舞踏家であり松本アンダーグラウンド界のボスだった本木幸治(こうさん)が突然亡くなって六年が過ぎその7回忌が、彼が生前造りあげた松本ヴィオパーク劇場で行われた。
ヴィオパーク劇場は松本市の北の方、旧四賀村の山の中にひっそりと佇む。
劇場はダイナミックに組まれた梁に壁は土壁塗りっぱなし、客席は土間になっていて荒削りな外観であるが、正面奥にはカチッと組まれた美しい檜の舞台を配する。
こうさんのこの舞台に対する思い入れが伝わって来る場所だ。
色んな人が言う「松本には変は人がおおい」と言うことは、おそらくそれはコウさんが松本に存在していたからに他ならない。
なんかはみ出しちゃった人間達のお家みたいなところをコウさんはいつも作る人だった。
夢寂、彗星クラブ、エイハブ船長、そしてヴィオパーク劇場。
売れない芸術家や音楽家達はコウさんの店に集った。
ヒッピー達は旅の途中松本にしばらく滞在しては、コウさんがやっていた工事現場への資材搬入やビルクリーニングの仕事をやらせてもらってはまた旅を続けた。
仕事終わり、彼らの夕食は大概コウさんの店で食べて帰るから、コウさんから支払われた給料はまた彼の店に戻って行く仕組みになっていたのだが(笑)
いつも安くて旨いモノをいつも喰わしてくれた、そしてみんなで毎晩よく飲んだ。
松本にはコウさんがいるからあそこに行けば大丈夫だとみんなが思うようなところだった。
僕もよく通ったし、そこで知り合った友達は世代を超えていまでも大勢いる。
この世の中には色んな人が居るんだと知ったのはそう、まさしくコウさんのところだった。

コウさんは松本を拠点に活動していた舞踏家だった。
彼が舞踏を始めた頃、実は僕も誘われるまま訳もわからぬまま一緒に白塗りをし街で躍ったことがある。
高校生の頃演劇部に所属していたしテント芝居にも興味があったのは確かだが、舞踏となるとそれはまったく未知のモノで、それが意味するところなど何も理解など出来るものではなかったが、なんか面白そうだなとコウさんにしたがったのだ。
街の人に通報されたのだろう、警察官がやって来て、我々のでたらめなパフォーマンスは敢えなくハンパな結末を迎えることになる。
そんな松本の街だったが、その後のコウさんの活動によって今では白塗り舞踏家たちが商店街のお祭りに呼ばれるまでになった。
松本の人達は白塗り舞踏家にであっても驚かないし、子供達も怯えて泣いたりはしない。
コウさんは色んな人を繋げたひとだ。
昼は工事現場に出かけ、夜は飲み屋を経営し、様々なイベントを企画しホンモノのアーティストを呼び続け、そして自ら踊ったひとだ。
コウさんのまわりにはいつも友人達が居て、その友人同士がまた繋がっていくそんな場所の真ん中に居る人だった。
そしてこの日もコウさんが最後に造りあげたこのヴィオパーク劇場に沢山の人が集っていた。
盟友怪物サックス奏者の梅津和時さんや多田葉子さんも駆けつけてくれた。
こんな素晴らしい人達と一つ同じステージを造りあげることが出来るのも、コウさんのお陰なのだ。
僕にとってこうさんと出会ったか出会わなかったかと言うことはおそらくとても大きな意味を持つ事だったのと思う。
そしてそう言う人はきっと僕だけじゃないはずだ。
たまらなく懐かしい。
こうさん、また会いたいね。