ここのところすっかり春めいて山の雪は春山のそれになりつつある。こんな時期の雪は上部の吹きだまりではパウダーであるが、吹き晒しではカリカリのハードパックとなり、標高を下げれば次第にやっかいなサンクラストやベト雪が入り交じった状態になって、山スキーを楽しむには難儀な季節である。しかし、リラックスして思い切りかっ飛ばせなくても、時に隠れたデブリにヒットして足をとられようと、刻々と変化する雪に情熱と勇気を持って取り組むのは、たまらなく楽しい事である。
ほんの一日雪雲が沸いて新雪パウダーを楽しめそうだったので、栂池周辺に滑りに出かけた。期待していた新雪はそれほどでも無く少しがっかりだったが、板にシールを貼り付けゲレンデトップから歩き始めて小ピークへ登り上げる。そして北面に滑り込んだ。ちょっとした斜面変化で雪は刻々と変わる。勇気をもって踏んでいかないと、板は言うことを聞いてはくれず、自分の行き先さえままならぬ。恐怖とそれを乗り越えようとする自分とが交互に現れる。ワンターンで乗り遅れても次のターンで修正していかなければその先にある結果は惨めな転倒である。
滑り込んだ谷から対岸の斜面を登りあげた。クラストした雪面を板でバンバン踏んで、氷の層を打ち破っては登る。ガスが沸いて目指す方向は肉眼では定かではないが、時々地図と睨めっこしてすすんだ。
ふと上部からの視線を感じる。見上げると藪の向こうに黒い影が見えた。カモシカだった。カメラを取り出し、首にぶら下げゆっくりとカモシカに近づいた。カモシカはニホンジカと違って人影を見つけると直ぐに逃げてしまうような事は少なく、驚かせなければかなり接近出来る事もある。
以前八ヶ岳で林道を歩いて居て目の前を親子のカモシカが横切ったことがあった。母親はそのまま山に入ったが、子供は林道に立ち止まって僕らに興味を持っているようだった。ゆっくり近づいても子カモシカは一向に動かず、とうとう僕は彼の鼻先に触れさせてもらう事ができた。母親はというと心配する風でもなく、10メートル程先でふり返って僕らを見つめているだけだった。そんなカモシカだから、これが狩猟の対象となっていれば、瞬く間にその数を減らしたことだろう。
一説に因ると目が悪いのだとも言うのだが、今回のカモシカもこちらに興味津々で、僕と友人を交互に見つめてはじっとして動かない。20メートル程まで近づいて写真を撮らせてもらった。
ガッチリした体格にキリリとした眼差し、何とも言えぬ威厳と風格が漂う。ところが正面から見る顔は意外にユーモラスで愛らしい。おそらくアブラの乗りきった牡であろう。フサフサの体毛の背中の辺りには、自らの活発な代謝に因って蒸散した汗が霧氷のように凍り付いているように見える。帰宅後写真を拡大して見たら、鼻水を垂らしていることも判明した。過酷な北アルプスの冬を彼らは何一つ所有せず、常に風雪にその身を晒して乗り切るのだ。人間の如何に弱っちいこと。真に尊敬すべきは彼らである。
静かに高揚した時間が流れた。
10分ほど睨めっこしてとうとう僕らに飽きたのか、彼は体を翻して悠然と雪山に消えていった。カモシカと別れて尾根を越え再び北面に滑り込む。ガスが巻いてはいるが、適度に樹間の空いたブナの森は快適でパウダースノウも結構楽しめた。狭い谷底に降り立てば、ガリガリのクラストが僕らを手荒にお出迎え。必死で滑って白馬乗鞍スキー場にゴールしてハイタッチ。
難儀だからこそ、楽しい楽しい山滑り、そして、勇者との出会いであった。