谷鉄道のトロッコに乗るのは、果たして何回目だろうか?数え切れないほど乗った。その車窓から見る景色は、あまりにも見慣れてしまって何も感じなくなってしまった僕だが、それは心の底からほっとしてウトウト居眠りをする至福の時なのである。

知らずにまたいだマムシ お客さんが発見し騒然とする。

 


BSTBS日本の名峰絶景探訪「劔岳」二週連続放送

2014年10月04日 | ツアー日記

8月に撮影が行われたBSTBS日本の名峰絶景探訪シリーズ「劔岳」がいよいよ10月11日(土)と18日(土)、二週に渡って放送されます。

好天の中、全スタッフノリノリの撮影でした。

もともと8月の放送予定が10月に延びて、編集もじっくり時間を掛けての自信作となっているはずです。

ご覧頂ければ幸いです。

放送日は

10月11日(土)21:00から

10月18日(土)21:00から

劔岳ロケブログはこちら

 


明神岳日帰り縦走

2014年09月12日 | ツアー日記

明神の岩峰群

9月3日、 午前3時に上高地西糸屋を出発して未だ明けやらぬ岳沢を登る。深い森は静まりかえっていた。風は無く、樹間からは、ちらちら星が見える。僕らの足音も、照らすヘッドランプの光もその深い闇に吸い込まれていくようだった。

 一般登山道から外れて、明神へのルートへ入ると道はいきなり急坂となる。ようやく白み始めた空の気配も、この深い栂の森に光を注ぐまでにはまだまだ時間が掛かりそうだ。ヘッドランプを振っては踏み後を外さぬよう慎重に登った。時に両手で木の根を掴み、時にクマザサをかき分けて闇を登る。

 ようやく明るくなる頃、ぼくらは明神南西尾根に登り上げた。ルートは相変わらず急坂のままだ。だが、ぐいぐい高度を稼ぐ感じが気持ちが良い。本日の行程は上高地を出て、明神岳を縦走し前穂へ登る。そしてそのまま岳沢に下降し上高地に戻ると言うものだ。日帰りの明神岳はそれなりに体力が充実しているメンバーでないと難しいルートだ。長丁場の上、不安定なルートへの配慮も常に要求される。二峰では懸垂下降も必至。更に前穂高岳への大きな登りが待つ。あせってもしかたが無いが、早めに高度を稼げる事は、少なからず僕らに心の余裕を与えてくれた。

 森林限界を超えると、ハイマツと岩の世界となった。それまでの一筋の道は不明瞭となり、これから迎える岩の稜線を行くにはしっかりとしたルートファインディングが必要になる。ここを訪れる多くの人が、それぞれに道を探し、最適と思うルートを歩く結果、踏み後は網の目のように存在して、果たしてどれが正しいのかと言うことは言えないだが、梓川側はすっぱりと切れ落ちた岩壁である。行き詰まれば岳沢側に活路を見つけながら僕らは進んだ。目の前に三峰、二峰、一峰の岩峰群が次第に迫って来る。

五峰にて登山者を導く古いピッケル

シコタンハコベ

二峰を懸垂下降で

 二峰の下降はすっぱり切れ落ちた岩壁である。ここは2ピッチの懸垂下降ポイントだが、ワンピッチ目は梓川側をクライムダウンし2ピッチ目を懸垂下降とした。もちろん滑落は許されないから、ロープ使用は必至である。奈落の底を見ながらの下降は恐ろしくもあり、また楽しくもありなのだ。しかし、わざわざこんな事をしたくて朝三時に歩き始めてここを訪れる。登山者とはかなり変わった人種であると今更ながら思うのだ。

 無事、一二峰間のコルに達するとカップルの対向者とすれ違った。後から知ったのだが、友人の先輩Kガイドとお客さんだった。コルから躊躇無くするするっと登り行くKガイド。まさに熟練の技である。

 コルからガラガラの急斜面を落石を落とさぬよう登り上げて明神岳主峰に到達した。快晴だった空にはガスが沸き、これから進む前穂高岳の姿を臨むことは出来ないが、ここまで来れば気分は大分楽になる。ルートファインディングさえ間違わなければそれほどの困難もなく前穂まで快適に歩くことが出来る。出発から7時間半、ようやくぼくらは前穂高岳に到着した。今回のお客さんは二人の女性だが、お一人は74歳の女性である。急坂を登り上げる頃から少し辛そうだったのだが、その緊張が一気に溶けて、思わず涙の山頂となった。74歳にしてこの自力と登降意欲、頭が下がる。こんな瞬間に出会う時、ガイドって良い仕事だなあと改めて僕は思うのだ。

二峰を登るKガイドパーティー

 暖かな山頂をゆっくり楽しんで重太郎新道を岳沢へ下山した。一般道とは言え決して侮れない道だ。実際今夏も事故が頻発している。この道を下山路として使う人が多いとは思うが、吊り尾根も含めてかなり難易度が高い縦走路であるのは事実だ。実はこの日も下山中、県警ヘリやまびこ号が飛来した。僕らが前穂山頂付近で出会った登山者の救助のためだが、通報から約4時間後のガス巻く稜線でのヘリ救助であった。一つ一つを確実にこなして岳沢まで下る。

イワキキョウ

 この日時間が遅ければ、岳沢ヒュッテに泊まろうと思っていたのだが、お二人のお客さんも快調だったので上高地まで一気に下ってしまった。所要時間13時間。体力に自信の無い方にはテント泊をお勧めする。


14至福の岩稜 槍ヶ岳北鎌尾根

2014年09月02日 | ツアー日記

 鋭利な鋸刃状の岩稜を持つ槍ヶ岳の北鎌尾根は、あまりにも有名なバリエーションルートである。大正11年の学習院大と早稲田大の初登攀争いも興味深い日本山岳史である。そして稀代の単独行者加藤文太郎が目指した冬季初登攀・・・・そして彼の死。数々のドラマがそこにはある、それが北鎌尾根だ。

 北鎌尾根、このコースの性格は岩登りルートというよりはルートファインディングルートという性格が強い。様々存在するルートを自分自身で見極め、もっとも合理的でしかも満足の得られるルートを選んで登って行くのが、このルートの最大の楽しさだ。 

 十年ほど前になるが、このルートに忽然とペンキマークがつけられたことがあった。北鎌沢の出会いには巨大なケルンとカラフルな籏。北鎌沢のコルには「これからここにペンキマーク付けていきますね、途中でペンキ無くなってしまったらご免なさい、7月某日」の表示。唖然としたが、ここから先、岩という岩に無粋な赤ペンキが吹き付けられ、石ころには赤テープが巻かれて至る所マーキングだらけの状態になっていた。しかもその道はことごとく岩稜を巻く様に付けられ、僕に言わせれば間違ったルートに導かれていた。人は岩峰の前に立つと恐怖を感じ、ついつい巻き道を探す。しかしそんな道は急な斜面のトラバースであり、不安定極まりないルートである。そのマーキングはそんな危険な道に登山者を誘っていた。

 北鎌沢のコルで見かけたマーキングのその日付からすると、それはその時僕らが登った日の二日ほど前に付けられ、僕らがその第一発見者だったのかも知れない。それを槍ヶ岳山荘に通報してその後、この件がちょっとした問題となった。僕は読んでいないが山岳雑誌紙上でも話題となったらしい。

 果たして、ルートファインディングルートにペンキマークはすべきだったのか?

答えはNOに決まっている。自分でルートを見つける楽しさを奪うマーキングという行為は、先人達が通い見いだしてきたルートや、それを繋いでゆく楽しさを奪ってしまう行為だ。立ちはだかる岩峰を目の前にし、我々登山者は恐れおののきそして考える。必死にその弱点を見極めようとする。時にはガラガラのガレ場を巻き、時には勇敢に正面突破を試みる。その、全てを決定するのは自分たち自身であって、それを決めるのは、誰かの付けたペンキマークではないのだ。

 このペンキマークを施した登山者はその後特定された。警察から注意を受けたと言う話も聞いた。北岳バットレスや、前穂北尾根などにもマーキングしてた常習者だった。だが、これは犯罪行為とはならず注意ぐらいしか出来ないのが、現在の法的現状だと言うことだ。国立公園内にペンキマークを施すこと、それは厳密に言えば犯罪にあたる。だがしかし、一般の登山道にあるペンキマークも実は許可を得て施されているわけでもないというのが実際のところなのだ。よって、北鎌尾根にペンキマークを付けた人物を犯罪者とすれば、一般登山道にペンキマークを付けた者も犯罪者としなければならない。だれがそれを管理しているのかは解らないが、一般登山道に関しては行政は「大目に見ている」というのが現実なのだと思う。

 だがこの北鎌尾根の問題は、そこを登ろうとする者達の想像力や自由を奪う行為となるわけで、「マーキングをしない」という先人達の歴史の住み上げをぶち壊してしまう思慮を欠いた行為であったと思う。この後大天井ヒュッテのK池さんらが北鎌に通い、ハンマーで岩をこつこつ叩いてペンキマークを消してくれたのである。お陰で今ではその痕跡を見いだすことは殆ど無い。 

北鎌尾根独標

大豊作の予感 クロウスゴ

 第1日目は北鎌沢の出会いにテントを張り寝た。今年は、雨が多いから、普段は枯れてしまっているこの辺りの沢には水がじゃんじゃん流れている。何年もここに通っているが珍しいことだ。今年の夏は山全体が濡れている、そんな印象だ。ひとたび雨が降れば沢筋はあっという間に増水する。沢での行動は気をつけなければいけないなと考えた。

 急峻な北鎌沢右俣を登り上げると、猛烈なブヨのい攻撃にあった。ここはいつもそうだが、それは恐怖を感じるほどで我々の廻りにはひとりあたま数百匹~千匹のブヨが群がっている。払っても払ってもやってくる。虫除けスプレーをしこたま振りかけるが、殆ど効く気がしない。耳辺りが一番やられるので手ぬぐいを巻いて耳を隠し、とにかく、あまり立ち止まらないよう歩き続けるしかない。立ち止まる者は彼らの格好の餌食となる。

 コルから北鎌尾根をなぞる。天狗の腰掛け、独標、北鎌平への岩稜・・・・・ルートは様々ある。「ここは危ないよね」と思う所にも、はっきりとした踏み後があって、殆どの人がそっちに向かって居るようにも推察される。人は恐いと思うとつい巻き道を選択をすることが多い。その結果、更に恐い思いをし、独標の山頂にも登れず、終始北鎌尾根を巻いて終わると言う人も結構いるのだ。

 不安定な今年の夏ではあるが、この日は快適な登攀となった。テント泊をしているから時間に余裕もあるし、好天が僕らに心の余裕を与えてくれた。危険な場所はロープを使い万全を期して、一つ一つの岩場をこなしていく。人間ズレしていない北鎌の雷鳥にもじっくりと遊んでもらった。そしてそれを狙う猛禽の影。

「だめだよ、こんなところに居たんじゃ、早く隠れなよ」

 クゥクゥ心配そうな親鳥の声、ピヨピヨ呑気な雛たちは、意外と物怖じせずに至近距離まで僕のカメラが近づくことを許してくれた。

 北鎌平を過ぎると、そこは草木の一本も無い岩だらけの世界となる。累々と積み上げられた黒い岩の積み木。乾いた岩の感触はザラッとしてフリクションはバツグンだ。巨石の森を、もっとも合理的に歩こうと考え道を見極める。この何とも言えない楽しさ。時々、大きな岩が動いてゴトッと音を立てる。でもそれは崩れるようなものでは無い。それはゴーロ独特の音、その音が心地いい。

 槍ヶ岳山頂直下のチムニーをロープで登り、僕らは山頂に達した。思わずガッチリと固い握手。お客さんのその手には喜びの力が漲っていた。山頂には一般道から登ってきた10人ほどの登山者が居て「凄いですね、北鎌ですか?」「格好いい!!」と僕らを労ってくれた。そんな歓迎は北鎌尾根を登って来た怖さと苦労を溶かし、僕らに至福の時を与えてくれる。だから僕はこのルートはテント泊をする。夕方の誰も居ない山頂はドラマに欠けるからね。

 ずっと晴れない今年の北アルプスだが、この時ばかりは素晴らしい表情を見せてくれた。祝宴の後の夕日が僕らを再び高揚させた。翌日の下山日、上高地までの道すがら、湧水には目が痛くなるような青空が映る。そしてそれは森の中に深い影を作っていた。

ミヤマモジズリ

14至福の岩稜 槍ヶ岳北鎌尾根

 


南アルプス鋸岳縦走7月25、26日

2014年08月24日 | ツアー日記

ずっと怒っている岩とずっと怒られてる岩

鋸岳は南アルプスのほぼ北端に位置する岩稜の山だ。これより北側の山は標高も下がって樹林の山となり入笠山へ達している。甲斐駒ヶ岳を出て本日の宿泊予定地の六合石室に向かう。南アルプスでは珍しい花崗岩の稜線を北上する。北沢峠からのきつかった登りを思うと鼻歌交じりの快適な下りだ。だが、このルート、地図上の表記では破線の熟達者向きルートである。踏み後は所々いくつかに別れルートファインディングの要素もあるから、それが楽しさでもあり、気をつけなければいけない所だ。

 途中登山道脇に二羽のメス雷鳥を見かけた。普通なら雛を連れ立っている季節だが、何故かメス二羽で砂浴びをしていた。子育てに失敗したのか、はたまた雛たちを猛禽や獣にやられてしまったのだろう。いるのはメス二羽のみだった。砂浴び中の雷鳥はあまり逃げることをしない。めんどくさいから折角作った砂浴び場を放棄したくないのか、足と羽で掘った浴槽にじっとうずくまって、僕らを警戒しながらも時々バタバタ自分の体に砂を掛けていた。お陰で至近距離で撮影が出来た。

砂浴び中じゃましないでね。

 六合石室は現場で切り出された岩を使った結構立派な避難小屋だ。かつてはトタン屋根は穴だらけで、土間はいつもじくじく湿って、とてもじゃないがテントが無ければ泊まれない状態だったが、10年ほど前に屋根が新しく架けられ、雨漏りの心配は無くなった。土間の半分には床も張られ10人ぐらいなら床の上に泊まることが出来る。

 込んでいないことを祈って小屋に入ったが、先客は女性三人と男性ひとりのパーティーが居た。遅れて男性二人。その日の宿泊者は8人となった。他にも少し離れてテント泊が二張り。結構賑わったこの日の六合石室周辺だった。天気の心配が無かったのと、夜中に星空の撮影をしたかったので、僕は石室の一段上にあるいつもの岩屋でツェルトを被って寝た。夜中にふと目が醒めると天の川が滝のように仙丈ヶ岳に流れ落ちていた。寝る前にミニ三脚にセットしておいたカメラのシャッターを押す。まどろみの中30数えてシャッターを切ってまた寝た。

 僕らは空がようやく白んで来る頃、朝一番で出発した。狭い登山道の脇にある草には夜露が降りて僕らの足下を濡らす。ヘッドランプは直ぐに必要なくなって秩父辺りから朝日が昇って来ると、栂の樹林を斜光が真っ赤に染めた。7月の末は天候が安定するから、僕は毎年こんな日の出を味わって居るような気がするのだ。「ああ、もう一年経ってしまったんだな」などとふと思う。

シナノコザクラ

 あまりスッキリしない樹林の稜線を登ったり降りたりしていった。中ノ川乗越を越え、鋸岳第二高点まではガラガラのガラ場を登る。踏み後を外すと足下はグズグズと崩れ、とてもではないがまともには歩けない。慎重にぼくらは登った。

 第二高点からはいよいよ鋸岳のハイライトが始まる。ここから鋸岳までの稜線上は脆く急峻な岩稜帯である。まずは大ギャップを避けるように下り鹿窓ルンゼを登り上げる。粘土質の道に、ぼろぼろの小砂利が混じって緊張する道だ。見上げれば名所中の名所「鹿窓」がぽっかりと空を空かして居る。鹿窓ルンゼは岩が脆く歩く度にぱらぱらと小石が転がり落ちるほどで、鎖を頼りに登ること自体はさほど難しくないが、同行者に落石を落とさぬ事へ気を遣う。大勢で同時行動はとても出来ない場所だ。

鹿窓ルンゼ バラバラの岩場

 鋸岳はやはりこの鹿窓を通過することにひとつの意味があると思う。鹿窓は、稜線直下にぽっかり空いた岩の穴だ。なぜこんなものが出来上がったのか不思議であるが、それは南アルプス林道からもよく見えて、バスのドライバーさんも車を止めて説明をしてくれる。そんな珍しい岩穴に、しかも登山ルートが通っているというのも面白い。ここ以外、この稜線を通過出来る場所は無いのである。

ミヤマハンショウヅル

 鹿窓を通過して稜線に戻り、小さく岩峰を乗り越えて小ギャップへ下る。脆いスラブ斜面に、鎖がぶら下がっているが、脇の草付きにあるジグザグ道を通った方が圧倒的に安全である。いったい何のための鎖なのだろうかと不思議な感じだ。最後は小ギャップの垂壁をよじ登れば危険箇所は終わる。ほっとするこの一瞬。岩場の怖さというよりは、落石に気を遣う事から解放される感じが強いかも知れない。スッキリと晴れたこの日、鋸岳からの眺望はバツグンだった。

 実は、ここからが鋸岳の一番恐ろしいところが始まる。下山路は鋸岳をあとにして、角兵衛沢を下るのだが、ここは悪名高い、ガラガラのガレ場である。行き交う人が作った踏み後もあるにはあるが、この踏み後を忠実に辿ることは、未経験者には難しい。特に下りの場合は僕らでも直ぐ道を見失う。不安定な石に乗ると辺り一面の岩が不気味に崩れ、足下をすくわれる。転んだり、捻挫をしたり、そんな恐怖が1時間以上も続く。鋸岳までは余裕で歩いてきたぼくらも、この下り道でほとほと疲れ果てるのだ。果てしなく感じるこの下りが早く終わってほしくて仕方が無いのだ。はたしてこれは道と言えるのか?・・・・・何度通っても疑問である。それは怒りさえ込み上げる程で、角兵衛沢の中間にあるオアシス「大岩」を過ぎると道は普通の登山道になるが、そこまではひたすら我慢の下り道だった。

ギンロバイ

オアシス

 この日も、良い天気だった。朝の斜光もそうだが、戸台川を飛び石で渡って広大な河原を歩く時の灼熱地獄もこのルートのいつもの風景だ。水流はやがて伏流し、広大な河原はまるで砂漠のようである。陽炎が行く手を揺らす。吹き抜ける風は熱風となり、僕らの汗は瞬く間に乾かされて行くのが解る。手ぬぐいを頭から被ったり、傘を日傘代わりにしたり色々やるが、白砂の照り返しは容赦なく僕らの体力を奪うのだ。

「♪月の~、砂漠を~~はある~、ばると~~~~♪」

などと歌いながらこんな砂漠を2時間。鋸岳の天辺までは余裕だったはずなのに、戸台にたどり着く頃にはへとへとの僕らであった。

 仙流荘にて入浴、伊那名物のローメンは最近不評なので丸亀製麺でスッキリ讃岐うどんを頂く。伊那市駅解散。

鋸岳全容

砂漠に息絶えたカモシカ

 

 

 


14年”祭り”上廊下口元のタルゴルジュにて無念の撤退

2014年08月17日 | ツアー日記

嵐の前の静けさ

 今日は8月17日である。目が醒めると朝8時となっても空はドンヨリとして薄暗く、北アルプスでは地響きの如く断続的に雷鳴が轟いている。黒部川上廊下を悪天候で撤退してきた15日以降、16日17日と激しい雨が降ったり止んだり。北アルプスでは遭難や行方不明者が相次いでいるようだ。

沢靴とモモちゃん

平ノ小屋のアイドルモモちゃんのお見送り

 僕らが上廊下を遡行開始したのは13日であるが、この日は取り敢えず天候は安定していて、厳しいなりにも何とか遡行が可能だった。だが、平水であればスクラム渡渉(何人かでスクラムを組んで歩いて沢を渡りきる技術)でこなせる場所は、とてもではないが危険すぎてそれは叶わなかった。だから増水した川の弱点を見つけ、ひとりがロープを引いて激流に飛び込み泳ぎ渡り、他のメンバーを浮かせて引っ張ると言う方法を全ての渡渉で使った。

 時間は倍も掛かった。人を引くのは相当に体力を消耗する。もちろん体は全身ずぶ濡れだし、ザックは水を含んでずっしりと重くなる。大概の渡渉をスクラムでこなして時々泳ぎ渡渉というのがまともな上廊下の遡行述だから、今年の水量は半端でない事が解る。

泳ぎ渡渉 ぶっこ抜きの力業、だけどこれ一番安全(楽しくて仕方ないとお客さんは言う)・・・だよね。

 それでも僕らは先行の2パーティーを追い抜いて「口元のタル沢ゴルジュ」という差し渡し300メートルに及ぶ最大の難所を突破しようと試みた。ところが、ゴルジュ内の大淵は足が立たぬほど深く、30メートルを指一本だけ壁のクラックに引っかけて水中ヘツリで進んだものの、その先の激流の落ち込み付近では対岸に泳ぎ切る場所を見つけられず突破を諦めた。

 この場所は下手に飛び込むと岩の下に潜り込む水流に呑み込まれる。かつて激流の中を撤退した時ここに飛び込んで九死に一生を得た事がある。増水の川を撤退中ロープを引いてここに飛び込んだ僕はあっという間に水流に飲まれ、訳もわからず水中をもみくちゃにされたあげく、遙か先で水面にぽっかり浮かんだ事があるのだ。幸いにもそれだけだったが、もし何処かにロープがひっかかったり、グルグル回る水流につかまったら敢えなくお陀仏であったかもしれない。だから無理は利かない場所であることは解っていた。

 上廊下は毎年その姿を大きく変える。広大な集水域を上流に持つこの川は、ひとたび大増水となれば狭い川幅いっぱいに濁流が砂や砂利を押し流し、終いには直径数メートルの大岩までも転がし始めるのだ。濁流の水面には波に翻弄されながら巨木が流れ、河床では大岩が転がりお互いぶつかって地響きの如くゴトゴトと音を立てる。それが夜であれば水中に火花さえも見ることがあり、辺りにはきな臭い匂いが立ちこめるのだ。

 そんな大増水が収まれば河床の岩と砂の配置は全く違ったものになって、今までの淵が砂で埋まり、それまでの河原に大淵が出現したりするのだ。だから、上廊下の景色は毎年違って見えて「あれ?こんなところ有ったっけ?」と言うことになる。小さな沢の沢登り、普通の登山やクライミングでは、こんな風に毎年状況が変わるなんて事は先ず無い。これは上廊下ならではのことで、何回来ても初めて来るような感覚が決して僕らを飽きさせない。「さーて、ここをどう突破しようか」といつも考える。去年のやり方は通用しない。これが上廊下遡行の最大の魅力だと言って良い。

 僕らがその日の突破を諦めた頃、朝方追い抜いてきた後続パーティーが追いついてきた。見れば彼らは若い5人組で、その中のひとりの女性が僕の相棒の小林の友人の友人と言うこともあってゴルジュの状態を説明した。彼らは全員上廊下初遡行と言うことであったが、果敢にもゴルジュに入って行く。狭く深い大淵とそれらを繋ぐ激流の落ち込み。陽が入らない300メートルの大ゴルジュ帯は過酷な場所だ。突破する者も待つ者も寒さで歯の根が合わない程ガタガタと震える。普通なら見ただけで「無理っ!」と思う場所だ。その弱点を見つけ突破する。その方法は毎年変わる。

 僕らは少し戻った台地を今晩の宿と決め、テントを設営したり、薪を集めたりしながら彼らの遡行を見物していたのだが、1時間ほどして彼らも諦めて戻ってきた。この周辺には他には適当なビバークサイトは無いので僕らのすぐ脇にタープを張って彼らもビバークだ。幸いこの日は小雨がぱらつく程度で豊富な薪もあって暖かく快適なビバークとなった。ラジオで情報を収集し明日の作戦を立てる。翌日は曇り時々雨、翌々日は再び雨予報。思った程の減水はその日は無かった。立ち上る二つの焚き火の煙が夕暮れの上廊下を下流へと漂っていった。

上廊下にたなびく煙

釣る小林

口元のタルビバーク地、ぬくぬくの焚き火に笑顔

 朝の天気予報を確認して僕らは撤退を決めた。減水が進まぬ事と、翌日の天候が悪いこと、予備日が一日だけの僕らには、このまま遡行を続けることには大きなリスクがあった。山は連日の雨でたっぷりと水を含んで保水力は殆ど無くなっているだろう。広大な集水域に降った雨はそのまま黒部川に流れ込んで来るから、雨が降れば直ちに増水することになる。しかもハイライトの口元のタルゴルジュを突破出来ないのであれば、ここを危険な大高巻きで越えるしかないので、それも大きな問題だった。ひとたび増水すれば、そう簡単に減水しない現状では引き返す選択肢しかなかった。

 お隣の山岳会5人組は予備日が二日あるから高巻いて行くという。それなりの経験のある精悍な若者達?だったから多分大丈夫だろうと思った。

渋滞の下の黒ビンガ、ガタガタ震えて順番を待つ面々

 撤退の中、下の黒ビンガでは登りの3パーティーと僕らで渡渉待ちの渋滞ができた。こんな事は初めてだが、他のパーティーの渡渉法を見物するのも興味深かった。

 奥黒部ヒュッテで撤退の届けを出して平の渡しまで戻った。僕と西山は渡しに乗らず針の木谷へ、小林と下條はヌクイ谷へ釣りに出かける。最後の晩餐に使う岩魚をなんとしても捕って、傷心の僕ら自身を慰めたかったのだが、僕はひとつめの淵で糸鳴りがするほど引く35センチはあるだろうと思われる虹鱒を土壇場でバラしてしまった。その後は25センチの岩魚を一匹釣っただけで、針の木谷で一緒になった釣り師の金ちゃんに32センチを何故か頂いてなんとか形をつけることが出来たが、他のメンバーは大きな声では言えないが釣果ゼロ。お盆の釣りはそう甘くない。

平の渡し「白鳥号」 トローリング中につき超低速航行、見事岩魚を釣り上げていた

岩魚の宴

 最終日、日本列島に横たわるように秋雨前線が出現し、黒部の谷は再び土砂降りとなった。横切る沢は全て増水して白泡をたてて激しく流れ下って行く。上廊下も間違いなく再び増水しているに違いなかった。ダムまでを歩きながら我々とビバークを共にした5人組、下の黒ビンガで出会ったパーティーもみんな大丈夫だろうか?と考えたが、僕らの判断は正解であったと確信を持つのだった。

何故かトランプマジックを披露してくれた平の小屋主人 さとちゃん・・・・飲み過ぎちゃだめだよ~~!

再び増水する黒部(御山谷)

 その後北アルプスは悪天候続きである。今日17日現在、例の5人組も含め上廊下でのパーティーは全て撤退したという情報だが、同じ黒部の支流赤木沢で二人、槍ヶ岳の蒲田川右又ルートで3人、他にも奥穂や八ヶ岳で行方不明や遭難が相次いでいる。今日はドンヨリと低い雲、雷が山を揺らして、断続的に激しい雨が降っている。皆の無事を祈るしかない。

尺岩魚を釣り笑顔がこぼれる

尺岩魚刺身

ハナビラタケとタマゴタケの極上ソテー

岩魚の刺身を造る西山、不安げな小林・・・・まだまだだな



 

 


2014ジャンダルム7月22~24日

2014年08月10日 | ツアー日記

 夜明け前の西穂高山荘をヘッドランプで出発する。天気は心配なさそうだが、バリエーションや、難路に挑む場合は必要なことだ。難路では一般の道に比べてあらゆる意味でリスクが高まるわけで、それを少しでも少なくするには早めの出発を心がけて、時間的、精神的な余裕を持つ事が大切だと思う。また、岩場の渋滞を避ける為にも早立ちは絶大な効果をもたらす。追い抜くことの出来ない岩場で長時間待たされることは、心の疲弊に繋がる。そして焦る気もちは失敗を生み、長時間稜線に留まる事は天候の急変というリスクも高める。山で一番大切なことはそんなリスク管理をすると言うことだと思う。前日から様々な情報を得ること、これから先起こることを想像すること、その為に必要な事をきっちりやる事、やらなくても良いことはしない事・・・・・・・そんなリスク管理が大切だと思うのだ。

 明け行く稜線は実に清々しかった。混雑した山小屋を静かに抜け出して、稜線の風に当たると胸の空くような気持ちがする。山小屋は僕らを守ってくれるとてもありがたい存在だが、夏山の混雑は少し苦手だ。朝弁当で早く出てしまえば次第に明るくなる空に気持ちがみなぎるような思いがする。「よっしゃ!行こうぜっ!」とね。

乗鞍、焼岳、滝雲

 西穂独標を過ぎる頃、空は完全に明るくなって、焼岳方面には滝雲がかかり、空には秋のよう絹雲が光っている。風は乾いて快適だ。昨日西穂山荘の粟澤さんから今日の天候について話を聞いていたから、多少ガスが沸いても一日を通して天候が安定している確信もあった。粟澤さんは西穂山荘の支配人であり気象予報士でもある。毎日、翌日の天候について登山者に説明をしてくれている。山岳気象は通常の平地の天気予報では計り知れないところがあって、それは我々素人には想像出来ないことも覆い。梅雨の時期、里ではドンヨリした曇り空なのに、山の上では雲海を足下に、これ以上ないと言うほどのドピーカンなんて事もしばしばだ。達人の言葉は聞いておかなければ損である。

イワベンケイと笠ヶ岳

 西穂高岳からジャンダルム、そして奥穂高岳にかけては北アルプスでは第一級の岩稜ルートだ。地図上では破線で表されて、熟達者向きという表示がある。僕もここを案内する場合は、お客さんにはヘルメットと、ハーネスを着用してもらって、大きな岩場ではロープを使い安全を確保して歩く。だから岩場が混み合う時などは思った通りのガイディングが出来ないこともあり、朝早く出発したり、土日を避けて平日歩くようにしている。ここは、バリエーションルートやクライミングの現場ではないから、他の登山者をあまり待たせるべきではないし、待たされるのもいやだ。殆どの場合は声を掛ける言葉の力で何とかなるものだと思うのだ。ひとつひとつの岩場の状況を説明する。それを克服する気持ちや体の使い方を説明し理解してもらって、実際それをやって見せれば大概の場合は問題解決だ。

逆層スラブを攀じ登る

 西穂高岳から天狗のコルまでは岩が脆く、特に赤岩岳(間ノ岳)付近は浮き石だらけの場所もある。手元足下が全て信用ならなくて変な緊張を強いられるが、天狗のコルを過ぎて奥穂高岳の領域にさしかかると岩はカチッとして、僕らは快適に高度を稼いだ。岩は乾いていて涼しい風が後押ししてくれていた。

 ジャンダルムは、登山者にとっては特別なピークだ。登山を始めて、槍ヶ岳や穂高岳や剣岳を登ったとしても、奥穂高岳から見るこの岩峰は飛騨尾根を従えてその異様な形状もあって、それぞれの心に焼き付いてしまう。草木も生えぬドーム状の岩峰は見る物を圧倒し、憧れと畏敬の念を心の奥底に芽生えさせるのだ。どうしてもあそこに立ちたい、いつか縦走してそのピークを踏みたいとみんな考える所だと思う。奥穂の方が高かろうが、ジャンダルムは奥穂の衛兵という意味だろうが、やっぱジャンダルムはかっこいいのだ。この日のジャンダルムはどこまでも長閑なピークだった。

意外と薄っぺらなジャンダルムの横顔

  最後の難所馬ノ背を越える。両側はすっぱり切れ落ちた絶壁である。どちらに落ちてもただではすまない。だがこの日の馬ノ背は岩が乾いて小さなスタンスも良い感じで使うことが出来た。西穂高岳からずっと岩場をこなしてきた参加者にとってはひょひょいのひょいっと言ったところだろう。馬の背を過ぎれば、その先は岩礫の広い尾根となって程なく奥穂高岳に着いてしまう。憧れだったこの稜線ももうすぐ終わってしまう。楽しい事はいつか必ず終わってしまう。そんな寂寞感も入り交じって、達成感という単純な言葉では言い表せない気持ちが、それぞれの方の心に浮かんでいるのだろう。ここに至るまで自分の山を走馬燈のように思うのだ。今まで案内した何人かの方が、奥穂高岳の頂上で涙を浮かべているのを僕は見ている。そんな時こちらも釣られてグッと来てしまうのだ。だから、僕は断然、西穂から奥穂に向かうのが好きだ。

 この日も奥穂高岳の山頂でハイタッチ、そして握手。いいよね、やっぱ。

北アルプスきってのクールな山小屋穂高岳山荘

 最終日は雨の一日となる。朝から雨合羽に身を包んでザイテングラードから涸沢へ下り横尾へ、そして上高地まで下山する。雨に濡れた緑が美しいから、写真を撮りながら歩くのがとても楽しかった。「昨日がこんな天気だったら間違いなく縦走は無理だったですね。」とか話しながら、自分たちがあたかも選ばれし存在であるかのような錯覚を楽しめるのもこんな日だ。

 徳沢園ではちょいとした知り合いのウエヤマさんにお客さんの分までコーヒーをごちそうになってしまった。ゴチになりました。

カツラの葉

上高地の中学生達、山が好きになってくれたらなあ

キヌガサソウ

清水川

 


7月の滑落事故のこと

2014年08月06日 | ツアー日記

「きゃあーーーー!」

「止まれーーーー!」 

 僕らは登山口まであと少しという樹林帯の急斜面を横切っていた。悲鳴 が響き渡った。ふり返れば、隊列の中程にいたお客さんがその急斜面を転がって行くのが見えた。そしてそれはどんどん加速し、人車となってグルグル転がりながらあっという間に我々の視界から消えた。某社の聖岳から光岳ツアーの最終日、畑薙大橋登山口まであと少しという場所での事である。

 南アルプスの山体は釣り鐘状の場所が多く、登山口付近に急坂が存在する。ここもそんなところで斜度はおそらく35度ぐらい。樹林帯ではあるのだが南アルプスの樹林帯の林床には藪も笹もない場所が多い。ここもまさしくそんなところ。登山道を横切りながら、ずっと見通す谷底にゾクッとすることがよくある。だから、下山の時にはワンピッチ毎それを説明し、注意喚起をしている。特に最後のワンピッチは。

 滑落者は女性。同様気味のパーティーに取り敢えず落ち着いてもらって、添乗さんに後を頼む。もちろん救助要請も頼む。残念ながらここは携帯が通じない。

 そして僕は斜面を下って行った。足下は小砂利で、一足毎に足下が崩れる。木やわずかに生えている灌木に捕まって落石を落とさぬよう下った。彼女が滑落していったと思われるラインをはずしてその脇を下る。100メートル程下るとペットボトル、更にその先にザックカバー。本人はまだ見えない。わりと疎らな樹林の斜面だが、もちろん大きな木があるし、小砂利の斜面から岩盤も露出しているし、ゴロンとした石も無数にある。心の中には絶望しか無かった。転がり始めた時のスピードを思うと、とても助かる事故ではないと思った。早く見つけてあげたい、いや見つけたくないと言う気持ちが交錯した。

 大井川の河床が見えた。最後の斜面は完全な岩盤で斜度は更に急になって、大井川の河床に達していた。その岩盤を木に捕まってようやく河床に着く頃、ザックを背もたれに横たわった状態の彼女の姿が見えた。背中側が見えて、表情はわからない。

「おーい、大丈夫!」

反応は無い。だが、目をこらすと彼女はかすかに動いていた。

「大丈夫ですか?」何度か声を掛けるが、ふり返ってはくれない。だがどうやら彼女は、顔を拭いている様子だった。

 彼女は生きていたのだ。

「大丈夫ですか?よく頑張ったね」

ようやく彼女の所までたどり着いて声を掛けた。多少ぼんやりしているが、ちゃんと話すことが出来る。顔には額と頬に2箇所の大きな裂傷。顔はパンパンに腫れて傷が深い。血まみれだ。早速滅菌ガーゼと三角巾で圧迫止血する。止血をしながら、話しかけたり体を観察したりした。左手が痺れて動かない、胸が痛い、その他は大丈夫という。見るかぎり顔の裂傷以外は出血や骨折の様子も無かった。

 しきりに、僕を気遣い「ごめんなさいねえ、赤沼さん。もう少しで解放されたのにねえ。」と彼女は何度も言う。自分の名前はもちろんわかっているし、僕の名前さえ覚えていてくれた。こんな時よく記憶を失う人がいるが彼女の受け答えは明晰だった。踏み外した瞬間は覚えていないが、転がっている最中は覚えているという。出血よ止まれと念じつつ彼女の顔を手で圧迫止血した。幸い程なく出血は止まった。

 彼女が滑落してようやく止まったのは大井川の河床で、見ればすぐ脇に畑薙大吊り橋があるところ。参加者を引き連れた添乗が橋を渡っていく。

「大丈夫、生きてるよ!救助要請早くお願い!」他の参加者も心配そうにこちらをふり返っていた。考えてみれば彼女は斜度35度~40度の斜面を200メートル近く滑落し、その間、岩や立木に頭をぶつける事もなくここまで転がり落ちてきたことになる。何に対してではなく、僕は今目の前にある事全てに対して感謝した。傍らにある河原の石ころや流木にまで感謝した。

 それから、僕らはひたすら救助隊を待った。少しだけでも歩いてみますと彼女は言うのだが、結局一歩も動くことは出来なかった。手足の骨折は見えないにしろ体の内部はどうなっているのか解らない。一応、意識がちゃんとある事だけが救いだった。一刻も早くヘリが飛んできてほしかった。だが、ヘリは一向にやっては来ない。次第に空模様は不安定になり雷が轟いた。雨も降り始めたので、彼女をレスキューシートで覆い二人でツェルトを被る。

「お父さんに怒られちゃう、もう山に行かせてもらえなくなっちゃうわね。」

「そんな事ないよ、生きて帰ればお父さん絶対怒らないから大丈夫。絶対生きて帰るよ・・・ねっ!」ツェルト中でそんな会話を何度もした。

 対岸から橋を渡ってきた関係者に悪天候でヘリのフライトが無理で上流から救助隊が入ると告げられた。担架で搬送とのこと。対岸には大井川林道が有るのだが河床までは全て垂直に近い崖で、搬送可能な場所は上流に1キロほど行ったところしかない。滑落事故が起きたのが午前10時前。そして静岡市消防局の山岳救助隊が到着したのがおそらく午後1時頃。僕も夢中でこの時の時間の感覚がぶっ飛んでしまっている。ユニフォームに身を包んだ若い救助隊員達の到着がどれだけ心強かったことか。入念な身体チェックのあと救助隊6名で広大な大井川の河原を担架搬送する。連絡を終えた添乗員も合流した。雨が降り続いていた。

 河原を30分搬送し、大井川の本流を渡る。対岸の不安定なガラ場を必死に登りようやく救急車へ収容した。出発までには更に時間が掛かった。救急車の中はうかがい知ることは出来なかったが、おそらく命に別状は無いと言う判断で、緊急の手当をしていてくれたのだと思う。 

 救急車には添乗員が同行して、僕は離団を許され、警察車両で自家用車まで送ってもらった。道すがら救急車の他にも、レスキュー車や、警察車両など、沢山の関係者が見えて、頭を下げずにはいられなかった。沢山の人に迷惑を掛けて、お世話になった。申し訳ないと思う。

 山岳ガイドという職業、やればやるほど恐い仕事だと思う。一般の樹林帯をロープで繋いで歩くわけにも行かない。僕らが出来るのは、注意喚起をし続けるだけである。特に最後のワンピッチはここまで大きな事故でなくとも、怪我は良くあることなのだ。だから決まって最後「気合い入れていきましょうね。」と声を掛ける。だが、これは確率の問題でもある。事故がゼロになることは絶対にないのも事実だ。その確率を減らすように努力するのが僕らの仕事だ。

 登山口静岡市畑薙地区は静岡市内から車で3時間ほどかかる場所にある。通常、井川消防署の救急車は井川から静岡に向かい、途中静岡から来る救急車にリレー搬送される。ずっと曲がりくねった山道で重傷者を乗せた救急車はスピードを出す事は出来ない。搬送にはとんでもなく時間が掛かるのだ。僕が帰路についた後、某社の担当課長から連絡が入った。最終的には天候が回復してヘリにて静岡市内の病院に収容されたとのことであった。左腕、肋骨、骨盤が骨折。頭や内臓は無事であるとのことであった。命に別状は無し。事故から7時間以上を費やしての搬送であった。彼女は本当に頑張ってくれた。ありがとうございます。一刻も早い彼女の回復を祈る。

これは奇跡である。感謝!

 

 

 


台風一過 劔沢の夕焼け小焼け

2014年07月15日 | ツアー日記

劔沢小屋のおかあさん 里子さん いつも笑顔で迎えてくれる

 台風8号が列島を通り過ぎて台風一過の北アルプスは素晴らしい夕焼けとなった。この美しさは言葉に言い表せない。ただただ感動するばかりである。

 今や、ここ劔沢でも携帯電話の電波を拾えるようになって、SNSも繋がるから、北アルプス周辺に住む僕の友人達の投稿でそれが劔沢だけのものでは無く、北アルプス一帯が真っ赤に焼けていると言うことがわかる。安曇野でも、白馬でも今年一番の夕焼けだったのだ。

 予感がして外に出てその時が来るのを待つ。夕焼けの一番良いところはほんの数分のものだ。次第に高まる気持ち。意外と焼けなくてハイ終わり!なんてこともよくある。だが、この日の劔沢は違っていた。台風の置き土産、高く漂う高層の雲に残照が当たり、雲に反射された光は優しく僕らの世界を照らした。 

 ゆっくり眺めていたい気持ちもあるのだが、カメラを持つ僕の心の中はまったく穏やかではなかった。パニックにも近い心理状態・・・・・ここに集うみんな・・・・それはまさしく興奮のるつぼだった。 

 「明日は良くなるぞ」・・・・・・そんな予感しかしない夕暮れ時だった。